18 俺の愛しい愛しい愛しい妻
そのあとのことを少し話しておこうと思う。
まずアイザック殿下だが、アスタの脅しが本当に効いたらしく、あれ以降何も言ってこなかった。
実はアスタには話していないのだが、王家とガルヴィネ辺境伯家との間にはある秘められた盟約がある。
その昔、建国の際には王家への忠誠を誓い、尽力を惜しまなかった我がガルヴィネ家。当時国境付近には得体の知れない魔物が群れをなして生息しており、人々の生活を脅かしていたという。勇猛無比で知られたガルヴィネ家は数多の犠牲を払いながらも魔物たちを一掃し、引き続き国境の守護を引き受けるべく辺境伯領を預かることにしたらしい。王家はガルヴィネ家の比類なき献身を称えて敬意を表し、以降ガルヴィネ領には一定の裁量権を与えると同時に一切の口出しをしないと、もし約束を反故にするようなことがあればガルヴィネは迷うことなく反旗を翻し、王の首を取ることも厭わないと盟約を交わしたのだ。
アイザック殿下は、恐らくその盟約を知らなかったのだろうと思う。だからあんなにも威圧的に、大それた要求をしてきやがったのだ。ガルヴィネを怒らせたらただじゃ済まないと、ガルヴィネにだけは逆らうなと、陛下もエリック殿下も知っている。辺境伯家が王家に対してなかなかに横柄なのは、実はそういう背景があったりもする(ちなみにフレデリク殿下が俺にはそれほど楯突いてこなかったのを見ると、あいつも盟約のことは知っていたんだろうと思う)。
アイザック殿下からの理不尽な要求を受けてすぐに早馬を飛ばしたことで、辺境伯家は王家に対して強い抗議の意を示したに違いない。訳もわからず突然ガルヴィネ家から責め立てられた王家は「首を取られる!」と大騒ぎになって、誰が何をしたのかを調べ、そして突き止めたのだろう。アイザック殿下が陛下やエリック殿下からだいぶ絞られたということは、エリック殿下からもそれとなく聞いている。いつも鬱陶しいほど調子のいい王太子殿下がやけにしおらしい態度で「本当に悪かった」と何度も言うもんだから、俺も最後には笑ってしまった。
ただ、アイザック殿下は誰に何を言われても、最後までアスタの能力のことは話さなかったようである。アスタの秘密を漏らしてしまったら、自分の秘密をも暴露されてしまう。自身の抱えるコンプレックスが白日の下にさらされることを、それほどまでに恐れているらしいアイザック殿下。外見なんてどうでもよくね? と思う俺にはてんで理解ができないが、頭の切れる第三王子は意外にも金髪でないことや背が低いことをいまだに気に病んでいるんだとか。まあ、「見目麗しい」という賛辞が枕詞のようについて回る王族の一員としては、受け入れがたい事実なのかもしれないが。
「何をコンプレックスに感じるかは、人それぞれなのではないですか? アイザック殿下にとって、他の王族のみなさまと異なる外見は絶対に知られてはいけない恥ずべきものなのでしょうから」
淡々と話すアスタの目には、心なしか憐憫の色が交じる。
「でもさ、そうやって偽って取り繕ったあいつのことなんか、誰も本気で相手にしてくれないんじゃないか?」
「そうでもないと思いますけど?」
あっけらかんとした声は、どこかはしゃいでいるようにも聞こえる。
「そんなアイザック殿下でもいいとおっしゃる方が、すぐ隣にいてくれるのですから」
「まあ、確かになー。あれには驚いたよな」
数日前に発表されたアイザック殿下とレイラ嬢との婚約は、世間的には大方の予想通りで概ね好意的に受け止められている。切れ者と噂のアイザック殿下のほうが、凡庸と評されたフレデリク殿下よりも稀代の才女の隣に相応しいと誰もが思っているのだろう。
だから、俺たちが驚いているのはそこではない。そこではなくて。
「まさか、レイラ様がずっとアイザック殿下のことをお慕いしていたなんて」
ふふ、と小さく笑ったようにも見えたアスタが天使と見紛うほどの尊さで、ほう、というため息しか出ない。なんだこの可愛すぎる生き物は。可愛さの最終兵器か。まじで可愛すぎて死にそうなんだが。
二人の婚約が正式に決まった日、レイラ嬢はアスタにだけ、本当の気持ちを打ち明けてくれたらしい。
『実はわたくし、幼い頃からずっとアイザック殿下のことをお慕いしていたのですよ』
『ほんとですか!?』
『ええ。公爵家というのは、代々王家と近しい家柄ですから子どもながらに王宮に登城することもたびたびあったのです。フレデリク殿下とアイザック殿下は年も一つしか違いませんし、よく一緒に遊んでいて』
『ちょっと意外ですね……』
『でも私の気持ちとは裏腹にフレデリク殿下との婚約が決まってしまい、私はこの恋心を胸に秘したまま生きていこうと心に決めたのです。今思えば、フレデリク殿下は私の気持ちに気づいていたのかもしれませんが……。私たちの関係は、最初から冷ややかなものでしたから』
『そう、なのですね……。でもあの、いいのですか?』
『何が?』
『アイザック殿下って、切れ者とか策略家とか言われてますけど、なんていうかちょっと腹黒っていうか、根性がひん曲がってるっていうか、そういう噂も……』
『あら、よくご存じですのね?』
『は?』
『アイザック殿下って、昔からそうなのです。見た目がちょっと、ほかの王族のみなさまと違うせいか妙に性格がねじ曲がってるというか、それでいて頭が切れるから生意気っていうか』
『え』
『でもそんなところが、なんだか愛おしくて。あの方、本当は焦げ茶色の髪なんですけど言うことを聞かない大型犬みたいで、なおさら放っておけないのです』
