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第十章・一日(三)

 一日(三)


 あれから何時間が経っただろうか。

静まり返った病院の通路を駆けて来る数人の足音が、ベンチで俯いて座っている紀伊也の足元で止まった。

「紀伊也」

顔を上げると、肩で息をした晃一が立っている。

「司は?」

晃一の後ろからナオが顔を覗かせた。

 紀伊也は無言で、顔をあちらへ向けた。「手術中」赤いランプが光っている。

その下の隣のベンチには、貴賓きひん威厳いげんの備わった男性と、その夫人と見られる女性、その隣で夫人の肩を抱いている夫人よりも少し若い女性が座っていた。

司の両親と使用人だった。

 父親は目を閉じ、黙って腕を組んでいる。 母親の方はハンカチを握り締め、時折、嗚咽おえつにも似た息を出しては使用人に支えられていた。

「まだ、か・・・」

晃一が自分の腕時計を見ると、午前3時を回っていた。

秀也が紀伊也の足元にボストンバッグを置いた。

「とりあえず着替えろ。そのままじゃ・・・」

秀也の視線に気付いて、紀伊也は自分の視線を自分の胸から下へと移して行った。

 秀也に言われるまで気付かなかったが、よく見ると、ステージ用の白いシャツは、両袖が引きちぎられ、腕からその指先に至るまで血が付いている。

そして、何よりその白いシャツは赤い血に染まっていた。

手も洗わず、そのままでいたのだ。

司の父の亮太郎に手を洗って来るよう言われたが、その場を動く事も出来ずにいた。

「紀伊也」

秀也はポンと肩を叩いた。

一瞬秀也を見上げると、まるで操り人形のように立ち上がり、バッグを手に洗面所へと向かった。

 紀伊也は鏡に映った自分の姿を見てゾッとしてしまった。

髪にも頬にも血が付いている。そしてシャツは真っ赤に染まり、肩から出た腕にも、その指先にも血が付いていた。

 思わず自分の目を疑った。

全身、司の血で染まっていたのだ。

 -これは自分の血ではない・・・、司の血だ!! 俺がついていながら・・・っ。

自分の目の前で、口から血を吐き、倒れて行く司を思い出した。

 キュッと唇を噛み締めると蛇口を思い切りひねる。

音を立てながら水が勢いよく出て来た。


 紀伊也が行った後、さっきまで腰掛けていた所に秀也が座った。その隣に晃一が腰を下ろす。ナオは壁に寄り掛かって宙を見ていた。

三人共に無言だった。

疲れていた。

 ヘリコプターが去った後、会場内や外は大混乱になっていた。スタッフと共に、騒ぎを抑えるのに必死だった。

スタッフも冷静さを欠いていた為、走り回っていた挙句、ステージのセットをめちゃめちゃに壊してしまったのである。

 とにかくスタッフを落ち着かせようと、ナオと秀也が冷静に指示を出していた。

晃一は、半狂乱になったファンを落ち着かせる為に、必死で何か喋っていた。

警備員や警察の協力もあって、ようやく事態が収拾した時には、既に日付が変わっていた。


 ******


 何故、ジュリエットのメンバーは、いつもこうまで冷静でいられるのか、スタッフは思った。

 いつもそうだ

何か事()る毎に、彼等には助けられている。大抵はリーダーの司が指示を出し、他のメンバーがそれに忠実に従って行く。スタッフもそれに圧倒され、殆ど言いなりだった。

が、しかし、その対処はいつも完璧なまでに的確だった。

それに、ここ最近の事件にしても騒ぎにならずに済ませている。今日もそうだ。

 でも、今日はその司が倒れた。生死さえ危ういというのに、的確な判断と指示が下されている。

