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1 俺の可愛い婚約者

「ラナルフ様。ただいま帰りました」



 執務室に戻ろうとしたところで、後ろから愛しい婚約者の声がした。



 振り返ると、学園の制服を着た婚約者がゆっくりと歩いてくる。



「おかえり、アスタ。学園はどうだった?」

「いつも通りです、ラナルフ様」



 淡々と、完璧なまでの無表情で答える婚約者。傍から見れば無愛想で素っ気なくて、しかもまったく感情の読めない冷たい反応である。婚約者であるはずの俺に対して、だいぶ他人行儀でつれない態度だと非難する人もいるかもしれない。



 でも実は、そうじゃない。



 長いこと一緒に暮らしてきて、いつもそばにいた俺にはわかってしまう。アスタは今、学園でのことを話したくて話したくて仕方がないらしい。



「執務室で一緒にお茶でも飲むか?」

「……はい。着替えてきます」



 表情を一切変えず、俺の脇を通り過ぎるアスタリド・ミルヴォーレ侯爵令嬢。



 彼女は俺の、可愛い可愛い婚約者である。






◇◆◇◆◇






 俺たちの婚約が決まったのは、今から七年前。俺が十八歳、アスタが十歳の頃である。



 アスタはミルヴォーレ侯爵家の一人娘だが、実は九歳の頃、原因不明の高熱で三日三晩生死の境を彷徨ったことがある。幸い一命は取り留めたものの、目が覚めたあとのアスタは人が変わったように何かに怯え、他人に会うことを怖がり、自室にこもるようになってしまったらしい。



 一人娘の様子を心配し、行く末を案じた侯爵夫妻は「将来の相手が決まれば気持ちも変わるのでは」と婚約者選びに奔走し始める。貴族同士の派閥争いや利害関係を鑑みた結果、白羽の矢が立ったのはガルヴィネ辺境伯家の次男である俺だった。俺はその頃王立学園に通っていて、八歳の年の差はあったけど、むしろそのほうがアスタの状況を理解した誠実な対応をしてくれるのでは、という侯爵家の期待があったらしい。




 初めての顔合わせの日。



 アスタは怯えた様子で、母親である侯爵夫人に手を引かれながら応接室に入ってきた。顔色は青白く、生気が感じられない。淡いバニラベージュ色の髪はふわふわと波打っていて可愛らしいが、コバルトブルーの瞳には不安と警戒の色が沈む。ただ、あまり面識のない使用人に接することさえ怖がっているアスタも、将来を共に過ごす婚約者が決まったと聞けばやはり好奇心には勝てなかったらしい。憂いを抱えながらも勇気を出して顔合わせの場に来てくれたそのいじらしさが、俺にはすでに好ましく映った。



 その後、二人きりで庭に出ることになった。



 夫人が「アスタは他人に触れられるのをとても嫌がるのです」と言っていたから、俺はエスコートを諦めてただ並んで歩いた。アスタは終始無言で俺のほうを見ようともせず、視線はずっと下を向いたまま。



「ラナルフ様」



 庭の噴水の辺りまで歩いたところで、アスタが突然立ち止まる。



 俺を見上げるその顔は、無表情ながらも悲痛な想いに縁取られていた。



「私のような、普通じゃない人間と婚約なんてよろしいのですか?」

「え?」

「私は見た通り、表情に乏しく無愛想で、それどころか他人と接することに恐怖すら感じる人間です。ラナルフ様に触れることすら、できないかもしれないのに」



 十歳にしてはずいぶん大人びた物言いだな、と思った。子どもらしくない子どもだな、とも思った。



 でもだからこそ、この子は人知れず、そして人には言えない何かを抱えているのではと思わずにはいられなかった。



 要するに、なんだか放っておけなかったのだ。



「いいよ、俺は」



 からりと答えると、アスタが一瞬だけ目を見開く。一瞬だけでも変化したその表情に、俺はそこはかとない優越感ともっとこの子を知りたいという胸騒ぎにも似た感覚を覚える。



「君こそ、俺でいいの?」

「え?」

「もっと年の近い令息のほうが、話も合うだろうしすぐに慣れるかもよ?」



 そう言うと、アスタは黙ったままじっと俺を見つめる。あまりに真剣に、しかも長い時間見つめられて俺のほうがだんだんそわそわと落ち着かなくなってくる。



 もうこれ以上は、と思ったところでふっと空気が緩んで、アスタが答えた。



「ラナルフ様が、いいです」



 相変わらずの無表情ながらも、声にはかすかに恥じらいが滲む。それだけで、俺は満足だった。





 それから、少なくとも月に二回は侯爵家に顔を出した。



 俺は王立学園入学と同時に実家であるガルヴィネ辺境伯家を出て、学園の寮に住んでいた。学園生活の合間を縫って侯爵家に顔を出すたびに、アスタが少しずつ俺という存在に馴染んでいくのがわかる。感情が顔に出ることはまずないが、「ラナルフ様」と呼ぶ声に歓喜の色が交じるようになり、俺が行く日は今か今かと玄関で待っていてくれるようにもなる。思った以上にすんなりと俺に懐いた娘の様子を見て、侯爵夫妻もほっと胸を撫で下ろしていたらしい。



