表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/99

第六章(三)

誘惑(三)


「司・・・」

目を覚ますと紀伊也がいた。

「あ、紀伊也?」

体を起こそうとしたが、頭がかなづちで殴られたように痛い。

思わず頭を抱えた。

「飲み過ぎだ、ばか」

そう言うと、窓に寄りブラインドを開けた。既に太陽は昇っていた。

太陽の光が更に追い討ちをかける。

 つーっ

しかも喉まで渇いている。

「水、取って」

紀伊也は黙って水差しからコップに注いで渡した。司はそれを受け取って一口飲んだ。微かにレモンの味がする。しかも冷たい。ごくごくと一気に飲み干した。

紀伊也の気遣いが身に沁みる。

「サンキュ」

「まったく、何だってあんなに飲んだんだ。面会拒否までして休みたかったんじゃなかったのか」

呆れて説教に入る。

「飲んだ? オレが?」

こめかみを押さえていた手を離し、怪訝けげんな顔をして紀伊也を見た。

「え? お前、記憶失くすまで飲んだのか? 覚えてないの? 昨夜ゆうべ、ここ抜け出して秀也のとこ行ったろ?」

「秀也?」

思い出せない。

 でも・・・ そう言えば誰かに優しく抱き締められたような・・・。いつも感じていたあの感触・・・。

「秀也って・・・、誰?」


 え? 


一瞬、紀伊也は司が何を言っているのか解らなかった。

「秀也って、お前の友達なの?」

「司? ・・・ 秀也は秀也だろ。 お前忘れたの? お前の大切な恋人だろ?」

「何言ってんの? 秀也って ・・・ 秀也?」

思い出せない。 忘れてはいけない名前のような気がした。 誰、秀也って?

 秀也? 恋人? ・・・。

頭痛が激しくなっていく。堪えきれず、そのまま頭を抱え込み突っ伏してしまった。

「秀也? 秀也?・・・ ヒデヤ・・・」

紀伊也は訳が分からず、必死で思い出そうとしている司に驚愕してしまった。

 こんなことって・・・っ?!

『司、俺の声が聴こえるか?』

試しにテレパシーを送ってみる。

『 ・・・ 』

応えがない。司の様子にも変化は見られなかった。もう一度送ってみる。

『俺の声が聴こえるか? タランチュラ』

応答はなかったが、不意に司がこちらを見た。

一瞬だったが、その目はゾッとする程冷酷だった。しかし、次の瞬間、そのまま目を閉じると全身の力が抜けて倒れ込んでしまった。


「相当、重症だな」

雅は司の寝顔を見ながら言った。

「さて、どうするか。タランチュラには反応したか」

白衣のポケットに手を入れながら、難しそうな顔をしている紀伊也に向かって言う。

「ああ。 ・・・ しかし、秀也の事を忘れるなんて」

余りにショックだった。紀伊也にもどうしていいか解らない。

「紀伊也、彼といる司を見て欲しい。あんな司を見た事がないよ」

「並木?」

雅は頷くと思い出すように上を見上げた。

「まるで、亮といるみたいだ。こっちが錯覚を起こしそうになる。でも、司を救う手懸りが掴めるかもしれない。彼には連絡を取ってある。もうじき来るよ。・・・、 もし彼が余計な事を知ってしまった時は、お前の判断で・・・ 解ってるな」

最後に雅は声を潜め、紀伊也に視線を戻した。その目は鋭い。

「わかっている」

紀伊也は目を閉じて頷いた。

 亮といる司。

家族といる時にはあんなにも安らぐものなのだろうか。余りに当り前過ぎて考えた事もなかった。

 しかし司にとって家族とは・・・

二歳の時から一人で海外生活を転々としている。世話をする使用人や教育係はいても、家族とは離れ離れだ。兄の亮も十歳年が離れてしまってはなかなか合わないだろう。それに他の兄達は司の事を道具としか思っていない。そこで自分が選ばれたのだが・・・。

 ドアがノックされ、看護婦が顔を出すと雅に向かって「来ました」と合図する。雅は頷いて入口へ行った。

紀伊也が振り返ると、雅と並木が立っていた。

二人が並んでいると昔を思い出す。しかし雅にはやはり年の功だろうか、八年も経っていると二十歳代の若々しい青年から大人の男へと変わっている為、やはり並木は子供に見えた。

