第八章(四)
誤算(四)
翌日、ようやく熱も微熱程度まで下がり、昨夜食べた具沢山の粥のお陰で快復した司は事務所へ出かけた。
「大丈夫か?」
晃一から事情を聞いたナオが声をかけた。
ソファでは、ナオと紀伊也がタバコを手にコーヒーを飲んでいた。デスクの方では、秀也とチャーリーが何か話をしている。
突然背後から肩に手を廻された。
「司くん、お元気そうで何よりですね」
晃一が嫌味っぽく司の顔を覗き込む。
「何だよ」
思わずムッとなった。
「お前さんのお陰で 今やみーんな肉嫌いだ」
そう言いながらスタッフの方を指した。
スタッフは司が事務所に入って来た時から、何気に視線を追っていたが、晃一が司の肩に手を廻し、何やら嫌味っぽく言っているのを目にすると、今自分のしている手を止めて全員が二人に注目した。
司は皆の何となく恨みのこもった目に、ギョッとした。
「何だよ」
もう一度、晃一に向かって言った。
「あら? 覚えてないの? 俺たち、この世の終わりかと思う位食ったんだぜ、ヤ・キ・ニ・ク」
廻していた手をそのまま首へ持って行き、いつものごとく締め上げた。
げぇーっ、と少し大袈裟に苦しい声を出し、晃一の腕を振り払おうともがく。
「何だよ、そんなに渡してねぇだろっ」
「あれで?」
「あれでって、20だったら問題ねぇだろ・・?」
「20?」
晃一は手を緩めるとそのまま肩に手を戻した。
「そうだよ、ケホっケホっ・・。 逆に足りなかったろ?」
「50あったよ」
「50?」
え?と晃一を見ると、晃一も、え?と司を見る。
二人の視線が交わった時、突然司は思い出したかのように怒鳴った。
何かが司の中の怒りを爆発させた。怒りというよりは何か溜まっていたものだ。
「そうだ、思い出したっ! ったく、宮のお陰でエライ目に遭ったんだっ」
司は宮内を睨みつけた。司のやり場のない怒りが先ず、宮内に向けられた。
「お前のせいで、汚ねぇ水は浴びるわ、その上凍える程にクーラー 利かせやがってっ。お陰でダウンだ。 発作まで起こすし、紀伊也が来てくれなかったらマジであの世行きだぜっ。 それで何っ!? 50万だって?! 熱のせいで押し間違えたんだよ、きっとでっ。ったく何考えてんだよっ」
「何をそんなにイライラしてるんだ。宮に当たっても仕方ないだろ」
司の剣幕に秀也が心配して来る。
いつもならこれ位の事でこんなに苛ついたり人に当たったりしない。皆も驚いて司を見ていた。
「仕方ないって? ばっかやろう、てめェらだってオレが居るって分かってんのに帰りやがって、何の為に鍵渡してんだよっ。それに、何で、お前じゃなくて紀伊也が来んだよっ!」
司は秀也に向かって怒鳴っていた。
「しかも、変な誤解までしやがって、バカじゃねぇの」
パシンっ!!
瞬間、秀也は司の頬を平手で叩いていた。
っ!?
全員司と秀也に釘付けだ。電話が鳴っていても取る事が出来ない。特にメンバーは固まって二人を見守っている。
次の瞬間、司は秀也を睨みつけると、逆平手で頬を打ち返して事務所を出て行ってしまった。
秀也はその場に立ち尽くしていたが、チッと舌打ちするとポケットからタバコを取り出し、ソファに腰を下ろすと火をつけた。
ふーっと、思い切り煙を吐き出す。
「何なんだよ、あの態度は!?」
吐き捨てるように言うと、タバコを吸った。
「秀也?」
晃一が秀也の隣に座った。向かい側に座っていたナオと紀伊也も秀也を見守っている。
「あ、ああ、ごめん」
「何かあったの?」
ナオが心配気に訊く。
「いや、何でもないよ、ごめん」
「でも」
「ああでもしないと、宮に殴りかかってたろ、アイツ」
苦笑いしながらナオを見ると再びタバコを吸った。
「そうだけど・・・」
ナオは司が出て行った方に視線を送った。
秀也を打った時の司の目は尋常ではなかった。何か思い詰めていたようにも見えた。それは、晃一にも紀伊也にも感じていた事だった。
三人は黙って、顔を見合わせた。
スタッフ達も、司と秀也がやり合った事にはショックを受けていた。メンバーの中でも特に仲の良い二人だ。 特に司が何かと頼っていた事は周知の事実だったし、取材の撮影でも大抵二人一緒だった。それが自然なだけに今回の事はショックだった。が、どうする事も出来ない。とりあえず、二人の事は他のメンバーに任せるしかなかった。
******
少し経って、突然司が走って飛び込んで来ると、一人の女性スタッフの所に駆け寄った。
その女性スタッフは、ファンレターの仕分けをしていた。
一つの白い封筒を開けようと、ペーパーナイフで切り込みを入れ、中身を出そうとした瞬間、ツっと指先に痛みが走った。
その瞬間、その手首を誰かに掴み上げられ、人差し指を思い切り吸われた。
指の血液が逆流し、一気に吸われて行く。
切った痛みより吸われる方が痛かった。急に手を離され、目の前に立っている人物を見上げると、司だった。
ぺっぺっ と吸った血を吐き出すと紀伊也を呼ぶ。
いきなり飛び込んで来たかと思えば、スタッフの手を掴み上げ指先を銜えて血を吸い吐いた司に、皆あ然としている。
「紀伊也、とりあえず吸っといたからすぐ手当てしてやれ」
険しい表情の司に紀伊也は頷くと、彼女を隅のキャビネットまで連れて行き、救急箱を取り出すと手当てを始めた。
「司さん、1番に電話です」
