10 侯爵令息の改心
翌日。
「なんで俺が……」
「そういう約束だっただろ?」
昼食の時間、ギデオンの教室に向かうとフレデリク殿下とその愉快な仲間たちが一様に引きつった顔を見せて後ずさる。
「俺に負けたら、子分になれって言ったよな?」
「は? そんなの――」
「忘れたとは言わせねーよ。ほら、行くぞ」
「は? ちょ、待て……!」
かっさらうようにギデオンを殿下たちから引き剥がし、向かった先はカフェテリアのいつもの席。
ギデオンを連れて行くと、今度は和やかに談笑していた令嬢たちの顔が引きつった(アスタに関しては真顔のままだった)。
「ラナルフ様、なぜ……?」
「昨日、模擬戦のことは話しただろ?」
「はい」
「俺に負けたら、ギデオンは子分になるって約束だったんだよ」
「は!? そんな約束、してない――」
「今更何言ってんだよ。負けたんだからもう諦めろ」
「あ、あんなの、勝ったとは言えないじゃないか! 卑怯だろ!」
「うるさいな。昨日先生も言っただろ? 殴ったらダメなんてルールはないんだよ。ガルヴィネじゃあ、何やったって勝てばいいんだから」
「ここはガルヴィネじゃないだろう!?」
「あーもういちいちうるさいな、お前」
俺たちのやり取りを見て、リディア嬢があからさまに目を丸くする。
「いつのまに、そこまで仲良くなられたのですか?」
「仲良くなってねえし!」
「ほんとこいつ、ぎゃんぎゃんうるさいね」
「お前のせいだろう!」
「お前お前って、俺は一応学園の特別講師なんだからな。しかも王太子殿下にわざわざ直接頼まれて来てるんだから」
「う……」
「ということで、今日からギデオンは俺のことを師匠と呼ぶように」
「はあ!?」
ガタンと椅子を倒すほど勢い余って立ち上がるギデオンを見て、リディア嬢もレイラ嬢もくすくすと楽しそうに笑みをこぼす(なお、アスタは真顔のままである)。
「ラナルフ様」
そんな中、真顔のアスタが恐ろしく可愛らしい仕草で首を傾げた。
「ギデオン様をお連れしたのには、何か理由があるのでしょう?」
「まあな。さすがはアスタ、可愛いだけじゃなくてほんとに俺のことよくわかってるよな」
思わずアスタの頭をなでる俺に、ギデオンが不快感からか表情を強張らせる。
「なんだお前、そのだらしないデレ顔は……」
「うるさいよ。てか、師匠だろ、師匠」
「う……」
「俺がギデオンを連れてきたのはさ、いい機会だからこの前お前たちが揉めてたお茶会の話をきっちり聞こうと思ってな」
そう言うと、先日の騒動の当事者であるリディア嬢がハッと表情を硬くする。
「あのときはラッセル男爵令嬢の悪口を言った言わないで揉めてたけどさ。実際のところはどうだったんだ?」
できるだけ優しい口調で尋ねると、リディア嬢は物憂げな目をしてしばらく押し黙る。それから、諦めたようにゆっくりと口を開く。
「……悪口は、言ってません」
「そうか」
「ただ、悪し様に言っている人はいました」
「嘘つけ!」と叫ぶギデオンに、アスタとレイラ嬢の冷たい刃物のような視線が突き刺さる。その圧に押されて、ギデオンは心なしか小さくなって背中を丸めている。
「そういうお茶会に行くと、最近は殿下たちやモニカ様の噂話で持ちきりなんです。だからみなさん、興味本位で私にもあれこれ教えてくれるのですが」
「うわ、めんどくさそう」
「はい。『リディア様も災難ですね』とか、『ギデオン様をモニカ様に奪われてさぞお怒りでしょう?』とか、『あんなはしたない令嬢にたぶらかされるギデオン様もギデオン様ですわね』とか、みなさん面白がってお話しされるんです。だから曖昧に返事をするしかなくて」
困ったように視線を落とすリディア嬢の声には、抑揚がない。
「……だってよ、ギデオン」
「そんなの、ほんとかどうかわかんないだろう!?」
「まあな。でも多分、この前お前たちが証人だと主張してた令嬢たちが、本当は悪口を言ってた張本人なんだと思うけどな」
「は? なんでそんなこと……?」
