第八章(四の2)
二人が店に入ると、客は誰一人いなかった。まだ、開店したばかりだ。今日の最初の客がジュリエットの司と秀也だったので、店員も少し緊張気味だ。
二人は案内されるまでもなく、窓際の奥の席に着いた。
「誰もいねぇじゃねぇか」
司はつまらなそうに店内を見渡す。
「まだ、開店したばかりだからな」
秀也は自分の腕時計を見せた。時計の針はまだ11時15分だ。
「あれま、そんなに早かったの。どおりで腹も空いてない訳だ」
司は、さっき途中で買ったタバコの封を開けると、一本抜いて火をつけた。店員がやって来て、熱いタオルと水とメニューを持って来る。
彼女は司と秀也を交互に見たが、司は機嫌悪そうに窓に向かって煙を吐いている。二人で何度かこの店には来ていたので、彼女とは顔馴染みになっている。
「今日のお勧めは何?」
秀也は彼女からメニューを受け取りながら訊く。
二人がランチメニューはあまり見ないのを知っていた彼女はニコッと笑うと
「えー、今日は、ナスとトマトのスパゲティです」
と応えた。
「へぇー、美味そうだな。オレ、それにしよ」
司が煙を吐きながら横目で見る。
「じゃ、それ二つ。あと、ビールと、司は、赤?白?」
「白、一本」
「はい、かしこまりました 」
一礼して去って行った。
二人ともに珍しく黙ったままだ。店のスタッフも、余程二人共に機嫌が悪いのかと思った。
いつもなら、秀也に向かって文句を言ったり、冗談を言ったりと、何かとよく喋る司だった。時々、会話が聞こえてきて可笑しかったりする。が、今日は何となく気まずい空気が漂っている。
店員が再びトレーを持ってやって来る。
秀也の前に、細長いグラスに細かいふわっとした泡がデコレーションされたビールを置き、司の前にワイングラスを置くと、深緑色をしたボトルから淡い黄色がかったワインを注ぐと、ボトルクーラーに入れて去って行った。
司はタバコの火を消し、グラスを取って口に含んだ。
一瞬、わぁっと甘いシロップが広がるようだったが、すぐにピリッとシロップが引き締まり、さわやかな甘さに変わっていく。冷たさも伴って、すうっと喉に流れて行った。後味にシロップは残らない。
ふうっと、ホッとしたように息をついた。
秀也はビールを飲みながら、ワインを口に含んだ司を見ていたが、そのホッとしたような顔に安心した。
連れ出して良かった。本当はあんな事をした後だったので、どうしようか迷ったのだ。それにもし声をかけて逆上されたら、それこそ取り返しのつかない事態になり兼ねない。いちかバチかで声をかけたら素直に来たのだ。秀也は少し驚いていた。
司がグラスを空け、ボトルを取ろうとした時、電話が鳴った。
並木からだ。
秀也は嫌な気分で司を見たが、司のその表情に驚いて、自分の気分も何処かへ行ってしまった。
明らかに、ムッとしている。それも、今にもテーブルをひっくり返しそうな勢いなのだ。
司はチッと舌打ちすると、忌々しそうに電話に出た。
「はい・・ うっせェな、自分で話せよ。 ・・・ オレには関係ねぇだろ。・・何 ・・・ そうだよ、こっちだって忙しいんだ。 身内の事はてめェらでカタつけろよ、じゃあな」
そう言うと電話を切ってテーブルに置いた。そしてボトルをガッと掴んで、グラスに波々と注ぐ。ボトルを戻してグラスを取ろうとした瞬間、再びテーブルの上の電話が鳴った。
「馬鹿野郎っ、メシくらいゆっくり食わせろっ」
電話に出るなり、そう怒鳴ると電話を切ってテーブルに放り投げた。
勢いで秀也の前まで滑っていく。秀也はその電話を取ると、何だか並木が気の毒に思え、思わず苦笑してしまった。
電話を手にして苦笑している秀也を横目で見てワインを飲むと
「内輪もめだよ。ったく、関係ねぇって言ってるのにしつこいヤツだぜ。それにこっちが忙しいって言ってんのにプルプル鳴らしやがって、うるせぇんだよ。 ったく、調子に乗りやがって。だいたいアイツは自分の事何だと思ってんだよっ。このオレに一々指図しやがる。 ねぇっ、どう思う?!」
と、いつもの如く、最近溜まっていた並木への不満を秀也にぶち撒かす。
「どうって言われてもねぇ・・・。お前と付き合う男って大変だよな。電話するにしても、これじゃあ、迂闊にかけらんないよ。いきなり怒鳴られたら堪らなねぇだろ、可哀そうに」
「ヤケにアイツの肩持つじゃねぇかよ。誤解してたんじゃねぇのかよ」
司に横目で睨まれたが、並木が気の毒に思え、秀也は自分が変な想像までしていた事がおかしくなってしまった。
「そんな事した?」
秀也のすっとぼけた言葉に、ふんっと司は鼻で笑った。 司の中で、つっかえていた物が、一つ解けたような気がした。
「それより、さっきの電話・・・」
秀也が訊きかけたところで、パスタが運ばれて来る。
トマトソースにナスが、焦んがり焼けて美味しそうだ。
司は早速、フォークを取るとスパゲティに入れ、上下にソースを混ぜ合わせた。そして、フォークに巻きつけて口に入れようとした時、
「飛ばすなよっ」
秀也が慌てて言うが、既に遅かった。 チュルチュルっと司の口の中に運ばれた時には、トマトソースがあちこちに飛び散っていたのだ。
ん? と秀也を見ると、秀也は呆れたように溜息をついて食べ始めていた。
「あー 美味しかった」
司は満足そうにナプキンで口を拭くと、残りのワインを飲み干した。
「司、どうしてくれんだよ」
秀也は食べ終わって、フォークを皿に置くと、自分の白いシャツの胸と肩と腕を指した。
ん? と指された箇所を見ると、点々とトマトソースが散っている。
「はは、お前 食べんの下手くそだな」
「ばか、お前が飛ばしたんだろが」
そう言って司の胸を指す。司が自分の胸を見下ろすと、確かに点々とトマトソースがついている。
「だから、気をつけろ、といつも言ってんだろ。 ったく、ガキじゃあるまいし」
「まぁまぁ、そんなに怒りなさんなって。 お前だから、気を遣わなくて済むんだから。それに確か隣、服屋だったろ、後で買いに行こ。オレが出すからさ」
司は笑いながら秀也を見ている。 秀也もまったくしょうがないな、と言いながらも笑っていた。
二人で服を買うのは久しぶりだ。選んでいて何となく楽しくなって来る。このまま何処かへ出かけたい気分にもなってくる。
結局、何でもない普通の白いシャツを選んでその場で着替えた。
事務所へ戻ると、皆何となく二人を身構えて出迎えたが、司と秀也が出て行った時とは違うシャツで、しかも全く同じデザインと色のシャツを着ていた事に、全員先程あった出来事が、なかったかのように安心して二人を迎えると、各々の仕事に戻って行った。