第六章(四)
誘惑(四)
月曜日、マネージャーのチャーリーから電話をもらったメンバー達は慌てて事務所に入って来た。殆んど同時にエレベーターに乗り込んだが、四人は黙って顔を見合わせただけだった。
ドアを開けるなりまず秀也がチャーリーと目を合わせて言った。
「司が来てるって!?」
チャーリーは奥のソファを黙って指した。
四人が視線を辿って行くと、ソファに座ってコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる司を見つけた。足早に近寄って行くと、こちらに気が付いて新聞から顔を上げる。
「よぉ、皆さん、お揃いで」
「よぉって、お前っ何なんだよ。心配したんだぞっ! 昨日病院に行ったらお前いなくてさ、どこ行ってたんだよっ」
すっとぼけた調子で四人を見渡しながら言う司に晃一が怒鳴った。
無理もない。昨日は四人で病院へ来るように雅に言われて、行ったはいいが、ベッドはもぬけの空で、着替えの入った紙袋もフルートの入った黒いケースも一緒に消えていたのだ。仕方なく帰ろうとした時、雅から意外な告白を受けて皆驚きを隠せず、その後茫然と過ごしていたのだ。
それを今朝になって、司が事務所に来ているという連絡を受けたものだから、皆仰天して慌てて来たのだった。そんな皆の心配をよそに、平然としている司に晃一が怒るのも当然だった。
「何だよ、皆して血相変えて。オレなら大丈夫だよ。ボンも何ともないって言ってたろ。それにあんな所にいるのも窮屈だしさ、まあ、いつもの通りだ。 ・・・? そんなとこに立ってないで座れば?」
そう笑いながら言うとコーヒーを飲んだ。
何だか晃一は狐に包まれたような気になって、まあ、いつもの通りなら心配する事もないだろう、とソファに座るとタバコを取り出した。
「大丈夫らしいぜ。そんなに心配する程の事でもないんじゃないの」
ホッとしたように言うと火をつけ、一服吸った。三人は司を見ながら黙って座った。
「ところで、お前何しに来たんだ?」
晃一が新聞を読み続けている司に訊く。
「ん? ああ、そうだ、思い出した。スケジュールの確認だよ。ねぇっ、チャーリーっ、スケジュール表取って!」
顔を上げ、チャーリーに向かって叫んだ。少ししてチャーリーが二枚ほど紙を持って現れ、司に渡すと何も言わず戻って行った。
司はそれを受け取り見ていたが、はあっと溜息をついてソファにもたれた。
「結構、入ってんなぁ・・・」
「どうした? 珍しいな、お前がスケジュールの確認だなんて」
「え、ああ。 何かさ、最近忙し過ぎて物忘れ激しいんだよ。昨日誰と会ってたとか、どこに行って何したか、とかさ。 ほら、十二月までツアー、オフじゃん。その間のスケジュール忘れちゃって迷惑かけらんないし」
「そりゃ、そうだ。 ところで、オフってどれ位あんの?」
「オフ? ・・・ えーっとね。 ・・・。 何だよ!? オレだけないじゃんっ! 何でっ!? 何だよ、この取材、取材、取材って!?」
呆れてスケジュール表を投げ出すと、晃一の胸のポケットからタバコを奪って一本抜いた。そして、火をつけると天井に向かって大きく吐いた。
煙が勢いよく真っ直ぐに天井に向かって行く。
晃一は投げ出されたスケジュール表を拾って見ると、気の毒そうに司を見た。
「ホントだな。なぁ、司、これキャンセルしろよ。お前さ、相当疲れてんだから少し休め」
晃一は天井に向かっていく煙を呆然と見つめている司に言う。
「秀也と紀伊也にも言われたよ。休めって」
そう言うと、横目で二人を見た。二人は一昨日の事を思い出し、それぞれの思いで、決まり悪そうに司を見る。
「俺からも言うよ。司、休めよ。取材だって俺達に代われるものもあるだろ? とにかく一週間位、どっか行ってろよ」
ナオも改まって言う。
「そうねぇ、お前等がそう言ってくれるなら、そうしようかなぁ。 でもねぇ・・、 この前みたいに何を暴露されるか分からんしなぁ・・・」
言いながら横目で晃一をチラッと見る。
「なんだよ」
「いえ、別に。 ・・・、 ねぇ、晃一君」
今度は皮肉を込めて言った。
「はは、何の事だった?」
とぼけて言う晃一に司はタバコの煙を浴びせた。 ケホっ、ケホっ。 思わず咽た晃一は更に、「あら、記憶障害? 思い出させてあげましょうかねぇ」と、今度はタバコの火を目の前に突き付けられて仰け反ってしまった。
「悪かった、悪かった。 あん時はつい、口が滑って・・・」
「 ったく、とんでもねぇ口だ」
ぷいっと横を向いた司にふと、訊いた。
「なぁ、司。 解離性障害って何だ?」
「ん? 解離性障害? ・・ そりゃお前の事だ。 ・・ まあ、誣いて言うなら精神病の一種だな。現実逃避したくなって記憶障害起こしたり・・・」
そこまで言うと、司は口をつぐんでしまった。
それを聞いていた三人は青ざめて、司を見つめた。
- 解離性障害・・・?