 そうして、たびたび会うようになって知ったこと。それは、アスタが存外おしゃべりだということだった。



 俺が行くと、アスタは日々の生活のあれこれをほぼ一方的に報告し始める。



「新たに年若い侍女を二人雇い入れることになったのです。ゆくゆくは私の専属侍女にするつもりだと、お父様がおっしゃって。一人はサラという名前で、もう一人はリーンというのですが、サラはちょっとおっちょこちょいだけど人懐っこくて話しやすいのです。リーンはてきぱきしていて仕事ができて、髪を結うのなんかとても上手なのです。今日もラナルフ様がいらっしゃるので、気合いを入れて準備しますと張り切ってくれて。でも私が二人を褒めて、このまま専属侍女になってほしいと話すととても気まずそうな顔をするのです」



 ちなみに、言うまでもなくずっと無表情である。無表情のまま、話し続けるのである。ニコリともしないわりに、放っておくと何時間でも話し続ける少女。どんなものか想像してみてほしい。





 そんな日常を過ごすようになった、ある日のこと。



 俺が侯爵邸を訪問すると、アスタはいつもの通り一方的に話し出した。



「先日、お父様に会いたいとセルデン伯爵という方が訪ねてきました。すごく腰の低い、控えめな印象の方でした。新たな事業提携を持ちかけてきたようで、お父様もだいぶ興味を示してかなり長い時間話し込んでいました。その方が帰るとき、たまたま私と廊下で会って『可愛らしい娘さんですね』と私の頭を撫でたのです」

「え、撫でたのか?」

「はい」

「大丈夫だった?」



 何度も言うようだが、アスタは他人に触れられるのを極度に嫌がる。嫌がるなんてもんじゃない、恐怖すら覚えるのである。その時点では俺もまだアスタに触れたことなどなかったし、初対面の人間に触れられてさぞかし怖い思いをしたに違いない。



 案の定、アスタの答えは惨憺たるものだった。



「大丈夫ではなかったです」

「え」

「突然でしたし避けることもできず、でも恐怖のあまり倒れてしまいました。結局、そのことがきっかけでセルデン伯爵との事業提携の話はなかったことになったようです。申し訳ない気もするのですが、自業自得とも思いますし、むしろあの方とかかわりあいにならずに済んでよかったのではと思います」



 能面のように動かない表情で、平然と話すアスタ。



 婚約者の俺でさえ、まだ一ミリもアスタに触れていない。どんなときでも、誤って触れてしまうことのないよう一定の距離を保っているくらいだ。アスタがいいと言うまで俺はいつまででも待つつもりだけど、その俺を差し置いてアスタの頭を撫でるなんてどこのエロ親父だ。



 なんて半ば腹立たしく思いながら、話を聞いていると。



「ラナルフ様」

「なんだ?」

「……ラナルフ様に、触れてみても、いいですか?」



 すべての感情を殺したような顔をして、アスタが俺を見据えている。



「え、どうした?」

「ラナルフ様なら、大丈夫なんじゃないかと、思って」

「いや、無理しなくてもいいんじゃね? そのうち、慣れてきたらで」

「今、試したいのです」



 有無を言わせぬアスタの圧に、俺のほうがたじろいでしまう。妙な緊張感に冷や汗をかきながらも、俺がアスタを拒否するなんてあり得ない。できるわけがない。



「……じゃあ、どこに触れてみる?」



 言いながらアスタを見返すと、アスタはおずおずと手を伸ばして、俺の手の甲にそっと触れる。




 ……その瞬間。





「え?」



 アスタは明らかに驚いて、でも手を離すことはなく、そのまま「え?」「なんで?」「えー……」なんて訳のわからない独り言をつぶやきながら、みるみる頰を染めていく。



「どうした? 大丈夫か?」



 表情は変わらないが、見るからにおかしい。今まで目にしたことのない反応に面食らっていると、



「ラナルフ様、あの……」

「なんだ?」

「どうして私が、他人に触れるのを怖がるのだと思いますか?」



 突拍子もない問いに、思わず狼狽える。考えたことはあったが、考えたってわかることでもない。「さあ……」なんて曖昧に言葉を濁す俺に、アスタは突然意を決したような顔をする。





「実は私、人の『記憶の残滓』が見えるのです」


 











本編は全18話の予定です。

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