11 悪魔の微笑み
あれから数日がたった。
ギデオンはすっぱりと心を入れ替えたのか、フレデリク殿下たちと距離を置くようになった。代わりに、授業時間以外は「師匠」「師匠」と無駄に連呼しながら俺に付き従っている。俺の真似をして毎朝の鍛錬を始めたのはいいのだが、ずっとさぼっていたツケなのか、体中が痛いと毎日悲鳴を上げていて鬱陶しい。
でもギデオンが俺のまわりをうろつくようになったおかげで、ラッセル男爵令嬢が姿を現さなくなったのには助かった。ギデオンはまだラッセル男爵令嬢に対して複雑な想いを抱いているようだが、それでも以前のような激しい恋情のようなものではないらしい。俺と一緒にいるようになったことで本来の婚約者であるリディア嬢とのやり取りも復活し、なんだかんだ言って楽しそうではある。ランチタイムが思いのほか、賑やかというか騒々しい時間にはなっているが。
そんなある日。
いつもの時間より少し遅れて職員室に俺を迎えに来たアスタが、帰りの馬車に乗り込んだ途端いつもの無表情をさらに硬直させて「ラナルフ様」と呼んだ。
そしていきなり、俺の手を強く握ったのだ。
「な、なんだ!?」
一応言っておくが、アスタから俺に触れることはあまりない。というか、ほとんどない。
俺が本能のまま、欲望のままにアスタに触れることのないよう日々自制しているのと同様、アスタのほうも不用意に俺に触れるようなことはしない。触れても『記憶の残滓』をまったく見ないようにコントロールすることはできるようだが、結構な集中力を要するうえに疲労感が半端ないからだ。
というわけで、いきなり手を握られた俺のほうが不意打ちを食らって焦りまくった。
「ど、どした?」
「私、さっきモニカ様に呼び出されまして」
「は!?」
間髪を入れず投下された爆弾発言に、俺は激しく動揺してひっくり返りそうになる。
「なんだよそれ! なんで一人で行ったんだよ? 大丈夫だったのか?」
「はい。まあ、なんとか……」
と言いつつ大丈夫でなさそうなのは、ひと目見ればわかる。なんせ、自ら俺の手を握り、しかもかつてないほど長時間触れているのだ。普通の状態ではない。はっきり言って、異常事態である。
「…………こんなに長い時間、触れてても大丈夫なのか?」
恐る恐る尋ねると、アスタはほんの少しだけ、かすかに表情を和ませる。
「大丈夫です。むしろ、ラナルフ様の『記憶の残滓』は相変わらず私に関するものばかりなので、安心感があるなあと」
「……まあ、否定はしないが」
もちろん、否定はしない。否定はしないが、アスタにずっと手を握られているせいで、俺の頭の中のありとあらゆる煩悩の類いが暴れ出しそうになっているのだが。
俺がどれだけ長い間、どれだけの精神力でアスタへの不埒な本能と衝動を抑え込み続けてると思ってんだ。いまだに触れることには細心の注意を払っているこっちの身にもなってほしい。アスタのほうから触れられて、俺の健全な煩悩が大人しくしているわけがない。ほんとにもう、人の気も知らないで。
次々に溢れて飛び出して、コントロール不能に陥りそうな穢れた欲や妄想を不屈の理性でなんとか意識下に押し留めようと必死になっていると、アスタが不意に大きなため息をつく。
「……実は、モニカ様に『ラナルフ様を解放してあげてください』と言われたのです」
「は?」
思いのほか、不機嫌な声が出てしまった。なんだそれは。
暴発寸前の煩悩を頭の隅に追いやりつつ、眉間に皺を寄せたまま話の続きを促すようにアスタを凝視する。アスタはちょっと、言いにくそうに目を背ける。
「……モニカ様に一人で来るようにと言われたので指定された空き教室に行ってみたら、私の顔を見るなり『どうしてあなたがラナルフ様の婚約者なのよ!?』とおっしゃって」
「どうしても何もないだろ。またしょうもない因縁つけやがって」
「『どうせ政略で結ばれた婚約なんでしょ!』と頭ごなしにおっしゃるので『そうですが』とお答えしたら、『愛のない婚約なんだから今すぐ解消しなさいよ!』と言われてしまいまして」
「……ちょっと待て」