普通なら仲間が、ああいう事になれば、こんなに冷静でいられる事が出来ないだろう。しかもスタッフに気を遣ってくれてさえいた。

 そして、今日はメンバーの中でも、一番気性の静かな紀伊也が動いたのだ。

その対処は司にもおとってはいなかった。

 騒ぎが収まると、全員合わせたかのようにヘリコプターの去って行った方を見上げると、紀伊也を信じた。


 司は生きていると・・・。


 ******


 落ち着いた足音がして、三人がそちらを見ると、着替えた紀伊也がやって来る。

時折、髪に手をやり、頭を振って、水しぶきを落としていた。

先程まで抜け殻のように茫然としていた紀伊也だったが、いつもの落ち着きを取り戻していた。

三人の疲れ切った顔を見ると、申し訳なさそうな視線を送った。

「すまなかった、大変だったろ」

三人はしばらく黙って紀伊也を見ていたが、やがて「まあな」と晃一が応えた。そしてそのまま壁にもたれて頭をつけると、上に向かってふうっと息を吐き、

「お前に比べれば、大した事じゃない」

と付け加えた。

ナオも秀也も同感して頷いた。

「それにしても・・・、長いな。どれ位だ?」

ナオが訊いた。

 紀伊也は病院に入ってから初めて時計を見た。そして、腕時計を見つめながら考えた。

 確か、ヘリが来る時に時計を見たら8時過ぎだったか・・・。 時間を追って行くと、恐らく手術中のランプがついたのが9時位だろう。

「7時間くらい経つか・・・」

時計の針は、4時近くになっていた。

 ようやく、スタッフが二人来た。

マネージャーのチャーリーと透だった。二人共、疲れと汗でぐちゃぐちゃだ。

「どうだった?」

紀伊也が二人をねぎらうように訊いた。

「何とか・・・」

チャーリーが応えた。

 チャーリーは、司が付けたニックネームだ。本名は「知亜理ちあり知人ともひと」と言うが、最初に会った日に、司にすぐチャーリーと呼ばれた。それに困った時の顔が、スヌーピーのキャラクターのチャーリーブラウンにも似ているのだと、司に大笑いされたのだ。

本人も何となく気に入っていた。 以来、皆、本名で呼ばなくなった。

「司は?」

チャーリーは心配そうに、手術中の赤いランプを見たが、紀伊也は黙って首を横に振った。

二人は茫然として紀伊也と三人を見た。

「他のスタッフは?」

ナオが訊く。

「会場の片付けをして、その後、全員事務所に」

透が応えた。

「そっか・・・」

ナオと紀伊也は、ふうっと息を吐いた。 秀也は終始無言のまま、自分の足元を見ていた。

「いつ終わるか分からない手術を疲れた体で待つのはつらいだろう」

紀伊也が気遣う。

「やめて下さい、そういう事言うの。紀伊也さんだって、みんなだって辛いじゃないですかっ。 俺達より辛い筈なのに・・・ っ!」

透が吐き出すように言った。

「それに・・・」

言いかけて、紀伊也の制する目に気が付いて、口をつぐんだ。

「紀伊也、俺達だけじゃない、全員気持ちは同じだ。せめて手術が終わるまで待とうぜ」

晃一が言った。


 突然、皆の沈黙を破るかのように、手術室の扉が開かれた。廊下にいた全員が立ち上がり、扉に注目する。

 出て来たのはみやびだった。

白衣を羽織っているが、中に見える白いワイシャツは、汗で胸に張り付いている。

額にかかった前髪も濡れていた。その顔からは、とても手術が終わったとは言えなかった。

しかし、雅も必死で冷静になろうと取りつくろっていた。

「ボンっ」

紀伊也が声を荒げて雅に近づく。

雅の表情から司の危険な状態を察したのだ。

一瞬、紀伊也に目をやり、何か言いたそうだったが、すぐ亮太郎の方へ行くと、まず一礼した。

そして、黙って首を横に振った。

 まさか・・・ !? 

