第九章・Ⅱ贈り物(三)
翌日、久しぶりにぐっすりとよく寝たと思って時計を見ると、既に昼を過ぎていた。
げっ、と慌てて飛び起きると、バスルームへ向かう。
昨夜は、紀伊也と波の音を聴きながら食事をした後、部屋で曲のアレンジをしていた。気が付くと明け方になっていたので少し眠ろうと、久しぶりに自分のベッドへ潜り込んだが、そのまま深い眠りに陥ってしまったのだ。
事務所へ顔を出すと、皆驚いたように司を見たが、今は司だけが頼りだと信じると、何事もなかったように自分の仕事へと戻って行った。司もメールで山積みになったデスクの前に座ると、途中で買って来たサンドイッチをつまみ、紙パックのコーヒー牛乳を飲んだ。
「珍しいっスね」
透がコーヒー牛乳を指しながら近づいて来る。他のスタッフも、何だか子供のように可愛らしく見える司に、思わず吹き出した。
「何だよ」
ちらっと睨むと、ズズーっとストローを吸う。そして、ぐしゃっと握りつぶすと、透に渡した。
「さてと・・」
透にあっちへ行けと手で追い払うと、デスクの包みを一つずつ開けて行く。
どれもこれも赤や黄色、色々な色のリボンがかけてある。
何だこりゃ、とぶつくさ言いながらリボンを解き、後ろへ放り投げていく。中を開けると、Tシャツやら、ライターやら、いろんな物が出て来た。
「そう言えば今日は誕生日っスね」
紙パックを捨てた透が包みを覗き込んだ。
「誰の?」
司は透に見向きもせず、相変わらず慎重に開封していく。
「司さんのですよ」
え? と手を止めて透を見上げた。
「やだなぁ、自分の誕生日を忘れちゃったんですかぁ?」
「珍しいなぁ、毎年うるさいくらいに騒いで仕事キャンセルしてるのに」
チャーリーも傍に寄って来る。
そうか、どおりで小包にリボンがかかっている訳だ。
メールの山を見ながら納得した。封筒の一つを開けるとバースデーカードが入っている。思わず微笑んだ。
これだけの人に祝ってもらえるなんて思ってもみなかった。これもスターの特権というものなのか。 思わず苦笑した。
「今日もまたどっか行くんですか?」
「今日?」
そう言えば今日は何も約束していない。また、突然秀也が何処かで待ち伏せしているかもしれない。そう思うと、少し照れたように苦笑した。
「うわ、なーんか、ヤーらしいィ」
透がからかう。 ばかやろう、司が透の頭をはたいた時、胸のポケットから電話が鳴った。慌てて電話に出る。
「もしもし・・・え? あれ?・・・あ゛ー、ごめん、忘れてた・・・今? 事務所・・・うん、ごめん・・・わかった、じゃ」
電話を切って時計を見ると、5時を回っている。そう言えば昨日の朝、並木と今夜会う約束をしたのだった。昨日は疲れ過ぎていて、すっかり忘れてしまっていたのだ。
「続きは明日!」
そう言うと、メールの山をそのまま放り出して、慌てて事務所を出て行った。
スタッフは呆気に取られながらメールの山を見つめた。
「はは、毎年の事だな」
チャーリーは呆れて呟いた。
******
鎌倉にあるイタリア料理の店で、二人はワイングラスを傾けた。
「ハッピーバースデー、司」
「サンキュ」
一口飲んでグラスを置く。
オープンテラスに設けられたテーブルは一つしかなく、司と並木だけがそこに居た。
夜の潮風が心地好い。時折遠くで、波の音が流れて来る。
「ホントにお前は、いつもナイスなタイミングで電話を鳴らしやがる・・・」
そう呟くと、ふっと笑ってグラスを手にした。
テーブルのキャンドルの灯りが、司の影を揺らす。
「これ・・・」
並木が小さな包みを司に差し出した。
? また、包みか・・・、 うんざりして昼間のデスクを思い出す。
「何?」
「プレゼント」
え? 包みと並木を交互に見る。
「何、遠慮してんの。ホラ、早く開けて」
並木を見ると微笑んでいる。
キャンドルの灯りで一瞬、亮の笑顔と重なる。
司は言われるままグラスを置くと、慎重に包みを開けた。中にはグレーの箱が入っている。それを手に取り、蓋を開けた。
中にはリングが一つ入っていた。
「何にしようか迷ったんだけどさ、こういうものっていくつあってもいいだろ?」
そう言うと、自分の右手をかざした。並木の中指にもこれと同じ物がはめてある。
「ペアって訳じゃないけど、誰でも持ってるものだから、気にしないでよ」
