第六章(二)
誘惑(二)
夜明け前、薄っすらと地平線が優しいオレンジ色に染まってきた。
空を見上げると、頭上にはまだ星が光っている。頭を下げるに従って空の色が濃紺から段々に白っぽい紺へ、そして黄金色を基調とした紺へ、淡いオレンジ色と赤が混じった色へと変わっていく。
何とも云えない、この夜明け前の色が晃一は好きだった。
海へと車を走らせる。が、運転しているのはナオだ。晃一はこの空を見たいが為にいつも助手席に乗り、窓から顔を出して見ていた。
「久しぶりだなぁ。この空の色見るの」
缶コーヒーを片手に空を見上げた。
「お前も好きね。落っこちるなよ」
ナオは前を見ながら言う。ナオもこの時間の色が好きだったが、晃一と違うのは自分が走らせながらそれを見る事だった。
「なぁ、ナオ。昨夜の事、秀也、気にしてると思うか?」
車の中へ頭を戻し、窓を閉めながら言った。
「ん、大丈夫、だと思う。多分」
「自信なさそうだな。ナオがそれじゃ、俺、心配だよ。・・・、 覚えてる? 司が秀也に最初に会った日の事。俺さ、昨日秀也に言われるまですっかり忘れてたけど、言われて思い出したよ」
******
土曜日のライブハウス。
入学シーズンを迎え、いくつかのバンドが新歓ライブに参加していた。高校生や大学生を中心にしたライブで、司はそのプロデュースをする傍ら一応参加していた。
兄の亮を亡くしてから、久しぶりのライブだったが、緊張というよりはむしろ淋しさを感じていた。無理にでも何かしていなければ気が狂いそうだった。本当ならこのライブも亮がプロデュースする事になっていたのだ。
余り乗り気はしなかったが、ジュリエットはかなり人気のあるバンドだっただけに出ない訳にはいかなかった。彼等を目当てに来る客も多いのだ。
今日は珍しく、今人気のロックバンド、ヴィールスのコピーを演ることにした。と言ってもヴィールスには司が曲を書いているので、オリジナルと言えばオリジナルになる。
更に最初に演奏した。しかもたったの三曲。客はつまらなそうにブーイングしていたが、司が今日はプロデュースをしている事と最後まで居る事を告げると皆喜んで最後まで見ると言ってくれた。
司はコーラを片手にステージ脇の椅子に座って、次のバンドの演奏を見ていた。
そして、司にはもう一つ、気懸かりな事があった。メンバーでギターの紀伊也が先月卒業し、九月からアメリカへ留学する事が決まっていた。八月には渡米する事になるので、それまでに何とか揃えなければならない。又、キーボードの竜一は大学を卒業したらバンドは辞めると言うので、メジャーデビューを考えている司にとって、どちらかをそれ相応の人物を探さなくてはならなかった。とりあえず、ギターかキーボードか。紀伊也が戻ってくればどちらかに当てればいい事だった。
今日、一番最初に演ったのは、後で演るバンドの中にもし適当なヤツがいれば、という思いもあった。
三組目が準備に入った時、晃一が司の傍に来た。
「司、次のバンドのギター、ちょっと見てみてよ」
晃一に言われ、何気なく見た。他のメンバーと違って何となく大人しい感じがする。
「大丈夫か? なんか、あのバンドの中で浮いてない? お前の知り合いなの?」
晃一の耳元で言う。
「大丈夫だよ。まぁ、見てなって」
そうこうするうちに始まった。
一曲目が終わって、晃一が司を見ると、いつになく真剣な目をしている。
「どうよ」
出番が終わり、次のバンドが準備をしている間に晃一が訊く。
「あのバンドじゃ合わないな。しかもまだギター始めたばかりだろ」
「ダメ・・・ か」
「でも、いいモン持ってんな。マジにやればいい味出てくるかも」
司は晃一を見ずに、ずっとギターのアイツを目で追いながら言った。
何となく懐かしい音だ。
晃一はそんな司を見ながら満足そうに頷くと他のメンバーの元へ戻って行った。
全ての演奏が終了したが、客はまだ帰ろうとせず、ステージを見て待っている。
「司、ちょっと」
隣にいた祐一郎が肩で突付く。
ったく、仕方ねぇな
司が立ち上がりステージへ行くと、歓声が上がりライブハウス中の視線がステージへと注がれる。
「今日はありがとう。みんなのお陰で新歓ライブも大成功だったよ。月曜からのスクールライフもエンジョイしようぜ。 そしてまた、週末ライブで会おうぜ」
それだけ言うと手を上げてステージ脇へと戻る。皆拍手をしてそれぞれの興奮の余韻に浸っていた。
「ったく、羨ましいね。この人気者。この中の殆どがお前目当てなんだから」
祐一郎が戻って来た司を見上げながら言う。
「お陰でここも繁盛してんだろ。ったく、広告料くらいもらいたいもんだ」
「ははは・・・ お前らしいな。で、この後どうするんだ? これから打ち上げやるけど、あいつら誘ってお前も来いよ」
メンバーを指して言う。
「うん、そうする。どこでやんの?」
「俺の店」
「分かった。じゃ、ここ片付けてから行くよ」
そう言うと司はメンバーの所へ行く。女の子達に囲まれて、なかなかメンバーの所へ辿り着けない司を祐一郎は目を細めて見ていた。
