第六章(六)
誘惑(六)
パリの国際空港へ降り立った司は並木と別れる際にメモを渡した。
「ニース?」
「ああ、別荘がここにあるんだ。暫らくここに居るから、もし何かあったら言ってくれればいい。メイドも日本語が解るから問題ないよ」
そう告げると並木と別れ電話をかけに行く。
「もしもし、ユリア? オレ、ツカサ。 久しぶり ・・・、 お願いがあるんだ。・・・ はは、ああ、頼むよ。じゃ」
そして、もう一件かける。
その夜、ニースの駅を降りると既に迎えの車が来ていたのでそれに乗り込んだ。
運転手も変わっていなかった。家に着くまでに会話が弾んだ。留守を預かっている者も全員元気だという。デビューをしてから一度だけ滞在したが、それも三年も前の事だ。余りにも多忙を極めていたので、長期休暇が取れずにいた。
久しぶりの司の訪問だっただけに、皆歓喜して出迎えてくれた。
光月家の中でも司が一番人懐っこく皆を楽しませてくれる。
それにここの持ち主は司だった。元々、亮の持ち物だったが、亮の死後譲り受けたのだった。それもあり、司はここが好きだった。
久しぶりに楽しい食事だった。主人と一緒に食卓を囲む事は許される事ではなかったが、司は違っていた。一人で訪問した初日は大抵皆で食卓を囲む。そして、食後のティータイムには司がピアノを奏でるのだった。皆心待ちにしていた。
ショパンの夜想曲
司の好きな曲だった。久しぶりに心が洗われるように和んだ。
来て良かった。あんな形で事務所を飛び出して来てしまったが、それでも来て良かった。今はそう思っていた。
演奏が終わると一斉に拍手が起こる。一人が近づいて来た。
「ユリア様がお見えです」
「そう、部屋へ案内して」
司は立ち上がると居間を後にした。
二階の自分の部屋へ行くと既にユリアがソファに腰掛けていた。
赤茶色がかったブロンドの巻き髪は相変わらずだ。
「ユリア」
声をかけると、立ち上がって嬉しそうに微笑むユリアは更に大人の女性の魅力を増していた。アーモンド色をした瞳が美しい。同性ながらドキッとさせられる。
「久しぶりね、ツカサ。あなたの活躍は拝見させてもらってるわよ」
そう言うと二人は握手を交わし、抱き合って互いを歓迎した。
「元気そうね、と言いたいところだけど、そうでもないみたいね」
「そうなんだ」
トントン、 ドアがノックされ、紅茶が運ばれて来る。テーブルの上に置かれると甘い紅茶の香りが広がった。 司がユリアに勧めると、砂糖を一つ入れカップを手に取り、香りを堪能した。
その様子を見ていた司は以前のままだ、と微笑んだ。そして、司もカップを手にすると、一口飲んでソファにもたれた。
「ねぇ、ユリアと兄ちゃんとはいつから知り合っていたの?」
「なぁに、急に。 訊くまでもないんじゃないの。 私達は・・・」
「ごめん、それ以上の関係だったのかな、と思って」
「それは、なかったわよ。 だって・・・」
ユリアはカップを置くと、サイドボードに飾ってある写真に視線を送る。
「リョウには、あなたしかいなかったんだから」
司は一瞬ギクッとしたが、ユリアが知っていて当然だと思うと、サイドボードの上の亮を見つめた。
「最期まで入る隙はなかったわね。それよりか、あなたの事を頼まれたわ」
溜息をつくように司に向き直った。
「で、どうしたの? わざわざ私に会いに来るなんて。 まだ、指令は出ていないんでしょ」
「ああ」
「それに、急にリョウの話なんか持ち出したりして、あなた大丈夫なの?」
「それが、大丈夫でもないんだ。 自信、ないんだ。自分が解らなくなってきた」
カップを置くと、そのまま頭を抱え込んだ。
「ツカサ、何があったの?」
「 ・・・・ 」
暫らく黙っていたが、全てを解決する為にここへ来た事を思い出し、顔を上げると、今までのいきさつを全て話した。
そして、今日ここへ来る途中も並木と一緒だった事を告げた。
ユリアは黙って聞いていた。
「それに、もう一つやらなければならない事もあるから、早く何とかしないと、って思ったらユリアに会えば何とかなると思ったんだ。 ごめん」
話し終えると息をついた。しかし、少し楽になった気もしていた。
「私の所へ来て正解ね。今も乱れてるわよ」
ユリアは司の脳波の乱れを感じていた。
「とにかく今は休めましょう。 気持ちを落ち着かせる事ね。それから今は彼に会うのはやめなさい。指令を完了させるまではダメよ」
「 ・・・ わかった」
一瞬、司には殺気にも似た冷酷さを感じたが、やがて疲れたようにソファにもたれたまま天井を仰いだ。
翌朝、目が覚めると既に陽が射し込んで部屋が暖かく明るい。
鳥のさえずる声も聴こえてくる。丘の上にあるだけあって、車の騒音一つしない。
窓を開けるとすがすがしい風が、ふわっとカーテンを捲り上げた。
思い切り息を吸ってみる。緑の匂いと共に新鮮な空気を感じた。
空気が美味しかった。 今までこんなに空気が美味しいと感じた事があっただろうか。
何だか生き返った気分になる。
緑の匂いに紛れて微かにコーヒーの香りがした。誘われるように食堂へ降りた。
「おはようございます」
使用人の一人が司に気が付いて言うと、カップを用意し始めた。
「あら、おはよう。随分ゆっくりなのね。 お嬢様」
既にユリアは起きていて、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。
「その、お嬢様 っていうのやめてくれる。何だかすっげー 嫌味に聞こえるよ。 ああ、ありがとう」
言いながらコーヒーの入ったカップを受け取ると一口飲んだ。
毎朝コーヒーは飲んではいるが、今日ここで飲むコーヒーは格別に美味しいと思った。自然に顔がほころぶ。
ユリアは横目で司を観察していた。
「いい顔してるわね。・・・ ね、あなた、日本を逃げ出して来たんでしょ」
ん?
カップから顔を上げ、ユリアを見た。
「相当、疲れてるのね。キイヤの言う通り錯覚起こしたのよ。暫らくここに居なさいよ。私も休暇を取ってあなたの傍にいるわ。・・・ 大丈夫、キイヤには言わないから。 あなたがここに居る事は」
司は黙って窓際に行くと外を見る。
敷地内の庭は丁寧に整えられている。芝生の緑も色褪せる事なく鮮やかだ。
庭の一角に目をやると、アーチがあり、白いバラの花が咲いていた。そこだけは一年中絶やさないようにバラの花が植えられていた。
亮はバラの花が好きだった。
華やかさの中に可憐さを感じる
そんな事を言っていたのを思い出した。
中でも白いバラを愛していた。確かに亮には白いバラが似合う。そう思っていた。
「あの、白い小さなバラはね、あなたの十五歳の誕生日にリョウが植えたものなのよ」
いつの間にか隣にユリアがいた。
「え?」
初めて聞く事だった。亮からもそんな事を聞かされた事がない。
「来年、来た時が楽しみだって言っていたけれど、結局、来られなかったものね・・・」
「 ・・・・ 」
「もうすぐね、命日」
「ああ・・・」
司はじっと、白い小さなバラを見ていた。