第八章(三)
誤算(三)
シングルCDの発売も無事に終わり、一週間で売り上げを100万枚記録した。
やれやれと息の付く間もなく、テレビの出演や取材に明け暮れた。
写真集の撮影の為、梅雨の雨の日を狙って、司だけ鎌倉に向かわされた。
他のメンバーは事務所に残ってスケジュールの調整に追われた。が、今日はこれだけで終わりそうだったので、CDの売り上げを記念するのと同時に、久しぶりに全員で焼肉を食べに行こうという事になり、メンバー始めスタッフも少し気を楽にして仕事に取り掛かっていた。
「何だって、こんな雨ん中、撮らなきゃなんないのかねー。 しかもクソ蒸し暑い」
司はワンボックスカーの後部シートにもたれながら呟いた。
撮影場所に着くと、既にカメラマン始めスタッフも下見を兼ねて準備をしていた。
外はシトシトと湿った雨が、寺一面に咲く紫陽花を一層際立たせていた。 司も一面に咲き誇る紫陽花に幾分気分が安らいだ。
青いシルクのタンクトップに白いシフォンのブラウスを羽織り、黒い皮のズボンを穿いた司が、紫陽花の傍らに立った。
華奢な体が大輪の花に囲まれ繊細に映る。あの突拍子もなく飛んだ性格の影は微塵も欠片もない。
宮内は不思議な人だ、と感心したようにうっとりと見ていた。
「もう少し、濡らした方がいいですね」
カメラマンが言った。予想より雨が少ないのか、それとも濡らした方がいいのか。
スタッフに何か告げると、暫らくして一人が水の入ったバケツを持って来た。
「これ、かぶって下さい」
司にバケツを渡そうとするが、司は手を引っ込めてバケツを覗き込んだ。
「マジ ・・・ で?」
見れば、墓にやるバケツで少し中が汚れている。 こんなのかぶれるかよ、と宮内を睨み付ける。
「どうやって、かぶればいいんですか?」
宮内は司を横目にやると、カメラマンに訊いた。
「そうね、バシャーっと行っちゃっていいよ。 服にもかかって平気。でも、髪は全部濡らしちゃってね」
「バシャーっ とね」
宮内は含み笑いすると、スタッフからバケツを受け取り、司目掛けて思い切り水をぶっ掛けた。
バシャーっ!
「うわっ」
いきなり勢いよく水を浴びた司は思わず仰け反りそうになって、体制を立て直すが、前につんのめって水が口に入り、ペッペッと唾を吐いた。
「てッめーっ、何すんだよっ!!」
宮内に掴みかかったが、バケツを目の前に突き出され、やめた。
「チッ、しょうがねぇなっ、くそっ。 これが撮影じゃなきゃぶっ殺してやるとこだったのに」
忌々しそうに顔を拭うと髪を左右に振った。
「じゃ、行きましょう」
カメラマンの合図で撮影が始まった。
濡れたシフォンのブラウスが透けて肌に纏わり付いている。
上を見上げながら物憂げな表情をした司が両手を広げる。
辺り一面に広がった青紫色の紫陽花が、司を優しく優雅に包んでいた。
撮影が終わると、宮内が「お疲れ様でした」とバスタオルを司の肩に掛けた。司はじろりと横目で宮内を睨む。 覚えてろよ、と言わんばかりだ。
「車の中で着替えてくださいね」
「えー、シャワーは?」
「そんなもん、後で」
宮内は司を置いて他のスタッフの元へ走って行く。仕方なく車へ戻りドアを開け、中へ入り閉めるとヒヤっとした。
思わず身震いしてしまった。
「さっみいな、なんだよ、これ」
言いながらブラウスを脱ぐと髪を拭いた。そして、体も拭いていくが、突然、背筋に悪寒が走った。ヤバイと思ったが、全身に冷たい物が流れ、そのまま体が震えていく。
とにかく着なければと、替えの黒いブラウスにそのまま腕を通し、ボタンを閉めた。
徐々に息が熱くなって行くのが分かる。バスタオルを体に巻きつけてシートにもたれた。
暫らくして宮内が運転席に乗り込んで来た。後ろを見ると、司は寝ているようだった。 あらあら、と思ったが、連日の忙しさで疲れているのだろうと、そっとしておく事にした。
助手席のドアが開き、他のスタッフが乗ると車は発信した。途中、交通渋滞に巻き込まれ、都心へ戻ると6時近くなっていた。
「ごめん、そこでちょっと停めて」
