第十章・一日(一の2)
「ふわぁっ、今日はいい天気になったなぁ」
晃一はあくびをしながら空を見上げた。
10月も半ば、秋空が澄んで昼間の太陽が眩しい。
ステージの上では、スタッフが忙しそうに走り回っている。
秀也もナオも何やら打ち合わせ中だ。紀伊也も、キーボードの位置を確認している。
司は? スタジアムを見渡すと、スタンドを歩いていた。
「ああ、腹減った」
晃一は、ドラムセットから離れるとステージの中央に立った。その時スタッフの一人が下から声を掛けた。
「そろそろ昼食に入って下さい」
「おおっ、待ってました。どっか行くんでしょ。何処? もちろん中華街で飲茶だろ?」
「ああ、いいねェ、それ。俺ノッた」
ナオと秀也が笑いながらスタッフを見る。
「残念でしたぁ、弁当でーす」
チェー、何だよっ、それェ。 ぶつくさ言う晃一に、周りの者が笑う。
「司ーっ、メシにしようぜーっ!」
晃一が忌々しそうに、スタンドを歩いている司に向かって叫ぶと、手を上げて合図してこちらへ向かって来る。
晃一はステージの端に腰を掛けながら、司の来るのを待った。
きっと司なら弁当なんてとんでもない、と言うに違いない。
「今日のお昼は何処行くの?」
ポケットに手を入れながら、楽しげに訊いて来る。
ヤッた。 晃一は ニコニコしながら言った。
「お弁当だってさぁ~」
「ええーーっ、 何でェ!? せーっかく此処に来たのに弁当ぉ? 中華街に行って飲茶でもしようよぉっっ」
子供のようにダダをこねた声を出す司に、晃一は嬉しくなった。
「だろー? 俺もそう言ったんだけどねぇ」
「ダメです。外に出て何かあったら、たまりませんからっ」
半分怒ったように宮内は窘めた。司は今までの事があったので、反論する事が出来ない。
「仕方ねぇか、今日は言う事を聞いてあげるよ。宮ちゃん」
意外!? と司を見る晃一はがっかりした。そんな晃一を横目で見ると、付け加えた。
「でも、ブタマン、買って来て」
メンバーが、「そうだそうだ」と笑いながら宮内を責めると、「はいはい分かりました 」と降参した。
その光景に、他のスタッフも手を止めて笑いながら見ていた。
外出も出来ず、天気もいいので、スタンドで昼食を済ませた五人は、それぞれ立ち上がった。
紀伊也は、皆の空になった弁当箱を集めて袋に入れている。ナオと晃一は、スタンドの一番上まで上がって行った。
司はタバコを銜えながらスタンドを出て、自動販売機の方へと歩いて行く。秀也がそれに続いた。
「秀也、何飲む?」
コインを入れると振り返った。少し面喰った秀也だったが
「あ、コーヒーを」
と応えた。
ガラガラっと音を立てて、缶コーヒーが落ちてくる。司はそれを取上げると、はいよっと秀也に投げて寄こした。そして再びコインを入れてボタンを押す。
結局、火もつけずに銜えただけのタバコをゴミ箱に投げ捨てると、プルタブを引っ張った。
プシュっと炭酸の弾ける音がして、コーラを一口ぐいっと口に含んだ。
含んだ量が多かったのか、思わず咽返りそうになりながら、それを飲み込もうとして、缶の蓋を開けもせずこちらを見ている秀也に、コーラの缶を持った手でどうぞと促した。
炭酸を喉に詰まらせ、涙の出そうな司の顔に、思わず吹き出してしまい、秀也も缶コーヒーを飲み始めた。