紀伊也も一瞬錯覚を起こしそうになったが、雅のお陰で起こさずに済んでいた。

「並木君、悪いね。司の事、頼むよ」

紀伊也はそう言うと、椅子を並木に譲った。

雅から大方の事情は聞いていたがやはり不安になる。

「僕にできるでしょうか」

「無理にやらなくてもいいさ。自然に振舞っていれば。演じなくていいよ、もし演じるなら、並木君、君自身を演じてくれればいい。大丈夫、俺もいるから」

紀伊也はそう言うと並木の肩を叩いた。

「あれ・・・?」

見ると、司が目を覚まし、三人を交互に見ている。そして、ゆっくり体を起こした。

「大丈夫か?」

紀伊也が声をかけた。

司は一瞬紀伊也を見たが、その目は並木を見ていた。

「あ、居てくれたんだ」

ニコッと笑った。

紀伊也は驚いた。司がこんな笑い方をするのは見た事がない。

安心し切ったような、甘えた笑顔だった。余りにも無防備過ぎていた。

「え、あ、ああ・・」

並木は一瞬戸惑ったが、司にそんな笑い方をされてしまうと、不思議とそれがごく自然の成り行きのようで、思わずこちらも同じような笑みがこぼれる。それを見た司は更に顔がほころんだ。

「昨日は何だか急に眠くなっちゃて、あのまま寝ちゃったみたい。何だか久しぶりによく寝たなぁ。ここんとこ忙しかったから。兄ちゃんは? 翔兄さん達と一緒だったの?」

「 !? 」

同時に三人は息を呑んだ。 そして、司には、その時フラッシュバックのように、亮と最期に話した日の事が甦る。

「そう言えばさ、さっき恭介から電話あって、来月のライブのチケット渡すから取りに来いって言ってたよ。明後日、会うんでしょ? ね、その時さ、悪いんだけど、デモテープも渡しといて」

「 ・・・・ 」

「ほら、この前頼まれてた曲、出来たからさ」

「 ・・・・ 」

「兄ちゃん?」

並木はどう返事をしていいか分からない。雅も息を呑んで司を見つめている。

「司っ」

驚いた紀伊也の声にビクッとして、司は並木を見た。

「あ、あれ? 並木君、だっけ? 何でここに居るの?」

そう言って司は窓の外に目をやった。

紀伊也は愕然としながら司を見つめた。本当に並木に会わせて良かったのだろうか。

「紀伊也、しっかりしろ。俺もここにいるから」

雅が耳元で囁く。

紀伊也は無言で頷いた。とにかく、司を見ていよう。

三人は黙って司を見守った。暫く黙っていた司だったが、窓の外を見つめたまま突然呟いた。

「兄ちゃんを殺したのはオレだ」

「え?」

三人は驚いて目を見張る。

「何言って・・・、 あれは事故だろ」

雅は慌てて否定した。紀伊也にも緊張が走る。

「本当にそうかな・・・あの時・・」

疑うように言う司の目は少し鋭くなっていた。

「司、考えない方がいいよ」

突然、重苦しい空気を破るかのように並木が優しく言った。

司はハッとして並木に向き直った。

「そうだ、思い出した。昨日、フルート吹こうと思ったんだ。あんたに聴かせようと思ってさ。紀伊也、フルート取って」

今、話した事がなかったかのように嬉しそうに言う。紀伊也は言われるままにケースごと司に渡したが、その手は微かに震えていた。

「紀伊也、どうかした? 顔色悪いんじゃないの。そこに座れば」

司はケースを受け取り、紀伊也を見ながら言った。

そして、ケースからフルートを取り出し、ケースを紀伊也に渡すと、大切そうに抱え口付けをした。いつもする事だった。

 そして、構えると目を閉じて、カノンを吹いた。

病室に優しい音色が広がる。いつになく懐かしさを感じさせる温かい音色だ。

 紀伊也はふと、司に初めて会った日の事を思い出した。


 ******

 その時、紀伊也は七歳になったばかりだった。

今度、オーストリアのウィーンで開かれるモーツァルト音楽コンクールに光月家のお嬢様が出る。その護衛も兼ねて同行する事になっていた。その前に一時帰国している司に会うのだった。