「そりゃお前、今リディア嬢も言っただろ? 面白がってるんだよ。下衆で低俗な令嬢に簡単にたぶらかされた身分の高い男たちと、その一番の被害者である婚約者たち。これからどうなっていくのか噂話は尽きないだろうし、こんなに楽しい醜聞はない。おまけに炎上すればするだけ楽しめるから、暇つぶしにはもってこいなんだよ」
「暇つぶし……」
少なからずショックだったのだろう。ギデオンは真剣な顔つきになって、すっかり黙り込んでしまう。
「あの、ガルヴィネ先生」
リディア嬢がちょっと前のめりになって、思い詰めたようなただならぬ顔つきになる。
「見ての通り、ギデオンはバカですが」
「は!? リディア、お前何言ってんだよ!」
「なによ、ほんとのことでしょ?」
「あー、もう、だからお前のそういうところが嫌なんだよ!」
「……それは、私も悪かったと思ってるわよ」
突然リディア嬢が目を伏せて、震えるような弱々しい声になるからギデオンも「え……」と気勢がそがれてしまう。
「……私とギデオンは、実は幼馴染なんです」
「あ、そうなの?」
「はい。母親同士が学園時代からの親友で、その縁で婚約も決まったんです。でも昔からこんなふうに、言い争いになってしまうことが多くて。小さい頃から知っているので、ギデオンが剣術の才能がないと内心悩んでいたこともほんとは知ってたんです。それなのに私、そんなの鍛錬を続ければなんとかなるでしょって軽くあしらってしまって」
「へえ」
「でもギデオンにとっては、もっと深刻で切実な悩みだったんだと……。以前、モニカ様がそのことでギデオンを慰めているのを偶然見かけたことがあるんです。そのとき、私はギデオンのことを何にもわかってなかったんだと気づいて……。ギデオンがモニカ様を好きになるのも、仕方がないなって……」
「リディア……」
「だから、ごめんね、ギデオン。ずっと、謝りたいと思ってた」
「え……」
「気づいてあげられなくて、わかってあげられなくて、ほんとにごめん」
最後は涙声になって、それでもリディア嬢はどうにか笑顔を作ろうとする。ギデオンは何も言えなくなって、「あ……」とか「いや……」とかつぶやきながら戸惑いぎみに視線を泳がせる。
「まあ、確かに、ギデオンに剣術の才能はないよな」
そんなしんみりと沈んだ空気などお構いなしで、俺があっけらかんと、軽い口調ですっぱりと断言したら途端に辺りは凍りついた。
「は!? お前……!」
「今はな」
「……今?」
「そう。今のお前には、剣術の才能はない」
「どういうことですか?」
冷静なアスタの声に応えるように、俺は淡々と説明を続ける。
「才能とかセンスなんてものはな、努力や鍛錬でどうとでもなる。あと経験な。長いことやってれば、誰だってそれなりに上達するからな。でもそれは、自分には素質や才能がないと自覚するところから始まるんだよ」
「自覚……?」
「代々騎士団長を務める家門に生まれながら、剣術の才能がないと自覚するなんて屈辱以外の何物でもないだろうけどな。それでも、自分の力の不足や限界を正しく知る者こそ、強くなれると俺は思う」
「ラナルフ様は、今でも毎朝の鍛錬は欠かしたことがありませんからね」
アスタがタイミングよく助け舟を出すと、ギデオンは「そうなのか?」とストレートに驚いている。
「そりゃそうだよ。鍛錬を怠れば体がなまるし、感覚も鈍るしな。自分の不足や弱点をカバーするには、努力し続けるしかないんだよ」
「……はい」
「だからさ、お前がもし、これからでも真っ当に強くなりたいと思うなら、俺がしっかり鍛えてやるよ」
「……ほんとに……?」
その目には、もはや怒りも苛立ちも焦燥もなかった。ただただ真っすぐに、本来の自分が追い求めていたものを取り戻したような鮮烈さのみがあった。
「俺は……、強くなれるのか……?」
「それはまあ、お前次第じゃね?」
からりとおどけた調子で答えると、ギデオンの目に大粒の涙が溢れ出す。
この日から、ギデオンは俺の一番弟子になったのだ。