全員が絶句し、息を呑んだ。母親は小さな悲鳴を上げて倒れそうになり、慌てた使用人がそれを支えた。

「雅君・・・」

亮太郎の声は落ち着いているが、半ば諦めかけている。

「いえ、まだ・・・大丈夫です」

その一言で、司がまだ生きている事を知った。

「ただ・・・」

思い詰めたような雅の声が、重苦しく響いた。

「ただ?」

「足りないんです。余りにも出血が、多過ぎたんです。弾は全部で32発。30発は取り除きましたが、心臓に近い所に2発。今はそれを取り除く事が出来ません。いつ発作が起こるか・・・。 何故、あんなにまともに喰らったのか、解らないっ」

雅は唇を噛み締めた。

 司の白い肌がえぐられていた。

心臓の手術で、何度かメスを入れてはいたが、あんなにも切り刻むようにメスを入れたのは初めてだ。外へ流れて行く血を見ながら、これを、誰のものでも救う事が出来ないのだと思うと、胸が締め付けられた。

「亮の分はどうした?」

「それも・・・使い果たしました。しかし・・・」

「それでも駄目か。・・・足りん、という訳か」

亮太郎は一瞬目を閉じて天をあおぎ見た。またしても、自分の子を見殺しにする事になるのか・・・。

 輸血用の血液が足りない。このままでは司が・・・死ぬ!?

誰もがそう思った時、紀伊也が雅の前に進み出た。

「やるしかないだろう。・・・可能性に懸けるしかない」

雅は驚いて首を横に振った。

「馬鹿な事を言うなっ! まだ、出来るかどうか分からないんだ。下手をすればそれこそ命取りになる。お前が殺す事になるんだぞ」

「でも、やってみなければ分からない。今、アイツを死なせる訳にはいかないっ」

「しかし」

司を助けたい。

それは雅にしても同じだった。しかし、紀伊也のやろうとしている事は、まだ未完成だった。

雅は唇を噛んだ。

「どの道助からない命なら、その可能性とやらに懸けてみてもいいんじゃないのかね、雅君」

亮太郎が、静かに、そして冷ややかに言った。

 自分の子を捨て駒のように扱う冷酷な亮太郎・Rが、司を生かす可能性に懸けるというのだろうか。

雅には信じられなかった。

 あの時、まだ助かる筈の亮は見殺しにした。それなのに、助からないかもしれない司を助けるというのか。

 それとも、これはそのつぐないなのか?

「紀伊也君、やってくれるか?」

亮太郎は紀伊也を見つめた。

 この男に懸けてみるしかないのか・・・

紀伊也は黙って頷くと、右手の指三本を胸に当てた。

「この命を司に」

Rだけに聞こえるように言って顔を上げると、二人に背を向けて皆の所へ戻った。

雅にはまだ信じられないでいた。そこまでして、タランチュラを必要とするのか。

が、次に放った台詞に、雅はようやく納得し、指令に従った。

「あくまで実験だ。吉と出るか凶と出るか。終わったら報告してくれ。今後の研究のデータになる」

雅は頷いた。

「では頼む」

亮太郎の一言で雅はきびすを返すと、手術室に戻って行った。亮太郎は倒れそうになっている妻を支え、ベンチに座らせると自分も隣に座った。


 皆が一斉に紀伊也を囲む。

「紀伊也、何をする気だ?!」

晃一は、司が助かるかもしれない可能性というものが何なのか興奮気味に訊いた。

一瞬、紀伊也は目を伏せたが、ゆっくり開けると、晃一を見た。

「俺の血を入れる」

 え・・・? 何を言っているんだ・・・、さっきは。

晃一だけでなくナオも秀也も驚いて紀伊也を見つめた。

「俺の血液型もA型だが、RHマイナスのダブルXⅠ型なんだ。俺は司からもらう事は出来るが、その逆は今の所不可能なんだ。もしかしたら拒絶されるかもしれない・・・。そしたら、ダメだろうな 」