この、二、三日のオレの記憶。並木に会った時から何かがおかしい。常に頭が混乱している。病院に運ばれた日。あの時だって記憶がなかった。
翌日は一日空白だ。本当に眠っていたのだろうか? 手術をしたわけでもないのに、丸一日眠ってしまうなんてそんな馬鹿な事はない。秀也の家に行った事すら覚えていなかった。
それに並木、あいつが来た時、また記憶が飛んだ。気付いたら紀伊也しかいなかった。あの時紀伊也は何て言った? 錯覚、そう言った。
並木と何を話したんだ? よく覚えていない。
何で?・・・ 記憶障害・・・ 解離性障害。 だとすれば説明がつく。
司は自分自身が信じられないでいた。
このオレが? ・・・ 精神病?
恐る恐る、秀也と紀伊也を見る。
二人は不安な表情を見せまいとしていたが、その目が全てを物語っていた。
司はゆっくり立ち上がるとその場に立ち尽くしていたが、
「司」
と、秀也が声をかけるのと同時に、飛び出すように出て行ってしまった。
秀也が慌てて後を追ったが、後に残されたテーブルの上に転がった吸いかけのタバコを、三人はじっと見つめるしかなかった。
暫くして秀也が戻って来て、三人と目が合うと黙って首を横に振った。
急いで後を追って外に出たが、司の影が何処にもなかった。
追いつけなかったのだ。
「お客さん、着きましたよ」
タクシーの運転手に言われ、ハッとなった司は料金を払うと車を降りた。
遠くで微かに波の音が聴こえる。緑の木々も半ば黄色や紅や茶色が彩っている中をしばらく歩いて行く。
鎌倉
そう言えばついこの前も来たばかりだった。
石段を上がり、一つの墓の前に立った。「光月家之墓」そう書かれていた。
ここに兄の亮が眠っている。
しばらくその文字を見ていたが、やがて、その場でがっくり膝を付いてしまった。
「兄ちゃん・・・ オレ、どうかしちゃったみたいだよ。 どうすればいい? この前、ここに来た後だった、兄ちゃんが目の前に現れてフルート取りに来たの。 そう思ったんだ。でも、兄ちゃんじゃなかった。 けど、そいつは本当に兄ちゃんと同じ顔して、同じ声して、同じ笑い方して、司って、兄ちゃんの声で、司って、呼んでくれた。 ・・・ アイツが兄ちゃんだと思った。行き詰ったオレを助けに来てくれたんだと思ったんだ。でも、それが ・・・。 それなのに、オレ、おかしくなっちゃったみたいだよ。どうすればいい? ・・・ 兄ちゃん、会いたいよ」
とたんに息苦しさが司を襲う。
目の前でフルートを構えた並木と亮が重なる。
病院のベッドで並木に抱き締められた感触が亮と重なった。
その内に体が痺れたような感覚に襲われると、頭の中がぼうっとして来る。
-混乱、してきたの、か・・・ このままじゃ、錯乱する
脳波が乱れる
しっかりしろっ
そう自分に言い聞かせ、咄嗟に思い出したかのように立ち上がり頭を振った。
- そうだ、ユリアに会いに行こう。あいつなら何とかしてくれるかも・・・。
風が吹いた。
先日備えた白いバラの枯れかかった花びらが散って、誰もいない墓石の前に舞った。