後ろから司の気だるそうな声がしてバックミラーを見ると、こちらを見ているが、何だか睨みつけられているような気がして、路肩に車を停めると銀行の前だった。
司はタオルを体から外しシートへ置くと、サングラスをかけて車の外へ出た。
「ちょっと、待ってて」
ドアを閉めて、銀行の中へ入って行く。暫らくして封筒を持って出て来ると、運転席の窓を叩いた。宮内が窓を開けると封筒を突き出し
「ごめん、ちょっと気分悪いからオレ帰るわ。これ、晃一に渡しといて」
そう言うと、無理矢理押し付けて去って行った。
後部シートには、湿ったバスタオルと濡れたシフォンの白いブラウスが残されていた。
宮内が遅れて店に入り皆の待つ座敷に行くと、既に宴会は始まっており、あちこちで肉の焼ける音とタレの焦げる良い匂いに包まれていた。宮内も久しぶりにゆっくり食事が出来ると思い、近くの空いている席へ着く。隣にいたスタッフが「お疲れ」とグラスにビールを注いでくれた。
宮内も「お疲れさん」と、グラスを軽く挙げ、それを一気に飲み干した。
-ふーっ、旨い。
「あっれ、宮ちゃん、お疲れ」
晃一が宮内の肩に手を廻してビールを注ぐ。
「ああ、どうも、お疲れ様です」
「司は?」
あ、そうだ と思い出し、ビールをテーブルに置くと、膝に置いたセカンドバッグから封筒を出すと晃一に渡した。
「司さんから。何だか気分悪いから帰るって言って、帰っちゃいましたよ。で、これ、晃一さんに渡しといてくれって」
ふーん、と晃一はビールをテーブルに置き、封筒を開けて中の紙を引っ張ると、一万円札の束が出て来る。
周りに居た者がギョッとしてそれを見るが、晃一は気にする事もなく、それを一枚一枚数え出すと、全部で50万円ある。
「そういう事」
ナニナニと、メンバーが集って来る。
「あいつ、ホント、性格悪ィよな」
札束を封筒に収めながらメンバーを見渡すと、皆もフンフンと頷く。
スタッフ達は訳が分からない。
晃一が宮内に説明した。
「自分から行こうってけしかけといて、急に行きたくなくなったか、それとも元々行く気がなかったか。 それで、とりあえず誘っといた手前、悪いから金だけ渡す、と。 ま、ここまでは良いとして。さて、ここからが問題です。秀也くん」
「つまり、渡した分は全部使え、と」
「そして、領収書を見せろ」
ナオが続いた。
「しかも、司が行こうって誘った店1軒で」
紀伊也が締めた。
えーーーっっ!!?
皆、驚いて顔を見合わせると目の前で焼かれている肉を見つめた。全員で14人だ。慌てて計算する。一人3万5千円以上は食べて飲まなければならない。しかも経費節約の為、ここは高級焼肉店ではない。 焼肉1軒で、一人3万5千円はキツイ。 というよりは今までにそんなに費やした事がないだけに想像もつかない。
げーっ、マジかよーっ!?
と、皆、うんざりしてしまった。改めて司の性格の悪さを目の当たりにしたのだ。
「なあ、宮、お前のせいじゃねぇの?」
撮影に付き添ったスタッフの一人が宮内を責めると、宮内はハッとなって晃一を見た。
「お前、何かやった?」
横目で睨まれてゾッとすると、あじさい寺で司にバケツの水を浴びせた事を話した。
「おっまえ、よく、生きて来られたな」
呆れて言われ、宮内はあの時の司の恨みのこもったセリフを思い出した。
「撮影じゃなきゃ、ぶっ殺してたって、言われましたよ」
「だろうな」
札束の入った封筒を折り曲げ、ズボンのポケットにしまいながら
「しっかし、ホンッと性格悪ィな。何とかならんかね、あれ」
と、秀也を見ながら言うが、秀也も
「こればっかりはなぁ、俺も知らねぇよ」
と、首をすくませた。
「仕方ねぇな、せっかくだ。 じゃんじゃん、頼もうぜ」
晃一がせきたてるが、落ち込んで食べる気にもならない。
「あー、もう、今日は司の悪口でも言って、ウサ晴らそうぜ」
ナオのうんざりしたような提案にスタッフは納得すると、早速、焼肉とビールを注文し、あちこちで文句の言い合いが始まった。勿論、日頃たまっていた他のメンバーへのウサも晴らしたのは言うまでもない。