司が祐一郎の店に行くと貸切になっていて既に始まっていた。メンバーも先に行って既に飲んでいる。ナオが司に気付いて手を上げると、周りの者に軽く挨拶をしながらナオの処へ行った。
「お疲れ。あれ、晃一と一緒じゃないの?」
「ああ、後で来るよ」
司はナオからビールを受け取るとそれを一口飲んだ。
「あーあー、いいのかね。 司くん、まだ、高校生でしょ」
祐一郎が何人かの友人を連れて司を囲む。
「いいんだよ、今更。それに、あんたに言われたくないね。 べぇーっ」
と、舌を出してみせた。祐一郎も苦笑する。
「とりあえず、お疲れ。 おーい、みんなーっ、主役が来たから乾杯のし直しだ!」
そう祐一郎が声を張り上げると、グラスを持って皆こちらを見る。
「今日のライブ、ホント言うとちょっと不安なとこあったけど、司のお陰で大成功だ。きっと天国に居る亮も安心してるだろう。 司、これからも頑張れよ。それからよろしくな。じゃ、司から一言」
「いいよ」
「何だよ、照れるなよ」
「じゃなくて、ごめん、ホントに勘弁して」
そう言うと俯いてしまった。余り亮の事には触れて欲しくなかった。祐一郎も皆もそんな司を見て黙ってしまったが、
「じゃ、気を取り直して、司に乾杯」
気を取り直して祐一郎がグラスを上げて言うと、皆も口々に「司に乾杯」と言ってグラスをかざした。
司はビールを片手にポケットからタバコを取り出し火をつけて天井に向かって煙を吐くと背を向けてテーブルに付いた。
「紀伊也、お前いつから行くんだっけ?」
祐一郎が訊く。
「大学は九月からだけど、八月には」
「そっか、お前の抜けた後は大変だな。俺が代わりにやろうか? 美形揃いのお前等の中でも俺なら浮かんだろうが」
祐一郎はそう言うと紀伊也の肩に腕を回し、メンバーを見渡した。
「でもねぇ、年がねぇ」
祐一郎の友人がからかう。 そうだよ、お前一人で平均年齢上げるな、と責められていた。が、その時司が振り向いて言った。
「もう、決めたよ」
え?
笑うのを止め、司に皆が注目した時、司が手を上げて入口へ向かって合図する。皆が一斉に入口に注目すると、晃一が一人の男を連れて入って来た。
「お待たせ。 あー、疲れた。 司ぁ、こいつ連れて来るの大変だったんだぜ。お前が直接行ってくれればもめずに済んだのに。もう少しで乱闘になるとこだったんだから」
そう言って男を司の前に立たせる。
「悪かったな。で、どうなの?」
「いいよ」
男は応えた。司はニッと笑うと手を差し出した。男もその手を握った。
「決まったよ。オレたちのギターだ」
えーっっ!! 皆驚いたが、メンバーは特に驚いた様子もなく当然の成り行きのように見ていた。
「名前、何だっけ?」
「秀也、須賀秀也」
先程のライブで、晃一が司に見てみろと言っていた男だった。
司は一目見て、いつも傍に居て欲しいと思った。なぜなら、秀也には兄、亮の面影が残っていたからだ。
******
「あの時さぁ、よく話もしないであいつ決めたよな」
晃一は前を見てハンドルを握るナオに向かって言う。
「俺とナオはさ、前から知ってたけど、竜ちゃんにだって話さなかっただろ。ホントはさ、後でゆっくり紹介するつもりだったんだ」
「ふーん、あん時って何、司が連れて来いって言ったの?」
「そうだよ。とにかく抜いて来いって言うからさ、もう決めたんだって思って」
「でもさ、秀也ってやっぱ、亮さんに似てたのかなぁ」
「 ・・・ 」
「晃一?」
ナオがチラッと横目で見ると、晃一は窓の外を見ていた。
あの時の司の言葉が蘇ってくる。
******
「晃一、聞いてよ」
何だかとても嬉しそうだ。少し照れている気もする。
「秀也の事だろ」
晃一は秀也からも司の事を相談されていたので知っていた。司に話させる前に意地悪をしてやろうと、先に切り出した。
「え?」
面喰った司の顔は少しはにかんでいた。
可愛いとこあるな、ったく。
「で、どうなったの?」
司の顔をマジマジと覗き込むようにニヤけて訊いた。
「うん、・・・、付き合う事にした」
そう言うと顔を赤らめて俯く。
「良かったな」
亮が亡くなってから、司は本当に元気がなかった。このまま後を追って自殺でもし兼ねないかと心配した程だ。
あの新歓ライブで秀也に会った時から司は何だか楽しそうだった。時折思い出しては沈んでいたが、秀也がそれを慰めていたようだった。そのせいか、本来の司らしさが戻って来た。それに増して可愛ささえ覗かせていた。
最初は秀也を司に会わせるのをためらった。
秀也には何処となく亮の面影が漂っていたせいもある。
しかし、思い切って会わせて良かったと、今は思っていた。
そんな二人が恋に落ちたのである。
晃一には意外だったが、わからないでもなかった。
「何かさ、秀也といると安心するんだ。兄ちゃんが居てくれてるみたいで。だからと言って兄ちゃんの代わりにはならないけど。 秀也ってホント優しいし、オレみたいなのには丁度いいのかも。けど、秀也も物好きだよなぁ・・・」
******
「晃一?」
「あ、いや、何でもない」
「なあ、司と秀也って、ホントに大丈夫かな」
「同じ事、考えてるな、俺たち」
晃一は窓の外を見たまま言った。ナオも海へ向かってアクセルを踏み込んだ。