俺は体ごとアスタのほうに向き直り、どこか不安げなその顔を覗き込む。
「確かに俺たちの婚約は、もともとは政略的な意味合いの強いものだった。でも決して『愛のない婚約』なんかじゃないってことは、もうわかってるよな?」
「……はい」
頷きはするが、こっちを見ない。アスタの不審な動きに、俺は言い知れぬ不安を覚える。
「アスタ」
「はい」
「一応確認するけど、俺がアスタを好きなのはわかってるよな?」
「……はい」
「なんでこっち見ないんだよ」
「え」
驚いた拍子に顔を上げたアスタにすっと自分の顔を近づけると、一瞬で目を見開いて、そして次第にその頬が赤く染まっていく。
「今だって、俺の『記憶の残滓』が見えてるんだろ?」
「……はい」
「アスタのことばかりなんだろ?」
「……はい」
「こんなにアスタのことしか考えてないのに、なんで信じねーの?」
「それは……」
言い淀み、逃げるように視線だけを動かすアスタの呼吸は浅い。まるでキスでもしそうなくらいの近さでじっと見つめていると、アスタはおずおずと口を開く。
「ラナルフ様がいつも私のことを考えてくれているのは理解しています。でもそれは、『記憶の残滓』が見えてしまう普通じゃない私を放っておけないラナルフ様の優しさや誠実さの表れだと……」
「ん? じゃあ何? そこに愛情はないと思ってんの?」
「愛情がないとは思っていません。でも言うなれば、妹を大切に思うような愛情なんだろうなと……」
「なんでそうなるんだよ?」
さっきよりも数段不機嫌な声になってしまったのは仕方がない。俺は取り繕うこともせず、アスタの答えを根気強く待ち続ける。
どうやら見逃してもらえそうにないと悟ったアスタは、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でつぶやいた。
「……だってラナルフ様は、私に触れようとしませんし……」
「は? アスタに触れないのは『記憶の残滓』のことがあるからに決まってんだろ?」
「それは……、わかってますけど……」
「いくら俺の記憶に害がないとはいえ、無駄にいろんなものが見えたらアスタだって疲れるだろうと思って」
「それは、そうなんですけど……」
「……けど、なんだよ?」
「……でも私はもっと、ラナルフ様に触れてほしいし私も触れたいのです……」
なんとか言い終えて、でもすぐに真っ赤になって俯くアスタに俺は絶句する。
ま、待て。ちょっと待て。
さっき脳内の隅っこに押しやったばかりの煩悩の類いが狂喜乱舞しながら復活を果たし、形勢逆転とばかりに一気に襲いかかってくる。頬を染めて、恥じらいながらも触れてほしいと打ち明けるアスタの神懸かり的な可愛らしさを前に、俺の理性がじりじりと焼き切れていく音がする。そして黒い翼と尻尾の生えた俺そっくりの悪魔たちが頭の上を飛び回り、ニタリと笑いながら「やっちまえ!」「やっちまえ!」と口々に叫んでいる。
もう何もかも放り出して衝動のままにアスタを押し倒してしまいたいという渇望をすんでのところでばっさばっさと薙ぎ払い、俺はぎこちなくアスタを見返した。
「……アスタ」
「はい」
「……ほんとにもっと、触れてもいい、のか?」
「……はい」
「そんなこと言われたら、ほんとに、本当にあちこちべたべた触りまくるけどいいのか?」
「……ラナルフ様も、触れたいと思っていたのですか?」
「そんなの当たり前だろ? 俺がどんだけ我慢してきたと思ってんだよ」
「え」
「言っとくけどな、俺はお前が想像してる百倍は触れたいと思ってきたし、なんならお前が想像すらしてないようなことだってずっと妄想してたんだからな」
「え」
「でもお前がいいって言うなら、もう遠慮しない」
そう言って、俺はすぐ目の前のアスタの唇に、そっと触れるだけのキスをする。
「え……」
「……大丈夫か?」
「……思いのほか、大丈夫みたいです……」
ぽーっとなって呆けたように答えるアスタがあまりにも可愛すぎたから、俺はどんどん赤みを増していくその耳元で「好きだよ、アスタ」と低くささやく。
そしてもう一度、震える唇にゆっくりとキスを落とした。