そう。
レイラ嬢には全部バレていた。というか、全部知っていた。
そしてレイラ嬢は、そのすべてを知ってなおアイザック殿下への恋情を失うことはなかったのだ。
ちなみに、フレデリク殿下との婚約が解消されたあと表情が暗かったのは、意気消沈していたわけでは決してなく、アイザック殿下との婚約がいよいよ現実味を帯びてきて気もそぞろだったかららしい。いやまじで、人の心の内側なんてわからないものだ。
婚約が決まってからというもの、レイラ嬢が嬉々としてアイザック殿下のあとを追い、何かにつけて世話を焼こうとする姿が頻繁に目撃されるようになった。生意気な大型犬を手なずけようと日々奮闘しているらしい。アイザック殿下も、最初こそ「僕のことはいいんだよ!」「放っといてくれ!」なんて反抗期の少年そのまんまなセリフを声高に叫んでいたが、いつのまにほだされたのか、レイラ嬢が貧血か何かで倒れたときには真っ先に飛んできてお姫様抱っこで保健室に連れ去った。
「レイラがいなくなったら、生きていけない」
あとでアスタとギデオン、リディア嬢とこっそり保健室を覗きに行ったら、二人がいい感じにいちゃいちゃしてたから黙ってその場をあとにしたのは四人だけの秘密である。
こうして学園はいろんな意味で本当の平和を取り戻し、数カ月後アスタは無事に学園を卒業したのだった。
◇◆◇◆◇
結婚式の日は、快晴だった。
純白のウェディングドレスに身を包んだアスタをひと目見て、ついに女神が降臨したのかと拝みそうになってしまった。繊細な刺繍とかふんだんに使ったレースとかふんわりしたドレスラインとかアスタの好みを最大限尊重しつつ、肩の辺りの開き具合ではだいぶ揉めたのだが。でもアスタの可憐さと上品さが存分に引き出された実際のドレス姿を前にしたら、まじでなんも言えねえ、と思った。もうやばすぎて爆ぜそう。
結婚式には想像以上にたくさんの人が集まった。本当に、想像以上だった。
辺境伯領からはるばるやって来た俺の両親と兄はもちろん、エリック殿下、レイラ嬢とアイザック殿下、ギデオンとリディア嬢、それからロドニーとハルワード先生。そういえばロドニーは、マティアスと婚約していたアデラ・ブルーム子爵令嬢との婚約が決まったからアデラ嬢と一緒だった。アデラ嬢もかつてはアスタに何度も助けられていたらしい。
それにしても、この列席者の豪華さは何なんだ。王族が二人も来てるし、次期王立騎士団長もいるし、クヴィスト商会の後継者もいる。アスタが学園に入学した頃、こんな結婚式になるなんて誰が想像できただろう。友だちが一人もいなかったアスタは今、幸せを共に祝ってくれる多くの友人たちに囲まれている。
ほんと、感無量すぎて尊いしかない。
微笑ましい気持ちで、俺は今日、ラナルフ・ミルヴォーレになった。
その日の夜。
初めて使う夫婦の寝室に向かうと、すでにアスタがかつてないほど沈痛な面持ちでソファに座っていた。部屋に一歩入っただけで、そのびりびりとした緊張感が伝わってくる。
「アスタ」
声が、上擦った。自分も緊張しているのだと、否が応でも気づかされる。
強張る空気を解きほぐすように、俺はできるだけゆっくりとアスタの隣に座る。
「……緊張してるのか?」
黙って頷くアスタ。
「怖い、か?」
優しく尋ねると、アスタは俯いたまま弱々しく答える。
「……大丈夫です」
「無理すんなよ。別に、今日じゃなくてもいいんだし――」
とか大人ぶって言いつつも、内心ではここまでもう嫌というほど待ったのにそれだけは勘弁してくれと叫んでしまいそうな俺。それでもやっぱり、アスタに無理強いはできないししたくもない。すでに暴れ出しそうになっている煩悩や衝動やその他もろもろの欲望の類いを必死に脳内から押し出していると、アスタのコバルトブルーの瞳が不意に決意を宿す。
「だ、大丈夫です。何をどうするのかは、だいたいわかっていますので」
「は? わかってる? なんで?」
「だって、『見えた』ので……」
「え」
……ちょっと待て。
何が、いや何を『見た』?
「『見えた』って、何が? え、どういう――?」
「ですからその、ラナルフ様が日頃想像? していたものが……」
「は? なんで? 想像してただけで、別にその、実際の記憶じゃ――」
「でも想像したという記憶が残っているので……」
「…………まじで?」
ってことは。
俺が妄想していたあんなことやこんなことまでアスタには見られてたってことか……?
………………………………いや、恥ずい。やばい。言葉がない。
衝撃の事実にフリーズする俺を横目に、アスタは慌てたように言い募る。
「あ、でも、すべてというわけではなくあくまでも断片的なものですし、イメージトレーニング? にもなりましたし、その、ちょっと恥ずかしかったですけど、そこまで求められていると知ってうれしくもあったというか……」
「……ほんと?」
「はい。私だって、ラナルフ様の妻になる覚悟はできていますので」
凛とした瞳で俺を見つめるアスタがこの上なく可愛くもあり、頼もしくもあり、そして誰よりも愛おしい。
俺はアスタの頬にそっと触れて、その感情の見えない麗しい顔を覗き込む。
「じゃあもう、待たねーよ」
アスタが目を閉じたのを合図に、俺は遠慮なく、そして心おきなく、愛しい愛しい妻を愛し尽くしたのだった。
これで本編完結です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
次回、番外編が続きます。
前・後編の全二話です。