翌日の事務所内は、異様な空気に包まれていた。入って来た女性スタッフが思わず顔をしかめる。 皆を見渡すと、昨日宴会に行った者全員がげっそりしていた。奥のソファでも、メンバーが死んだようにもたれている。 行かなかった者は顔をしかめて目を合わせていた。
「ねぇ、司さんと連絡取りたいんだけど」
チャーリーに尋ねるが、気分悪そうに顔を上げると、
「何かあったの?」
と、口を開くと、吐く息が異臭を放っていた。思わず、手で目の前の空気を払い除けてしまった。
「今朝からずっと、電話してるのに繋がらないのよ。こっちの人に訊いてもまだ、来てないって言うし」
時計を見ると既に12時近い。
「もうすぐ来るんじゃないの? それって急ぎ?」
面倒臭そうだ。
チャーリーも他のスタッフも出来れば今は司の顔を見たくはない。皆そう思っていた。
「ええ、まあ。取材の打ち合わせしたいんだけど、来てからでいいわ。来たら連絡してね」
そう言うと、彼女は急いで部屋を出た。廊下の空気がとても新鮮に感じる。
-何なの、あの匂いは。 一体どれだけの焼肉を食べたのかしら。
げっそりやつれたチャーリーを思い出した。
******
結局、行っただけで、気持ち悪くて何も出来なかったメンバーは、事務所を後にすると、さすがに昼食は取る事ができなかったが、夕方になると腹が空いて、紀伊也の提案でそば屋に行くと、全員がざるそばとビールを注文した。
ビールを注ぎながら晃一が呟いた。
「俺達も懲りねぇな」
「うーん、けど、当分肉は食いたくねぇな」
ナオが言うと皆頷く。
「けど、司のヤツどうしたんだろう。 嫌味の一つでも言いに来ると思ってたのに」
秀也がビールを飲んで言うと、紀伊也が秀也を見た。
「少しは反省したんじゃないの?」
「あいつが?」
「だって、さすがに50は多いでしょ」
「ああ、俺も数えながら思ったよ。 せめて30かなぁ、なんて思ってたら終わんねぇんだもん。参った」
「なぁ、後で押しかけようぜ、コレ持って」
ナオがビールの入ったグラスを掲げて言うと、皆ニヤっと笑って頷いた。
そば屋を出て、コンビニでビールと菓子をたらふく買い込んで司のマンションへ向かう。
途中、何回か電話をかけたが出なかった。
マンションに着いて、司の部屋の辺りを見上げると、カーテンが閉じられていたが、灯りの漏れる事はなかった。
とりあえず、エレベーターで最上階まで行くと奥へ歩いて行く。部屋の前で止まると、秀也がチャイムを押した。が、玄関に気配がない。
もう一度押した。
が、暫らく経っても気配がなかった。
いないのか?
ノブを廻すが、鍵がかかっている。
秀也は一瞬、先日の事を思い出した。
司が二日酔いで帰ったと聞いて、心配して行くと、並木が出て来た。その時司はシャワーを浴びていた。何となく気まずくなって、司には会わずに帰ってしまったが、まさか昨夜も? 一瞬司を疑ってしまった。
「秀也、お前、鍵持ってんだろ?」
晃一が訊く。
「あれ、晃一は?」
「ん、今日は持ってねぇよ」
「持ってるけど・・・」
「そうだ、な。 ・・ じゃ、帰るか、仕方ねぇ」
そう言うと晃一は引き返した。四人とも司の部屋の合鍵は持っているが、黙って勝手に開ける訳にはいかない。必ず一言断りを入れる、これが暗黙のルールだった。
最後に帰りかけた紀伊也は、微かにガタっという音を聞いたが、それが自分の手にしていたビールの缶の触れ合う音だと思い、去って行った。
玄関のチャイムの音で何となく目が覚めると、ソファにうつ伏せていたままだった。起き上がろうとしたが、息が苦しい上に全身に力が入らない。昨日帰った時にソファを見付けると、そのまま倒れて気を失ってしまったのだ。まだ熱も下がっていないようだ。相変わらず寒くて身震いした。
二回目のチャイムで、誰かが来てくれたのだと思い、何とか体を起こし、ふらつく頭で歩き出したが、リビングを出た所で歩けなくなり、そのまま壁に寄りかかると座り込んでしまった。
そして、軽い発作を起こし、目を閉じると意識が失くなってしまった。