第十章・一日(一)
誰にでもある運命の一日。『長い一日になりそうだな』そう呟いた司の一日が始まる。
第十章 一日(一)
何だか、目覚めの悪い朝だな
そう思いながらコーヒーメーカーにスイッチを入れ、いつものようにシャワーを浴びに行った。
白い膝丈程のバスローブを羽織って出て来ると、司はタオルで髪を拭きながら頭を左右に振り、手ぐしで梳かすと、カップにコーヒーを注いでリビングに入り、カーテンを開けた。
「今日はいい天気になりそうだな」
そう呟いて、一口飲む。
-それにしても気分が悪い
渦を巻いたような、このもやもやとしたものは何だろう。昨日まで感じていたものとは、全く違う感じのものだ。
タバコに火をつけ、一服吸うと、天井に向かってふうーっと、一息吐いた。
-こんな気分の朝は、あれ以来だ
ふと、あの日を思い出した。
兄の亮が死んだ、あの日の朝だ。あの日も妙な胸騒ぎで目覚め、気分が悪かった。
-何だって、あの事を思い出さなきゃならないんだ。
チッと舌打ちすると、タバコを吸った。
-きっと緊張のせいだ
何故か、今まで重苦しく自分を取巻いていたものを吹き飛ばすかのように今日のステージに懸けていた。
何故かは分からない。
-秀也の事か・・・?
「ふんっ、ばかばかしい・・・」
一人で苦笑しながら、チラッと時計に目をやる。 7時15分。まぁ、早いが行くか・・・。
タバコの火を消してコーヒーをもう一口飲むと、テーブルにカップを置いた。
「今日は長い一日になりそうだな」
そう呟くとバスローブを脱ぎ捨てた。
******
「あ、お早うございます」
事務所に入って来た司を見て、スタッフが立ち上がる。 が、三人しかいない。
「あら・・、おはよ。・・・もう行ってんの?」
「もちろんですよ。早くからやってますよ」
「ふーん、そりゃありがたいね。・・・で、メールは来てんの?」
デスクを見ると、いつものように既に山積みだ。溜息をつくと、奥のソファに目をやった。
見慣れた背中から白い煙が上がっている。その背中が振り向くと軽く手を上げた。
「早いな」
「秀也こそ」
無意識にソファに足が行く。 その時電話が鳴った。
「司さん、電話です」
足を止めて振り返る。
「誰?」
「あのぅ、家の方みたいですよ。1番に入ってますから」
- 家? 誰だ、こんな朝早くに・・・。
少し怪訝に思いながらボストンバッグを床に置くと、近くのデスクの受話器を取り上げた。
「はい、司です」
低い声で出た。家の者からの電話にはいつもそう出る。
「・・・」
返事がない。少し苛付いた。 ふざけてるのか?
「もしもし、司だが、何の用だ?」
もう一度繰り返した。今度は口調が少し荒い。
「そろそろ終わりにしようか、・・・タランチュラ・・・」
聞き覚えのあるしゃがれた低い声だ。 ・・・ アイツ!?
「貴様っ・・・」
「終わりにしよう、光月司」
それだけで電話は切れた。まるで、嘲笑うかのようだ。
一瞬、奥歯を噛み締めると、何事もなかったかのように黙って受話器を置いた。 そしてソファへ行くと、秀也の向かい側に腰を下ろし、タバコを取り出した。
「大丈夫か?」
何か不安な表情でも見せたのだろうか、秀也が司に言う。
「ああ・・・何でもない」
一瞬目が合ったが、すぐ視線を逸らすと、火をつけて一服吸って、自分の足元に向かって煙を吐いた。
暫らく、黙ったまま二人は座っていた。
-耐えられない・・・
司は何か言葉を探したが見付らず、タバコを灰皿に押し付けると、立ち上がりかけた。
「司」
顔も上げずに秀也が司を呼ぶ。
ん? 秀也の次の言葉を待つ司は、戸惑いながらも立ち上がった。
入口のドアが開き、スタッフが声を掛けるのと、秀也の次の言葉が同時に重なった。
「紀伊也さん、お早うございます」
「後で、話がある」
秀也との気まずい空気に救われた気がして、入口に目をやると、紀伊也がスタッフに手を上げながらこちらへ来る。
「おはよ、珍しいな二人とも。俺が最初だと思ったのに」
「あ、紀伊也、おっはよ。残念ながらお前は三番目なの。オレより先に秀也が来てたよ」
「へぇ、そう。そりゃ残念だったね司くん。せっかく早起きしたのにね」
嫌味っぽく笑うと、ボストンバッグを床に置き、タバコを取り出して火をつけた。
「何か、嫌な予感っていうか、目覚めが悪くてな」
タバコを銜えながらそう言うと、ふうっと煙を吐いた。
-紀伊也も?
司は思いながら電話の事を話そうか迷った。が、
「コーヒー買って来る」
と、紀伊也に悟られないように、その場を離れた。
二人の笑い声が後ろの方で聞こえたが、とても遠い所で聴こえたような気がして、一瞬振り返ったが、二人はこちらを見もせず、タバコを吸いながら談笑している。
それを見過ごすとそのまま外へ出た。
廊下の壁にもたれながら、自動販売機で買ったブラックコーヒーを飲むと、天井を見上げて溜息をついた。
-何やってんだろうな、オレ・・・。 まるで二人から逃げてるみたいじゃないか・・・。
司は昨夜紀伊也と、秀也の事について話した事を少し後悔した。二人が何を考えているのか思うと、急に居づらくなったのだ。
-それに秀也・・・ 何か話しがあると言っていた
とても気になったが、逆にそれを知りたくないとも思った。
秀也から逃げている、そしてそれが秀也だけなのだろうか。司は秀也よりも、その先にある「ゆかり」から逃げているような気がした。
そう思うと急に自分が情けなくなり、持っていたコーヒーの缶を投げつけた。
「何だ、朝からエラく気嫌が悪そうだな」
声がして顔を上げると、ガムを噛みながらボストンバッグを肩に担いだ晃一が立っていた。ナオも一緒だった。
「そんな事ねェよ」
司は苦笑いした。