五歳にして多くの教養を身に付けている自分と同じ能力者だ。しかも、自分以上の持ち主だと聞かされていた。それに、まるで人形のように可愛らしいとさえ聞かされていた。どんなに素敵な娘なのだろう、と期待を膨らませて行ったが、玄関に入るなり、激しい物音と誰かの叫ぶ声が聞こえて来た。

少しびっくりして居間へ案内された。居間のドアを開けた時、シュッと何かが紀伊也の顔の横を飛んで、後ろの壁に突き刺さった。

ハッと一瞬よけて、後ろを振り返ると、廊下の壁にペーパーナイフが刺さっている。

「司っっ!!」

中から怒鳴り声が聞こえ、驚いて中を見ると、一人の少年が父に頬を叩かれ床に倒れていた体を起こしているところだった。

そして、入口に立っている紀伊也を睨むように見て言った。

「あんたが一条んとこの紀伊也? オレと渡り歩きたきゃ、腕磨いとけよ」

それが、司に言われた最初の言葉だった。

余りのショックにその後、司の父に何を言われたのか覚えていない。


 ******


「紀伊也、何考えてんだ?」

曲が終わり、司はフルートを膝の上に置いて訊いた。

思わず紀伊也は苦笑していた。

「え? ああ・・・。 お前と初めて会った日の事、思い出したんだ」

「オレと?」

「ああ、でも、もう忘れたろ。・・・ あ、無理に思い出すなよ」

紀伊也は司が、ふと何かを思い出そうとしているのを見て慌てた。

「覚えてるよ。ウィーンに行く前だろ。あはは・・・ あん時の紀伊也の顔! 鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔してたっ! すっげ、おかしかったんだ。ハハハっ 」

そう言って紀伊也の顔を見ながら大笑いした。

「バカ言え、あの時俺は、人生最大のショックを受けたんだ。 ったく」

大笑いしている司に嫌味を込めて言う。

雅にも紀伊也のショックが解るだけに思わず笑ってしまった。つられて並木も微笑んだ。

「でもあの後、兄ちゃんにすっげ、怒られたよ。からかい過ぎだってね」

首をすくめ、並木を見ながら言う。

「紀伊也とはね、オレが五歳の時からの付き合いなんだ。もう、二十年近くになるんだな。 何だかそんなに経った気がしないな」

そう言って視線を紀伊也に向ける。

「付き合いって言ったって、お前 殆どいなかったしな」

紀伊也が言った。

「まあ、ね」

「いない、って?」

今度は並木が訊いた。

紀伊也は一瞬焦った。余り司の事を他人に知られてはマズイからだ。しかし司は一向に気にする事なく応えた。

「ああ、家の事情でね。いろいろ行ってたから」

「転勤?」

「はは、違うよ。いわゆる留学っていうの? 毎年、違う国へ行かされるんだ。 ま、オレには遊学みたいなもんだったかな」

「すごいなぁ、留学かぁ。どれ位行ってたの?」

「二歳の時からかぁ、でも、いろいろ行き過ぎて何歳の時に何処にいたのかなんて、一々覚えてねぇな。 あれ、紀伊也と会った時は確か、フランクフルトだろ。小学校はどこ入学したっけかなぁ。パリ? ロンドン? ローマ? マドリード? 覚えてないよ」

「そんなに行ったの・・・」

並木は驚いた。

確かデビュー前に大学に行っていたと何かで聞いた事がある。

「大学・・ は行ったの?」

恐る恐る訊いてみる。取材ではいつもごまかしていた司が言う筈がないか、と思いながら。

「大学? ああ、オックスフォード。大変だったなぁ、あん時。マジで死ぬかと思った」

「オックスフォード!?」

並木は驚いた。世界でも指折り数える名門校だ。

「何が大変だったんだ?」

今度は雅が気になって訊く。

司の大学時代の事は聞いた事がなかった。仲間内では空白の二年と言われていた。

「えー、勉強に決まってんだろ。ホントに大変だったんだ。よく生きて帰って来れたと思ってるよ」

「お前、真面目に行ってたんだ。空白の二年って言われてたけど、本当だったんだ」

紀伊也も驚いた。イギリスにいた事は知っている。が、本当に大学に通っていた事は定かではなかった。

「何だよ、紀伊也まで疑ってんの? そりゃ、連絡取れなかったのは悪いと思ってるけど、二年で卒業しなきゃならなかったんだぜ。とにかく試験では点数稼がなきゃならないし、レポート書いてそれが良ければ って事で話つけてさ。 毎日レポート漬けだよ。 完徹一週間なんてザラだよ、とにかく、レポート書いてる時って大変なの紀伊也ならわかんだろ?」