司はじっと、箱の中に収まった小さなリングを見つめていた。
確かに何の変哲もない、ただのプラチナのリングだ。誰もが持っているものだろう。気にしなければ、ただのファッションリングだ。
しかし司にとっては初めてのリングだった。今までに自分で買った事もなければ、貰った事もない。秀也からも買おうと言われた事があったが、要らないと断っていた。どうせ貰っても、すぐに失くしてしまうからだ。
不意に並木が、司の手の中から箱を取上げるとリングを摘み、司の左手を取ると、中指にそれをはめた。
「良かった、ピッタリだ。よく似合ってるよ」
テーブルの上の包みと箱を取り去る。ウェイターが料理を運んで来たのだ。
ウェイターは、自分の左手を見つめている司をちらっと見たが、今世間を騒がせている有名人二人を目の前に、幾分緊張しながら料理をテーブルに置いた。そして、空になったグラスにワインを注ぐと、一礼して去って行った。
「司?」
じっと左手の中指を見ている司に、並木は不安になった。気に入らなかったのだろうか。
ふと顔を上げると、不安気に自分を見つめている並木に気が付いた。
『二十歳になったら指輪をプレゼントするよ』
16歳の誕生日に言われた亮の言葉を思い出す。
あの時は不安だった。自分がそれまで生きていられるのだろうかと。しかし亮の方が先に逝ってしまった。
胸が締め付けられそうになって、それを打ち消すかのように、ふっと並木に微笑んだ。
「サンキュ、気に入ったよ」
左手をかざして嬉しそうに言った。
そして、運ばれて来た料理に手をつけると、二人は何の変哲もない他愛のない話をしながら食事をした。が、司にはそれがとても新鮮に感じたのだろうか、時間の経つのも忘れていた。
二人は店を出ると、暫らく歩いた。
海岸へ出て、砂の上を歩く。
周りには灯りもなく、上を見上げると、真夏の夜を星達が煌いていた。
「こんなにも星があったんだなぁ・・・」
司が言おうとして並木を見た。 先に言われてしまった。
「ああ。・・・海は夜に限るな・・・」
真っ直ぐに暗闇に包まれた海を見た。このまま暗闇に吸い込まれそうだ。
「何で?」
「ふんっ、昼間は暑いからな」
皮肉っぽく言うと、その場に腰を下ろしてタバコに火をつけた。
一瞬、ライターの灯りで、司の横顔が映った。が、すぐに消えて、白い煙だけが糸のように司の影から流れて行く。
並木もすぐ隣に座った。
二人共黙って前を見つめ、波の音を聴いていた。
二人の周りには人影は見えない。遠くの方で、車の走る音が時々聴こえてきた。
司がタバコを投げると、砂に埋もれて火が消えた。
このまま全てが消えてしまえばいいのに ・ ・ ・
急に胸が締め付けられると、そのまま頭を並木の肩に乗せていた。
「しばらく・・・このまま・・・」
そう呟くと目を閉じた。
今、司は何もかも忘れたかった。小包の事も、アルバムの曲作りの事も、ツアーの事も、メンバーの事も、秀也の事も・・・
並木といると、何もかも忘れさせてくれるような気がした。
亮を強く感じるからだろうか、安心する。
ふと頭を上げて並木を見ると、並木の顔が近づいて来る。
司は目を閉じた。
そして初めて秀也以外の男の口付けを受け入れた。
マンションの前で車が止まると、司は左手をかざした。
「サンキュ」
「どういたしまして・・ね、今度はいつ会える?」
左手を戻すと前を向いた。
「難しいな。今、マジで忙しいから。レコーディングが終わらないと無理だ。悪いけど10月まではダメだな」
「そっか、仕方ないな。食事とかも?」
「ごめん、集中したいから・・・」
「いいよ。それじゃ、会いたくなったら電話して。それ、まだ預けておくか 」
「うん、それじゃ」
ドアを開けようとして並木に腕を掴まれた。
少し驚いて振り向くと心配そうな顔をしている。
「余り、無理するなよ」
それだけ言うと手を離した。
司は黙ってドアを開け外に出ると、そのままマンションの中へ消えて行った。
その後姿を見ながら並木は、司がこのまま何処かへ行ってしまうのではないかと、一瞬思ったが、それを打ち消すかのようにアクセルを踏んだ。
部屋へ入り灯りをつけると、窓際へ行き、カーテンの隙間から外を覗いた。
暗闇の窓に自分の顔が映った。
17歳の誕生日から、今まで必ず秀也と過ごしていた。
初めて秀也のいない夜を過ごす。
司の25歳の誕生日だった。