第七章(ニ)
誤解(二)
司と並木は青山の路地裏にあるカフェで昼食を取っていた。ここは並木がひいきにしている店で静かで落ち着きのあるカントリー調の店だった。食事を終えるとコーヒーが運ばれてくる。司はコーヒーを一口飲むとタバコに火をつけた。並木はミルクを少し入れカップを軽く廻すと口に付けた。
「結構、ヘビーなの?」
カップを置くと司を見る。
煙を上に向かって吐きながら横目で並木を見た。
「ん、まあね。 殆ど中毒」
言いながら灰を落とす。
「心臓に悪いんじゃないの?」
「うるせーな、兄貴みたいな事言うなよ」
大きなお世話だと言わんばかりだが、並木に対して『兄貴みたい』と平然と言ってのけた事に少し驚いた。
その時女性の店員がやって来て、トリュフが四つ並んだ皿を差し出した。
「今日はバレンタインなので、私達女性からサービスです」
並木に向かって微笑む。そして、司にも微笑んだ。
並木が司に目をやると、司は慌てたように言う。
「オレ? オレからはないよ」
並木は一瞬考えたが、思わずクスっと吹き出した。店員もキョトンとしたが、司が男でない事を思い出すと照れたように笑った。
「これ、半分は光月さんの分ですけど・・・」
一瞬目を丸くしたが、呆れたようにタバコを吸うと上に向かって煙を吐いた。
「ありがと」
素っ気無い司に並木は苦笑したが、並木が店員に笑顔で礼を言うと向方へ行った。
「ずいぶんじゃない」
並木は少し窘めるように言ったが、司は事務所でのあのダンボールの山と散らかった包装紙を思い出し、フンっ と鼻で笑った。
「毎年毎年、ご苦労なこった。これで製菓会社は儲かってんだろ」
「司は? その製菓会社に協力したことはないの?」
コーヒーを一口飲む。
「ねぇよ」
司もカップを手にし、口に付ける。
そしてカップを置くと、思い出したかのようにタバコを灰皿に押し付け、黒いプラスチックケースを取って、中からレポート用紙を出した。
「これ、とりあえず見てみて」
並木に手渡した。並木はそれを見ると、目が輝いて嬉しそうに微笑んだ。
『Melody in Memory』と題された歌詞が司の走り書きのような字で書かれてある。
「もう、曲も出来てるんだ。あとは気に入るか入らないかだけなんだけど。 お宅んとこ行く前に家に寄って欲しいんだ。ギター取ってくるから」
並木は本当に嬉しかった。あの時電話で唄って欲しいと言われたまま三ヶ月が過ぎ、すっかり忘れていた頃に司から電話を貰い、正式に事務所を通してオファーがあったのだ。
まさか、自分が憧れていたミュージシャンから実際に歌を貰えるとは思えなかったので、これ程までに嬉しい事はない。
知り合いになれて良かった。そう思ったが、同時に余りにも近づき過ぎて少し躊躇してしまう。ニースの別荘で見た司は眩し過ぎた。未だに脳裏から離れないでいた。
店から歩いて二十分程して司のマンションに着いた。並木を待たせ、急いで部屋からギターケースを一つ抱え出て来た。
そして、元来た道を戻り駐車場へ行き、並木の車でオフィスに向かう。既に三時半を回り、チャーリーも来ていた。 打ち合わせが始まった。
司が曲を披露すると、少しテンポの良いバラードだった。歌を専門としない俳優には唄い易い曲だったので並木はすぐにO.Kを出した。が、元々どんな曲でも断るつもりなどさらさらなかった。
とんとん拍子にスケジュールが決まって行く。並木もドラマの撮影等がある為、空いた日に入れるしかなかったが司はそれに合わせた。そして発売が一ヵ月後の3月25日に決まるとお互い忙しくなりそうだった。
打ち合わせが終わると、既に日も暮れている。司とチャーリーが帰ろうとした時、並木に呼び止められた。
「今夜どう? お礼にごちそうするけど」
「ん、いいけど」
今夜は特に用事もない事を思い出し、すぐ返事をするとチャーリーが寄って来て耳元で囁いた。
「大丈夫? この前みたいにならない? そうなったら、もう知らないよ」
一瞬、ギクッとしたようにチャーリーを見たが、
「いいよ、別に。 だって、オレ達“交際”してる事になってるんでしょ」
と、あっけらかんとして言うと、ねっ、と並木に向いた。
「しかも、バレンタインだし」
と付け加え、チャーリーを横目で見ると、思わずチャーリーは手で顔を覆った。