「ダメって・・・」

息を呑んで聞いていたナオが、苦しそうに言った。

「だから、可能性に懸けるんだ。上手く行けば、助かる」

微かに笑みを浮かべた紀伊也に、ナオは一瞬紀伊也までもが、遠くへ行ってしまうのではないかと思った。

「お前、どれだけ輸血するつもりなの?」

司の流した血の量を思い出す。

「さあ、どれ位かな。半分か、全部か・・・分からんな」

「そ・・んな事したらお前まで・・・ っ」

ナオは紀伊也が死ぬ覚悟で言っているように聞こえた。

「心配するな。俺の血もここに凍結保存されている。それを俺に入れる事になるだろう。・・・、 そしたら、血液の総入れ替えかな」

思わず苦笑してしまった。

 司を銃弾から守る事も出来ず、こんな所でしか役に立たないとは・・・。 しかも、自分の血で、司を殺してしまうかもしれないのだ。

そう思うと、紀伊也は苦笑せずにはいられなかった。

 手術室から数人の医師と看護婦が出て来ると走り去って行った。その後ろから再び雅が現れた。

「紀伊也、準備をしてくれ、中へ」

紀伊也は皆を一周し、「心配するな」とだけ言うと、中へ入って行った。

 しばらくして、先程の医師たちが、ワゴンを引いて足早に戻って来ると、中へ消えて行った。

扉が閉じられると、また元の重苦しい沈黙に包まれた。


 ******


 夜が明けた。 

昨日と変わらない黄金色こがねいろをした太陽が、優しく暖かい光を発しながら顔を覗かせる。

きっと、今日も快晴になるだろう。

周りの景色は何も変わらないのに、全てが悪夢へと一変していた。

 病院の手術室の前では昨夜から時が止まったままだ。

チャーリーは膝を抱え床に座っている。相当 疲れていたのだろう、うつらうつら眠ってしまっている。透は足を伸ばしたまま壁にもたれ座っていた。目は宙を見つめたままだ。

ナオは相変わらず壁に寄り掛かって立っていた。時々タバコを吸いに喫煙所まで行った。晃一も壁にもたれ、ベンチに座っていた。そして、ナオと入れ替わるようにタバコを吸いに行った。

秀也はベンチに座ったまま足元をじっと見ていた。


 確かにあの時、俺の名を叫んで突き飛ばした。何故だ? 狙われたのは俺なのか? 一体何が・・・。分からない・・・。


そして、踏みにじられた赤いバラの花束を思い出す。

 それなのに司は俺をかばって・・・?分からない、何も分からないっ!

秀也は思わず頭を抱えた。

混乱していた。

一体、あのステージで何が起こったというのだろうか。

『司っ・・・! 司っ・・・!』

心の中で何度も司の名前を呼んだ。

つい、この前まで自分の胸の中で笑っていた。

 いとしかった。

司を愛していたのだ。秀也は司の名を呼びながら、ゆかりの事など忘れていた。


何処どこにも行かないで』そう司は俺に言った。『何処にも行かないで』・・・、そうじゃない。


何処どこにも行くなっ」

秀也は突然立ち上がると扉に向かって走り、ドンっドンっ叩きながら叫んだ。

「司っ! 司っ!」

長い沈黙が突如破られ、悲痛な叫びが響き渡る。

ナオと晃一は驚いて秀也を抱き締めて扉から引き離すと、三人はそのまま廊下の中央に崩れた。

そして、秀也の肩を抱いた。秀也は拳を床に押し付け、突っ伏していた。

「司っ・・・、どうしてだよ・・・何処にも行くなよ・・・ 司・・・」

二人は秀也から一瞬、顔をむけたが、額を秀也の肩に押し付けると、肩を震わせた。

透とチャーリーは見ていられなくなり、顔を逸むけた。

そして、透は壁を力いっぱい殴りつけた。

「ちっきしょう・・・」








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