「そりゃ、そうだけど。 でも、そんな無理してまで」

「仕方ねぇだろ、お前等待たす訳にはいかないし、それに卒業は条件だったし、兄ちゃんとも約束したんだから」

「約束?」

「い、いや、何でもない」

そう言うとぷいっと横を向いた。

これ以上訊かない方がいいだろう、と雅は紀伊也を制した。

「ヨーロッパばかりだったの?」

並木は不思議に思った。これだけ国の名前が出てきて、皆が行きそうなアメリカが出てこない。

「行ったよ。 ニューヨーク」

ポツリと言った。 そして窓の外を見つめた。

思い出すのは、みぞれ混じりの雨のニューヨークだ。

 必死で駆けていた。

暗く深い穴に落ちて行った自分。亮の悲痛な叫び。それだけしか思い出せない。

 苦しい。 苦しくて苦しくて どうにかなりそうだった。

はぁっ、はぁっ、次第に呼吸が乱れて行く。

胸が何かに縛られているようだ。それもきつくきつく巻き付いて行く。

思わず胸を押さえてうずくまった。

 誰か、助けて・・・! 兄ちゃん、兄ちゃん、助けてっ!

本当はあの時そう叫びたかった。

「司っ、大丈夫か!? しっかりしろっ」

並木は思わず司を抱き寄せた。

司は亮の腕の中で叫んだ。

「兄ちゃん、兄ちゃん、助けてっ」

そして、哀願するように亮を見て胸にしがみ付いた。

並木はそんな司を力強く抱き締めていた。そうする事が当然であるかのように。

「 っ・・・!?」

それを見ていた紀伊也は思わず愕然となってしまった。並木にしがみついた司に驚いたのではなく、亮に抱き締められた司に、二人の関係を知ってしまったのだ。

 瞬間、思い出した。

司の十六歳の誕生パーティーの日、紀伊也は少し早目に来てしまったので見回りも兼ねて庭に入り、ふと司の部屋の辺りを見上げると、窓辺で司と亮が寄り添っていた。プレゼントをもらって喜んでいたのだろう、相変わらず仲の良い兄妹だと、その時は気にも留めなかった。

が、あれは本当に兄妹の関係だったのだろうか。

それに、葬儀の日、あの時司は何と絶叫していただろうか。 確か・・・、

『 目を覚ましてくれっ、もう一度目を開けてくれーっ! オレを一人にしないでっっ!! もう一度・・・っ、 抱き締めてくれ 』

そう泣き叫んでいた。

紀伊也は急に吐き気がして、部屋を飛び出して行った。

雅は驚いて開け放たれたドアを見たが、司の容態が気になってその場にいた。

並木は司の背中を優しく摩りながら抱き締めていた。

そのうち、呼吸が静かになっていく。並木は司を離すとそのままベッドに横たわらせた。

眠ってしまったのである。

雅は並木にここに居てくれと言うと、紀伊也の後を追った。

廊下に出ると、紀伊也は窓を開けて外を見ていた。

「大丈夫か? 急にどうした」

「いや、何でもない」

「ショックだろ。 司の言動が解らないだろ。あれの繰り返しだよ。俺もどうしていいか判らない」

「司は?」

「また、眠ってしまった」

「そう・・・。 ボン、アイツには帰ってもらった方がいいな。後は俺が看る」

「大丈夫か? もう少しいてもらった方が・・・ 」

「いや、いい。 今度目を覚ました時の反応が見たいんだ」

「わかった」

雅は病室に戻って行った。しばらくすると並木が出て来た。疲れているようだ。

「並木君、悪かったね。心配しなくてもいいよ。後は俺に任せろ」

「でも、僕が原因で」

「違うよ、君じゃない。気にするな 」

冷静に言う紀伊也に並木は何となく安心すると、ホッと肩を撫で下ろした。

「じゃ、僕はこれで」

「あ、この事は」

「解ってます・・・」

言いながら紀伊也の目を見てしまった。

紀伊也の目は無表情にも冷酷だ。並木は何かに操られるように見ていた。

時間にして数秒だった。

紀伊也が目を逸らせた時に、並木は司が亮を殺したと言った時の記憶は消えていた。そして、この事は他言無用である事を戒められた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