また、気苦労が一つ増えた・・・。
そんなチャーリーに声を上げて笑うと、じゃあね、と並木と肩を並べて歩き出した。
******
その夜、秀也は初めてゆかりと一夜を共にした。
司と付き合ってから初めてだった。
隣で寝ているゆかりを起こさないように、そっとベッドを抜けるとタバコに火をつけ窓から外を見下ろす。
港に燈る明かりが海に反射している。先に目をやるとベイブリッジが青白く光っていた。
バレンタインか
秀也は手にしたシルバーのライターを見つめた。さっき、ゆかりからプレゼントされたものだった。
司に会うまでは、この日を心待ちにしていたものだ。仲間の中の誰が一番沢山もらうか競っていたものだった。しかし司に会ってからはそれが、特別な日ではなくなってしまった。むしろ、女の子から逃げなければならない厄介な日となっていた。
それがゆかりに言われ、また特別な日になってしまった。
今日、晃一に言われた言葉を思い出し、思わず苦笑してしまう。
煙を窓に向かって吐くと、窓に映っているベッドを見た。
-司は俺にとって特別な女だ。でも・・・ 何だか遠くに感じてしまう。
並木との件以来、特にそう思うようになっていた。
あれから、幾度となく体を重ねたが司は変わっていない。むしろ、自分の方が変わってしまったのか。そう思うことさえあった。
タバコを消してライターを置くとバスルームへ入った。そしてシャワーの栓を捻ると少し熱めのお湯を勢いよく浴びる。
戻ったら司に怒られそうだ。『熱いから冷ましてから来い』そう言われるのがオチだ。そう思うとおかしくなった。
シャワーを止め、バスローブを羽織って戻るとゆかりが体を起こしてこちらを見ていた。
「ごめん、起こした?」
髪をタオルで拭きながら冷蔵庫からビールを取り出すと栓を開けて一口ぐいっと飲む。そして、ベッドの端に腰掛けてゆかりを見ながら飲んだ。ゆかりは「ううん」と首を横に振った。
「どうしたの、眠れないの?」
「秀也さんこそ」
ゆかりを見ると、胸を布団で隠している。思わず目を細めた。意地らしい、そう思った。
あいつがそうしたのは、何年前の事だろう
『馴れって怖いよな』
晃一の言葉が横切る。
「ねえ、ゆかりちゃんにとって、バレンタインってどんな日なの?」
思わず訊いてみる。
普通の女の子はどう思っているのだろうか。『普通』という言葉に、司は普通ではないと、否定している自分に少し笑えるが。
「え、どんなって・・・ 」
「あ、ごめん。ホラ、俺なんかバンド入ってから、この日は女の子から逃げる日だったんだ」
思い出して笑った。
週末にバレンタインが重なると最悪だった。ライブの後には司目掛けて女の子達が殺到して来る。いつもは可愛く見える彼女達だったが、この日だけは悪魔のように思えたものだ。
ゆかりは笑って聞いていた。
「そうね、好きな人と一緒にいられるっていう日かな。 女の子が好きな人に告白できる勇気を貰える日でしょ。 たとえそれがフラれる結果になったとしても、一瞬でも好きな人と居られる日、かな」
遠くを見ながら言うと、秀也を見て微笑んだ。
「好きな人、か・・・ 」
呟くように言うと、残りのビールを飲み干した。
「秀也さんって・・・」
恐る恐る秀也を覗き込む。
「もしかして、他に・・・」
「え?」
ドキッとしてゆかりを見ると、とても不安そうな顔をしている。
「俺はそんなに器用じゃないよ」
言いながらゆかりの肩を抱き寄せた。
嘘をついた。
秀也はその『嘘』を打ち消すかのようにゆかりを求めた。
翌朝の新聞には案の定、司と並木のスクープ写真が載った。 が、ギターケースを持っている司の姿に秀也は苦笑してしまった。
-まったく、ヤツらは飽きもせず物好きだな。
目の前でスポーツ新聞を広げて苦笑している秀也を、ゆかりはコーヒーを飲みながら微笑ましそうに見ていた。いつも上げている長い前髪を垂らし眼鏡をかけている秀也は、人気ロックバンド・ジュリエットのギターリストだとは誰にも分からない。
「何かおもしろい記事でも?」
「あ、いや・・・ 」
秀也は新聞から目を離すとゆかりを見てコーヒーを飲んだ。
見つめられた気がして思わず頬を染める。
フッ、可愛いな。
目を細めて微笑んだ。
誰が見てもこの二人は、バレンタインの日に愛を育んだ恋人同士にしか見えなかった。