第九章・Ⅰ波紋(ニ)
7月20日、岡山の新しい会場からツアーが始まった。
滑り出しは順調だ。翌日は倉敷で行う。二日連続でのライブは、やはり気分がいい。皆、司を心配していたが、何とかツアーのアレンジだけは上手く乗り切る事ができた。
司もステージに立つ事で、ストレス解消にもなっていた。3日ぶりに東京へ戻って来ると、今度は取材に追われる。
そして、久しぶりに事務所を訪れると、今度はメールの開封作業に追われた。
こればっかりは仕方がない。自分で命令した事だ。
山積みになったデスクに、うんざりしながらも、一つずつ慎重に開けて行く。が、中身を読む暇もない。小包もかなり来ていた。それらも一つ一つ丁寧に開けていく。 もし、万が一何か入っていたら堪らない。が、神経を使う割りに、どれもこれも他愛のないものばかりだった。
と、一つ、手の平に収まりそうな箱に気が留まった。
慎重に開けるとワラ人形が一体入っていた。
「随分と古典的だな」
「どれ」
晃一が中を覗き、摘み出そうとしたが、司がその手を振り払った。
「待てっ!」
そして、ハサミでそーっと摘み出すと、その全身に、針が逆に突き刺さっていた。
「手の込んだ事しやがるな」
二人は感心したように言い、そのままワラ人形を箱へしまうと、ビニル袋に入れて 金庫へ保管するよう、透に指示した。
「何だかすげェ事になりそうだな。お前、これ全部一人で開けるつもり?」
隣のデスクに山積みになった小包を見て言う。
「ああ、そう言ったろ」
司は次の箱を取ってそれを開ける。大抵はファンからのプレゼントだ。ツアーに向けて栄養ドリンク等もある。そういった物は有難く思った。思わず開けて飲んだりもする。
そのうち晃一が一つを取上げて、箱を振った。
「ばか、よせっ」
司は慌てた。 何かとんでもないモノだったら一大事だ。
しかし、晃一は、ん?と怪訝な顔をしながら耳元で振っている。ワレモノ注意の札が貼ってある割には軽過ぎた。
それに、振っても音がしないのだ。
「何だ、これ。入ってねぇんじゃねぇの」
そう言ってガムテープを剥がす。
え!?
司は自分の手にしていた箱を放り投げそうになって、慌ててそっと置くと、晃一から箱を取上げようとしたが、晃一がそれを避けて箱を開くと、中にはビニル袋が入っている。
何だ?
覗き込んだ司の顔の目の前で、袋を開けた。
瞬間ツンっとした匂いが広がり、司はハッとしたが、それを思い切り吸ってしまい、慌てて袋を閉じて箱へしまった。用意してあったビニル袋にそれを入れ、封をするが、全身が震えている。封をし終わったと同時に床に崩れた。
「ば・・っかやろ・・・」
晃一が驚いて司を抱き起こすが、既に意識が朦朧としている。
「どうしたっ、司っ!? 司っ!?」
必死で揺さぶった。スタッフも驚いて駆け寄って来る。司は薄っすら目を開けると
「紀伊也を・・呼んで・・」
それだけ言って気を失ってしまった。
晃一は傍にいたスタッフに至急紀伊也を呼ぶように言って司を見た。
司は突然うっと呻き声をあげ、体をくの字に折り曲げると、苦しそうに胸を押さえた。呼吸もはぁっはぁっと途切れる。
どうやら発作が起きてしまったようだ。晃一は司をソファに寝かせ、紀伊也の来るのを待った。
暫らくして紀伊也が慌てて飛び込んで来た。
スタジオで、曲のアレンジをしていた所へ内線が入り、急いで来たのだ。
晃一から事情を聞いて、司の口元に鼻を近づけると急に険しい表情になった。
「クロロフォルムか」
え? 晃一は紀伊也を見た。
聞いた事のある名前だった。しかし晃一には、それが何なのかよく分からない。
司が発作を起こしているのを確認すると、紀伊也は自分のセカンドバッグから薬を取り出し、それを口の中に押入れて飲み込ませた。
暫らく様子を見ていると、息が落ち着いて来る。皆、とりあえず紀伊也の指示でそのまま様子を見る事にした。
一時間程して司が目を覚ました。
「大丈夫か?」
目を開けると、紀伊也が心配そうに覗き込んでいる。隣では晃一が申し訳なさそうに司を見ていた。
そんな晃一に思わず苦笑した。
「だから、勝手に開けるな、と言ったろ。 ・・・ っく、ニトロか・・」
体を起こそうとするが、力が入らず、返って気だるい。
思わず紀伊也を睨んだ。
「仕方ない。ああするより他になかったんだ。それより、ボンのとこへ行きたかった?」
嫌味っぽく横目で見ると、司はチッと舌打ちして目を閉じた。
「まぁ、いい。タバコくれ」
片目を開けて紀伊也に手を出す。
紀伊也はポケットからタバコとライターを出すと、司に渡した。司はそれを受け取り、1本抜くと箱を返して口に銜え火をつけた。一服吸ってそのまま吐くと、司の顔から真っ直ぐ上に向かって煙が伸びて行く。
「晃一、気にするな」
司は横目で晃一を見た。
「こうなる事は承知しているさ」
そう言うと、ニッと口の端を上げて笑い、タバコを噴かし、晃一の顔目掛けて煙を放った。
「済まないな」
晃一はそう言うと、煙たそうに咳き込んだ。
暫らくして、司は立ち上がると、またデスクに戻り、何事もなかったかのように山積みのメールを開封していった。
この後、司は密かに紀伊也と透に二つのメールの調査をするよう命じた。