黙って近くの受話器を取上げた。
誰からの電話かは大方、予想がついた。
「受け取ってもらえたか?」
しゃがれた低い男の声だった。
ヤツの声にも似ている気がしたが、明らかに日本人だった。
「随分なご挨拶だな が、残念だが、受け取ったのは髪の長い女性でね。もう少しでお嫁に行けなくなるところだった」
紀伊也の取った行動と言い、司の電話口での応対と言い、何か只ならぬ気配を感じ、事務所内は静まり返って司に注視している。
「そうか、それは残念だ」
「で、オレに用があるんだろ。 用件は何だ?」
「コンサートを中止しろ。それだけだ 」
-まったく、この手の脅しは何度目だ
ツアーが始まる前や何処かでコンサートをする前にはよくかかってきていた。が、全て悪戯電話だ。
「そいつぁ、出来ない相談だな。てめェ一人のわがままに一々付き合ってるヒマはないんでね」
司は鼻で笑った。 明らかに脅迫されている。が、司は慣れたもんだった。
「そうか、それは残念だな。 ならば仕方がない。 ・・・ お前には死んでもらうぞ ・・・ タランチュラ」
そう最後に言葉を残し電話が切れた。
司はふんっと鼻で笑うと静かに受話器を置いた。
「司、何て?」
チャーリーが、顔色を変えて立ち上がる。
「心配すんな、いつもの脅しだ。ツアーを中止しろとさ。 ったく、毎回毎回、ご丁寧な挨拶だぜ」
首をすくめてチャーリーを見る。
そうか、とホッとしたチャーリーだったが、司が再び厳しい表情になったので不安になった。
「いいか、これから、オレ宛のメールは全てオレが見るから 絶対に誰も触るなよ。 特に小包は、だ」
そう命令した。スタッフは驚いて司を見る。今までに一度足りとも、自分で触った事すらないだけに何事かと思った。
「でも、それは・・・」
チャーリーが言いかけた。 どうせ、口だけなんだから・・・。
「死にたかったら勝手にしろ。その代わり、ココで開けるなよ。どっか、遠い所で開けてくれ。オレもまだ死にたかねぇからな」
「だって・・・ 」
今の電話と関係があるのだろうか。
「あいつみたいになりたいのか? オレがいなきゃ、もう死んでるよ」
紀伊也に手当てされた彼女を顎で指す。 そして、彼女が開けた白い封筒から、そっと中身を取り出すと、出て来たのは カミソリの刃 だった。
「何の毒かな。 サソリかコブラの味に、似ていたと思うけど」
おどけたように舌を出し、カミソリの刃を元にしまうと、ゴミ箱に捨てた。
「表沙汰にするなよ。今、遭った事はこの場限りにしておけ。表に出す時はオレから指示する」
司はチャーリーの目を見ると、そのまま事務所内を一周した。
全員が吸い寄せられるように司のその無表情なまでに冷酷な目を見てしまうと、指示に従った。ただ、紀伊也だけは見なかった。
ふうっと一息吐くと、ソファへ歩いて行き、ナオの隣に腰掛けた。ポケットを探ってチッと舌打ちすると秀也の目の前に手を差し出す。
秀也は苦笑して、自分のタバコを一本抜いて渡すとそれに火をつけた。
一服吸うと、天井に向かって煙を吐いた。
「今の問題なし?」
隣で足を組んでソファにもたれ、上に向かって煙を吐く司にナオが訊く。横目でちらっとナオを見ると頷いた。
「ああ」
そして、また上を見ながらタバコを吸った。
- ヤツは タランチュラ と言った。 やはり、ヤツの残影なのか・・・。
「ったく、ヒマなヤツだな。しかし、司も毎回毎回ご苦労だな」
晃一もソファにどっかと腰を下ろすと司を見た。
「ふんっ、お前が言うと、全部嫌味に聞こえるよ」
煙を吐きながらチラッと見る。
「そりゃ、どうも」
まったく、ああ言えばこう言う。
晃一は毎度の事ながら頭に来て、隣にいる秀也に、何とかしろと言わんばかりに頭を小突いた。
秀也もナオも、司と晃一の嫌味の応酬には慣れていたので、苦笑するしかない。
仲が悪いわけではない。これが、お互いの信頼の確認の方法だった。
「司さん、電話」
透が呼んだ。
「誰?」
半ばうんざりした様子だ。
「ソノベオフィスの磯部さんって方から」
はぁっと、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けると立ち上がった。
「ソノベのイソベね。 ややこしい名前付けやがって、ったく・・ 」
ぶつくさ訳の解らない事を言いながら、透が持っていた受話器を取上げた。
しばらく、黙って聞いていたようだったが
「ったく、一々オレに言うなよ! 直接本人と話せっ、馬鹿野郎っ! ・・・ あ゛ーっ!? ・・・ 分かったよ、言っとくから・・・」
突然 怒鳴ったかと思えば、最後には呆れた声で、仕舞いには受話器を電話に投げ付けていた。
あ然として皆、司を見ている。
さっきの電話と言い、今の電話と言い、段々に司の機嫌が悪くなって行くのが、目に見えて分かる。
こちらに戻って来る司を見れば、相当機嫌が悪そうだ。 こりゃ、誰も近づきたくないな、そう思っていると、秀也が立ち上がり、自分のタバコとライターを手に、司の前にそれを差し出した。
司は立ち止まって、それと秀也を交互に見た。
「吸う? それか、メシ行かねぇ?」
「行く」
秀也が司の肩に手を廻し、外へ連れて行った。
二人が外へ出て行くと、事務所内は安堵の空気に包まれた。
秀也が爆弾のスイッチを切ってくれたのだ。