第十章・一日(二の2)
光生会病院へ電話をかけていた透が、電話を紀伊也に渡した。
「俺だ・・・。 ああ、止血はしたが散弾なんだ。・・・、時間がない、・・・、ああ、至急連絡してくれ、こちらからもすぐ・・・、そうだな・・・、車では間に合わない・・・、うん、分かった。ボンの方は何とかなりそうなのか? ・・・そうか、・・・、分かった。俺からも依頼するが、お前からも言ってくれれば確実だな・・・、ああ、頼む。・・ん? ・・・、当り前だ、任せておけ、じゃ」
一旦電話を切ると、一瞬司に視線を落としたが、すぐに別の所へかけた。
メンバーと透は、息を呑んで紀伊也を見守っている。
時折、司の呻き声がすると、ナオが司の体を支え直していた。
「一条です。・・・え? あ、はい」
しばらく間が開いた。
電話の向方では、紀伊也がかけて来るのを承知していたかのようだ。目的の相手は、誰かと話をしていた。
「はい・・・ボンから? それなら話は早い 詳しい状況を報告しているヒマはないんです。至急ヘリを ・・・ ええ、確保できると・・・はい」
紀伊也は会場を見渡した。 ここなら問題ないだろう。
また間が開く。
「はい、そうですか。・・・ ええ、・・・20分後、何とかします・・・、はい、分かりました。感謝します」
紀伊也は幾分安心したように電話を切ると、透に返した。
これで司が助かる可能性は少し高くなった。
が、しかしまだ分からない。
出血がひど過ぎる。
「紀伊也、何だって?!」
すかさず晃一が訊いた。
「司をヘリで病院へ運ぶ」
「ええっっ!?」
皆、驚いて紀伊也を見る。外からは救急車のサイレンの音が聞こえている。
「救急車が来たぞっ!!」
スタッフが声をあげた。
「20分後にここへ来るんだ。この球場内に着かせる」
スタッフの声を無視して、あくまで冷静に言った。
「ヘリって!? 救急車が来てるんだっ、すぐ近くの病院へ運ばないと!!」
晃一が悲鳴に近い声を上げる。
誰もが当然だと思っていた。
しかもこれだけの量を出血しているのだ。いくら止血しているとはいえ、紀伊也の言っている事は余りにも無謀だ。
しかし紀伊也は落ち着いて首を横に振った。
「ダメだ。ボンの所へ運ぶ」
「あんな所まで!? ここから都内まで、どれ位時間がかかると思ってんだっ!?」
晃一は驚いて怒鳴った。
「それに早く輸血しないと!」
ナオが続いた。誰もがそう思った。
紀伊也は、血の気の失せて行く司の顔を見ながら思い詰めたように言った。
「誰の血を入れるつもりだ?」
「誰の・・ って、A型だろ。そんなもん誰のだっていいだろ!? とにかくA型なら何処にだってあるじゃないか!」
ナオは紀伊也の言葉にすかさず応えた。
「誰のでもって訳にはいかない・・・」
「何で!?」
「ばかやろう・・・。司はA型でも・・・A型でもRHマイナスダブルXのⅡ型だ」
!? RHマイナスのダブルXⅡ型? 初めて聞く血液型だ。
「特殊なんだよ、司の血は司の血でしかない。他人の血なんか入れたら、死んでしまうぞ!」
最後には叫んでいた。
絶望的だった。
唯一、兄の亮だけが、全く同じだった。
もう一人の兄の翔は、司からの輸血は可能だったが、その逆は不可能だった。 紀伊也の知る限り、他にデータはなかった。
あとは、可能性に懸けるしかなかった。
皆、凍りついたように紀伊也を見て視線を落とすと、血の気の失せた顔で、必死で息をしようとしている司がいたたまれない。 このままこうして見ている事しかできないのだろうか。
「どうすれば?」
ナオが縋るように紀伊也を見る。