司はコンクリートの壁に寄り掛かり、コーラを一気に半分飲むと、黒い皮のジャケットの内ポケットからタバコを取り出して一本銜えて箱をしまい、ライターを探した。
カチッと音がして向くと、秀也が自分のライターで司のタバコに火をつけて、そのままズボンのポケットにしまった。
「司・・・」
「ん?」
タバコの煙を上に向かって吐きながら、横目で秀也を見た。何か言いにくそうに俯いている。
「何? 話があるんだろ」
-また、だ。俺が言いづらそうな時に、司はいつも話すきっかけを作ってくれる。
秀也はまた自分の不甲斐なさを感じてしまった。
「頼みがあるんだけど」
「頼み? 珍しいな、いつもと逆だ」
司は、「ふん」と鼻で笑うが、何となく嫌な予感がした。
「ライブが始まる前に会って欲しいんだ」
司の顔が曇った。 会って欲しい・・・子。
「誰に?」
「・・・、ゆかりに・・・」
「なっ!?」
はっきりとゆかりと言った。 秀也の口からは聞きたくない名前だった。
「ダメだと言ったんだ。でも、どうしても会いたいって。お前のファンなんだよ。今日のライブに来るんだ。だからその前に」
秀也はゆかりに責められた挙句、司に合わせろと言われ、承諾してしまったのだ。
「言ってないんだ、お前との事。だから俺たちの事、あいつは知らない」
秀也の口から淡々と語られる。
司は急に喉の渇きを覚え、コーラを一口飲んだ。
そして、一息つくと秀也を刺すように見た。
「何で言ってないの? お前、バカじゃないの? それともナニ、やっぱりアソビで付き合ってんだろ。マジじゃなかったのかよ。オレとアイツを天秤に掛けて、楽しんでただけなのかよ」
「そんなんじゃ、ない」
自信なさそうに言う秀也に司は苛立ちを覚えた。
「だったら、オレから言ってやろうか。オレ達は8年来の関係です、って」
口調が荒々しくなって行く。 もうこれ以上縛り付けたくないと思う程、自分でも苛立ちを抑えきれなくなり、どうしようもなくなっていく。
「司っ」
やめてくれっ。秀也はそう叫びそうになった。
自分でも司にこんな事頼みたくはなかった。 できれば、ゆかりには断るつもりでいたのだが、秀也としてもどうしようもなくなっていたのだ。
「とにかくイヤだね。彼女には会いたくない。絶対イヤだ」
司も意地になっていた。 ただ、ジュリエットのボーカルとして会えばいいだけの事だ。そんな事くらい解っていてもやはり秀也と付き合っている彼女だった。それだけの事で、司には今まで味わった事のない意地が、そう言わせていた。
「頼むよ。俺だって此処のところどうしていいか分からないんだ。あいつの事本気なのか、それともお前が言うように、ただお前と距離を置きたかっただけなのか、よく分からないんだ」
秀也?
司は覗き込むように秀也を見ると、急に気が抜けたように息を吐いた。
「何だよ、それ・・・」
灰を下に落とし一服吸って、コンクリートの天井に向かって煙を吐くと、残りのコーラを一気に飲み干した。
「何だか、ナメられたもんだな・・・。心配して損した」
この何ヶ月間、ずっと秀也が何処かへ行ってしまうのではないかと、不安で眠れぬ夜を過ごしていたのだ。それを思い出すと、苦笑せずにはいられない。
ホッとしたように、笑みを浮かべた司を見て秀也は、首を横に振った。
「やっぱり・・・俺、お前とは、これ以上やっていけそうもない」
!?
