16 婚約者の暴走◇
目が覚めたとき、世界は痛みと苦しみとが満ち溢れていた。
人に触れるたび、微笑む目の前の人物が怒り、嘆き、叫び、打ちひしがれる映像が否応なく飛び込んできて、私は混乱した。どこまでが現実でどこからが夢なのか、何が本当で何が嘘なのか、そもそも一体何が起きていて自分はどうなってしまったのか、そのすべてが曖昧で確たる輪郭を失い、恐怖に震えるしかなかった私の表情は動かなくなった。
そしてある日、本来人には見えるはずのないものが見えているのだということに、ようやく思い至る。それは私に触れる人の心の中に残る、強い感情を伴う記憶。その記憶の断片が、自分の意志とは関係なく見えてしまうのだと気づく。でもそれに気づいたところで対処のしようがあるわけもなく、私は次第に人の強い感情にさらされるのを恐れ、人そのものを遠ざけるようになった。
そんなとき、ラナルフ様に出会った。
柘榴のような色をした少し長めの髪は燃えるように美しく、薄墨色の瞳は凪いでいて、初めて会うというのに私はこの人が自分にとって唯一無二の存在になることがわかってしまった。でもこんな異常な自分と生涯を共にするのは、酷なことだとも思った。だから尋ねたのだ。私でいいのかと。
「いいよ、俺は」
事もなげに答えたラナルフ様の笑顔を、忘れることなど一生ない。
婚約してからも、ラナルフ様の優しさは変わらなかった。二週に一度は会いに来てくれるラナルフ様に、私はいつしか圧倒的な安心感と信頼感を抱くようになっていた。ラナルフ様は、絶対に私を傷つけない。裏切ることも、脅かすこともない。なぜだかそう信じられたから、人の『記憶の残滓』が見えることを打ち明けるつもりでラナルフ様に触れたのだ。
でもまさか、あんなにも私のことばかり考えているとは思わなかった。恥ずかしかった。と同時に、うれしかった。次々に現れる自分自身の映像に気後れしながらも、なんとか私は秘密を打ち明けて、ラナルフ様はそれを当たり前のように受け入れてくれた。
それから今日まで、ラナルフ様は変わらず私を大切にしてくれて、いつでも一番に考えてくれて、常に心強い味方でいてくれた。優しい兄のような存在に対する絶対的な信頼感が、焦がれるような恋心へと花開くまでさほど時間はかからなかった。ラナルフ様はいつも「アスタは俺のすべて」と話していたけれど、私にとってもラナルフ様は光であり、希望であり、私のすべてだった。
お互いの気持ちをきちんと確かめ合って、愛しい想いで触れてくれるようになって、何度も何度もキスを重ねて、幸せな未来を疑いもしなかった日々は突然終焉を迎える。
昨日、アイザック殿下に呼び出された私は一気に地獄に突き落とされた。
私の能力に気づいたアイザック殿下は、公表されたくなければラナルフ様との婚約を解消すること、そして新たに自分との婚約を結び、その力を王家のために使うことを強要した。
そして、こうも言った。
『もちろん、ラナルフが君を手放さそうとしないことはよくわかってるつもりだよ。あんなに溺愛してるんだ、簡単に引き下がらないことなど百も承知だよ。でも、よく考えてほしいんだよね。もしも君たちが婚約解消に抵抗したら、王家としてはラナルフはもちろんガルヴィネ辺境伯家に対しても何らかの措置を取らなきゃならなくなる。言ってる意味、わかるよね?』
『……措置とは、どういったことでしょうか』
『うーん、そうだねえ。まあ、辺境伯家がなくなったとしても、王家としては痛くもかゆくもないからなあ』
アイザック殿下はそう言って、人を食ったようなふてぶてしい笑顔を見せたのだ。