「心配するな。あそこへ行けば、司の血が凍結保存されている。もう手配済みだ。 いいか、とにかくヘリをこの会場へ降ろさせるんだ。 時間がない」
紀伊也が指示を出す。が、どうやって、この満員の会場にヘリを降ろさせる事ができるというのだろうか。
焦る中で考えも及ばず、皆会場を見渡し、顔を見合わせた。
会場内では、悲鳴を上げて泣き叫んでいる者、興奮したファンがステージを目指し、それを制する警備員がもみ合っている。まさに、パニックに陥る寸前だった。
その時、紀伊也が司の足元に転がっているマイクを手にした。
「みんなっ、聞いてくれっ!!」
会場内が一瞬静まり返り、その視線はステージ中央へと注がれた。
赤く染まったシャツの司を抱きかかえながら、血の滴り落ちるマイクを持っている紀伊也。
二人とも、血にまみれていた。
「今から20分後にヘリがここへ来る。この会場に降ろす」
「ええーーっ!?」
観客は信じられない、と互いに顔を見合わせたが、全員が紀伊也の言葉を待った。
「俺の指示に従ってくれ。 いいか、スタンドにいるヤツはそのまま動かないでくれ。絶対動くなよ。下にいるヤツは全員外へ出てくれ。そして一番前の皆は悪いが・・・、男だけ残って、スタッフと一緒にロープとシートを外してくれ。いいな、司を死なせたくなければ、言う事を聞いてくれ、頼む」
一瞬静まり返ったが、前列にいた男が「分かった!」と叫んだ。
「みんな言う通りにしよう!」男は上に向かって叫んだ。
「急げっ!」
紀伊也がマイクを置くと同時に、観客は行動を開始した。スタッフにも指示を出す。
皆が一つになった。
何万人ともいえるファンが司の為に動いた。その行動は素早かった。
紀伊也の腕の中で、司が薄っすら目を開け、秀也を見ていた。
秀也に重なって、マリア像に絡まった鎖が砕けたように見えた。
「終わった・・・」
もう、終わりにしよう。ヤツはオレ自身だったのか・・・?
そう思うと、思わず苦笑してしまった。
紀伊也と秀也は、司の呟きを聞いたような気がして見ると、司が一瞬、微笑んだように見えた。
目を閉じた司から、すうっと表情が消えていく。
紀伊也は、自分の腕の中で、司の体の力が完全に抜けたのを感じた。
ハッとして見ると、腹の上に乗った手が、滑り落ちて行く。
そして司は本当に死んだように目を閉じていた。
!?
紀伊也と秀也は青ざめて顔を見合わせると司を見つめた。
本当に消えてしまいそうだった。
そして、紀伊也の中で、何かが切れた。
しかし司とをつなぐ脳波は、まだ微かに感じて取れた。それが消えないで欲しい。今は祈る事しか出来なかった。
最後のシートが剥がされた時、上空からヘリコプターが一機降りて来る。
スタッフが誘導する。ヘリコプターが着陸し、扉が開くと、紀伊也は司を抱きかかえて立ち上がった。
ぐったりとした司の体から血が流れ落ちた。
紀伊也が晃一・ナオ・秀也を順に見ると
「後は任せろ」
と晃一が言い、ナオと秀也も頷いた。
「後から必ず来てくれ」
紀伊也は言うと秀也を見た。
「秀也、必ずだ」
一瞬、秀也から司を奪う気がして気を遣っていた。
こんな時でも紀伊也は冷静だった。こんな時だからこそ、かもしれない。
紀伊也が司をヘリコプターへ運び、乗り込んで扉が閉じられると同時に、飛び立って行った。
全員が祈るような気持ちで、ヘリコプターを見送った。
ヘリコプターの姿が見えなくなると、晃一は空を見上げたまま言った。
「なぁ、秀也。知ってたか・・・司の血の事・・・」
秀也は黙って首を横に振ると、ステージに広がった司の血を見つめた。