コーラの空缶にタバコを落とした瞬間、司の手から缶が地面に落ちて足元に転がった。
息を飲んで秀也を見つめると、思い詰めた表情から、何かを決断したような表情へと変わっていく。
「お前があいつに会ってくれれば、何となく自分の気持ちに整理が付きそうな気がする。だから、頼む・・・」
「会ってどうするんだよ。 勝手な事言うなよっ、オレに彼女を紹介でもするつもりか!? そんな事したって・・・、別れないから」
「え?」
「別れないから。・・・、秀也とは、別れたくないっ!」
吐き捨てるように言うと、背を向けた。
「司・・・」
秀也の声が背中から胸へ突き刺さるようだ。
何故こんな事を言ってしまったのだろうか、自分でもよく分からない。
司はぎゅっと目を瞑り唇を噛み締めると拳を握り締めた。
「勝手にしろっ」
それだけ言うのが精一杯だった。
遠ざかって行く司の背中を見つめながら秀也は切なくなると、壁に寄り掛かって、天井に向かって一息吐いた。
開演まであと30分。
スタジアムの中は既にファンの熱気に包まれ、皆今か今かと、待ち焦がれている。各ゲートの入口には、人がもう殆どいない。
楽屋では秀也を除く四人が、トランプの「ババ抜き」で盛り上がっていた。そこへ秀也が現れ、司を呼んだ。 ちょうど司がナオのカードを引いたところだった。
「やった、あがり! はーい、晃一くん、あーげーるっ!」
楽しそうに最後のカードを晃一に見せて渡した。
「げーっ、ババかよ」
司は立ち上がり、楽屋の外へ出た。
中では三人の笑い声が、広がっている。
楽屋を後にし、黙って秀也の後について行った。
あの子に会うのだ。
数十メートルの通路を何時間もかけて歩いている気がした。 角を曲がると少し先に、ポニーテールに白いフレアスカート、見覚えのあるGジャンを着た女の子が、花束を持って立っている。
女の子らしくて可愛いな。 ふとそう思った。
秀也が彼女に近寄ると、彼女は恋人に送る眼差しをしていた。自然と秀也の表情も緩む。
そんな二人を司は遠くに感じた。
そう言えば、秀也はポニーテールをしている子が好きだった。以前、冗談か本気か、「お前も髪伸ばしてポニーテールにしてみてよ」と言われた事があった。 余りにアホらしい要求に、それじゃ、ポニーテールの似合う子と付き合えば、と言い返したのだ。
秀也が彼女に何か言いながら親指を立てて司を指すと、それまで秀也を見ていた彼女は突然、射るような視線を司に送った。
一瞬、ドキッとした。
以前にも会った事はあったが、もう思い出せない。今日初めて会う気がした。
彼女の眼差しは、あくまでファンが憧れのスターを見ている眼だった。しかし、司にはそれだけではないものを感じた。
彼女の隣にいる秀也がどんどん遠去かって行く。
一瞬、秀也が全く知らない他人に見えた。
「あ、あの、司さん。お会いできて本当に嬉しいです。今日のステージ、とても楽しみにしています。頑張って下さい」
気が付くと目の前に、頬を赤らめやっとの思いでそれだけ言う事のできた彼女がいた。
「それと、これ・・・」
持っていた花束を司に差し出す。思わず受け取ると、花束と彼女を交互に見る。
「これ・・・」
「秀也さんが、司さんは赤いバラが好きだからって」
そう言うと、振り返って秀也を見た。
秀也は微笑んだが、司を見てはいなかった。視線が合わなかったのだ。
「そう・・・ありがとう・・・」
司はそれだけ言うと俯いた。 彼女は司の表情が浮かないのに気が付くと、バツが悪くなった。
開演前の忙しい時に、やはり会ってはいけなかったのだと言う、秀也の言葉を思い出した。
「あ、あの、ごめんなさい、忙しいのに。それじゃ私・・・」
ぺこりと頭を下げて背を向けると、秀也の元へと駆け寄って行く。秀也は彼女の背に手を回し、出口の方へと歩き出した。
「あ・・・、ゆかりちゃん」
思わず呼び止めた。
え?
二人が足を止めて振り返ると、司が近づいて来る。
司は自分でも驚いたが、確実に二人に歩を進めていた。
秀也は動揺した。 まさか、あの事をゆかりに言うつもりなのだろうか。
「司っ」
「ゆかりちゃん」
焦った秀也の声と、静かな口調の司の声が重なった。
一瞬、司と秀也の目が合った。 秀也はそこに不思議な程落ち着いている司を見て黙った。
「ねぇ、ゆかりちゃんは・・・秀也の事、好き、なの?」
何故、そんな事を訊いているのか戸惑いながら、妙に冷静な自分に驚いていた。
「え? あ・・・」
恥ずかしそうにゆかりは俯き秀也に視線を送る。秀也は少し照れたようにゆかりを見たが、不安気に司に視線を移した。
「訊くまでもないか、ごめんごめん」
司は思わず笑っていた。 自分自身に笑ったのかもしれない。
「ねぇ、ゆかりちゃん。秀也さ、バカみたいに純粋で、扱いにすごーく困る時があるんだ。けど、いいヤツさ。こいつを男にしてやってよ」
秀也は驚いて司を見つめたが、司のその目には表情がなかった。 何を考えているのか全く分からない。
この時秀也は初めて司を遠くに感じた。しかし、司の顔は驚くほど冷静に笑っていた。
「宜しく頼むよ、秀也の事」
ゆかりの顔を覗きこみながらそう言った。 ゆかりは耳まで赤くなりながら、司の顔をまともに見る事も出来ず、俯いたまま頷いた。
司は秀也を一度も見ることなく、それじゃ、と軽く手を上げ、二人に背を向けると歩き出した。 2,3歩、歩いた所で振り返ると、ゆかりの肩を抱いて去って行く秀也を見た。
司はしばらく茫然と二人を見送っていた。
何であんな事を言ったんだろう。心にもない台詞がよく出て来たものだ。本当はあんな事言うつもりじゃなかった。本当は・・・っ!