殿下の要求を聞いたラナルフ様は、静かに激怒した。アスタは絶対に渡さない、王家に思い知らせてやると言い切って、すぐに行動を開始した。詳しいことは何も教えてくれなかったけど、ラナルフ様が何をしようとしているかなんて、わからないはずがない。
ラナルフ様は、そしてガルヴィネ辺境伯家は、王家に反旗を翻そうとしている。
私一人を守ろうと、私との未来を守ろうとして、王家に弓引く覚悟なのだ。
そんなこと、絶対にさせてはいけない。ラナルフ様や辺境伯家に、国家反逆の罪を負わせてはならない。ラナルフ様が私を一番に考えてくれるように、私だってラナルフ様が一番大事なんだもの。この先何があっても、ラナルフ様にはいつだって明るい太陽の下で光り輝く未来を歩んでいってほしい。
願わくは、その未来に私もいたかった。いつまでもラナルフ様の隣にいたかったけれど。
私は一人、王宮の豪奢な応接室に通される。
「こんなに早く来てくれるなんて、思ってなかったよ」
昨日とはうって変わって無邪気な笑みを浮かべるアイザック殿下は、いそいそと向かい側のソファに座った。少し前のめりになりながらもある程度の距離を保って、にこやかに話し出す。
「ラナルフは承諾してくれたのかい?」
「……いえ」
目を逸らして小さく答えると、アイザック殿下は訝しげに首を傾げる。
「……どういうこと?」
「ラナルフ様が婚約解消を承諾してくれることはないと思います。ですから今日は、私の一存でここに参りました」
「ラナルフがどんなに嫌だって言っても、君は僕を選んでくれるってこと?」
「……殿下が望むのであれば」
「うれしいね」
途端に上機嫌になったアイザック殿下は、ひと目で高価とわかる上品なティーカップに手を伸ばす。そして紅茶をひと口飲んだあと、満足そうに目を細める。
「じゃあ、今後のことを話し合おうか?」
「……その前に」
私はすっと背筋を伸ばし、動かない表情筋をいつも以上に強張らせてアイザック殿下を見返した。
「殿下に一つ、お願いがあるのです」
「お願い? 何?」
「私は殿下のお望み通りにするとお約束いたします。ですから殿下も、この先どんなことがあろうとも、絶対にラナルフ様とガルヴィネ辺境伯家を脅かしたり害したりしないとお約束いただきたいのです」
「……へえ」
呆れたような不愉快そうな、それでいて面白いものでも見るかのような目で、アイザック殿下はにやりとほくそ笑む。
「健気だねえ。それほどまでに、ラナルフが大事?」
「ラナルフ様より大事なものなど、この世界には存在しません」
「未来の夫の前で、そんなこと言うんだ?」
「事実ですので」
「妬けちゃうなあ。それじゃあ差し詰め、僕は愛し合う二人を引き裂く悪役王子ってとこかな?」
おどけたように嘲る口調が、だいぶ鼻につく。でも私はそれには答えず、「お約束いただけますか?」と再度尋ねる。
「仕方がないなあ。まあ、いいよ。約束してあげる」
「では、ご一筆いただけますか」
「うわ、見かけによらず用心深いんだね」
アイザック殿下はこれ見よがしにため息をついて、それからそばにいた侍従に目配せをする。
侍従はすぐさま紙とペンとを持参して、殿下の前のテーブルにささっと用意した。殿下は紙を手にして「なんて書けばいいんだっけ?」とか言いながら、適当にペンを走らせる。
「これでいい?」
乱暴に手渡された書面に、私は目を通す。じっくりと、時間をかけて、隅から隅まで穴が開くほど見つめ続ける。その視線の先に見えていたものは、決して殿下のミミズが這ったような下手くそな筆跡などではなく。
目当てのものを見つけて、私は静かに顔を上げた。
「ではアイザック殿下。これからのことについて、お話ししましょうか?」
売られたケンカは買わなくてはならない。
なぜなら私は、ラナルフ・ガルヴィネの婚約者なのだから。
次回はまたラナルフ視点に戻ります!