突然、嫉妬にも似た激しい怒りが込み上げ、二人の姿が見えなくなるのと同時に、それが一気に噴出し、持っていた花束を床に叩き付けた。
バサっと音がして、赤いバラが床に飛び散る。
司は更にそれを踏みにじると、足早に楽屋の方へ向かった。
角を曲がると晃一が、壁に寄り掛かって立っていた。
ギクッとして足を止め、横目で晃一を見ると、何とも言えない複雑な表情をしている。
「知って、いたのか?」
「何となく」
バツの悪そうな言い方に、カチンときて殴りかかった。
「イヤなヤツだ」
拳が晃一の顔の横を通り過ぎ、壁にぶち当たった。 内心ホッとした晃一だったが、司らしくないと思った。
「司、何やってんだよ。いつものように殴れよ」
皮肉気に言う晃一を思わず見ると、ニっと口の端を上げてこちらを見ている。
「でないと、歌えねぇだろ」
「晃一・・・」
目を閉じた司は感謝した。そして目を開けて、ニヤッとすると、思い切り晃一の頬を殴った。
テェーっ
痛そうに片目を開ける晃一の頬に当てた手を、ポンポンと軽く叩くと、何も言わず楽屋に戻って行った。
ふうーっ、と一息吐いて晃一は天井を見つめた。
-やれやれ、秀也もこんな時にとんでもない事をしてくれたもんだ。しっかし、司のヤツ・・・。
「晃一、どうしたんだ?」
驚いたように秀也が立っている。
「お前の代わりに殴られてやったのさ。感謝しろよ」
頬を撫でながら秀也を睨んだ。 状況を把握した秀也は、ハッと息を呑んだ。
「ごめん」
「アイツなら大丈夫だ。行こう」
晃一は秀也の肩に手を廻すと歩き出した。
「しっかし、司のヤツ・・・、思い切り殴りやがった」
二人は顔を見合わせると苦笑いを浮かべた。
楽屋に戻ると、三人はタバコを吸いながら待っていた。 司は晃一と目が合うと、フンっと嫌味っぽく笑った。
ドアがノックされ、スタッフが声を掛ける。
三人はタバコを灰皿に押し付けると立ち上がった。そして、右腕をかざして司とぶつけ合った。
いつもステージに上がる前にやる事だった。
が、今日は珍しく司が、一人一人に声を掛けた。
「晃一、外すなよ」
「わぁってるよ。お前こそ出遅れんなよ」
「ナオ、今日もまた、激しいの行くからね~」
「お手柔らかに」
「紀伊也、頼んだぞ」
「はいよ」
三人は司の腕から互いの信頼を確認し合い、外へ出た。
「秀也・・・、昼間はごめん。あんな事言うつもりじゃ・・・」
「何言ってるんだ、それは俺の方こそ」
しかし司は秀也の言葉を遮るかのように首を横に振った。
「お前の為に弾くから」
その言葉に顔を上げると、優しく包み込むように自分を見ている秀也を見つけた。
「いつものように、お前の為に弾くから」
そう言うといつものように笑っていた。
「ああ」
司も、いつものように笑顔で応えると、二人は互いの右腕をぶつけた。
楽屋のドアが閉まり、五人はステージへと向かった。