第六章・誘惑(一)
偶然の錯覚から心の隙間という名の誘惑に駆られて二人は揺れ動く。そして過去の束縛から解放される事は出来るのか。
第五章からの続きです。
第六章 誘惑(一)
雅は驚いた。
司が初めて発作を起こさなかったのだ。亮の事を考えただけでも息苦しくなっていたのに、自ら亮の事を語ったのだ。それは雅にとっても初めて聞く司の想いだったかもしれない。それはほんの一部に過ぎないのだろうが、司にとって亮の存在は、孤独に生きてきた中での唯一の支えだったのだと。
雅は冷静に考えた。今、司は混乱している。このままでは精神状態がおかしくなってしまうだろう。しかし、並木と居る事で、ある意味精神状態は落ち着いてはいる。それにもう少し、様子を見よう。何かあったら彼に来てもらえばいい。
そう結論に達したが、もう一つ気がかりな事があった。
亮と司の間には一体何があったのだろうか。光月家に対する亮の憎しみと執拗なまでに亮を慕う司には理解できないものもある。何故なら司は普通の人間ではないのだから。その司が普通の人間と同じ感情を持ち合わせているのだろうか。二つの相反する人格を持つ司が混乱状態にある中で、果たして並木に司の事を任せてもいいのだろうか。紀伊也になら判断できるだろう。
******
その日の夜、秀也は一人自分の部屋で週末をどう過ごそうか考え込んでいた。司が入院してしまった為、急遽土日がオフになったのだ。この処忙し過ぎてスケジュールが詰まっていた為、メンバーにもスタッフにもいい休養が当てられた。
紀伊也のマンションを出てから気になって、もう一度病院へ寄ったが相変わらず「面会拒否」の札が掛けられていたが、ドアのノブを回すと鍵がかかっていなかったので、そっと中を覗いて見ると司は眠っているようだった。やはり静養したいのか、そう思い会わずに帰って来たのだった。
司があの様子ならもう暫くは会えないだろう。急なオフの日には大抵二人で過ごしていたので、暇を持て余すには何となく人恋しくなる。
ゆかりでも誘おうか
ふと、秀也は思い出す。
昨年の冬にゲレンデで知り合った司と同い年の普通のOLだった。偶然、ゴンドラで二人きりになり、一人で来ているのかと訊ねたところ、そうだと言うので、一緒に滑ったのだ。秀也から声をかける事は珍しい事だったが、司からもたまには他の女と遊んでみろ、と再三にわたって言われていたので、何となく声をかけたのだった。それがきっかけで、東京へ戻ってからもたまに食事に行ったり、夏には海へ誘ったりしていた。しかし、秀也も多忙を極めていたので、会った回数などたかが知れている。そして、明日が土曜日という事もあり、確かゆかりが、土日休みだという事を思い出したのだ。
テーブルの上に置いてあった携帯電話を取り、アドレスを呼び出しコールしようとした時、不意に玄関のチャイムが鳴った。
誰だ、こんな時間に?
時計を見ると十時を回っている。もう一度鳴った。
仕方がない、と秀也は電話を置くと玄関へ行った。
「誰?」
「・・・・、オレ」
え?
慌てて鍵を回しドアを開けると司が立っていた。
「司・・・」
秀也は驚いて目を見張った。面会拒否をしてまで静養している筈の司がここに居るなんて・・・。
また、抜け出して来たのか? それとも、もしかして、もういいのだろうか?
「とにかく中へ」
そう司を中へ入れた。
抜け出して来た割には元気がない。いつもなら『あー、退屈退屈、全くー』などと、入って来て早々とても病人とは思えない様子で冷蔵庫へと向かって行くのだが、今夜は違っていた。
何だか、もっと休んでいろと言いたくなる位に元気がない。
秀也は司を促して、ソファに座らせた。
「タバコ」
「ああ・・」
秀也は自分のタバコを渡し、火をつけた。
司は何となく吸い始めた。
「秀也、何かある?」
タバコの煙を見つめたまま言う。
「バーボンでいいか?」
秀也は司が頷いたのを見て、グラスとバーボンを取りに行った。
戻って来ると、タバコの先から立ち上る煙をまだ見ている。
「大丈夫か? まだ、休んでいた方がいいんじゃないの?・・・あ、水割りの方がいいな」
「いや」
「でも・・、氷は?」
「要らない」
とりあえず言うとおりにグラスの三分の一位まで注ぐと司に渡した。司はグラスを受け取ると、タバコを灰皿に置こうと下を見た。テーブルの下にはパンフレットがいくつか置かれている。その内の一つを手にした。
「北海道・・・、滑りに行くの?」
バーボンを一口含んで秀也を見た。
一瞬、後ろめたさを感じた秀也だったが、「うん、今年はね。行って来ようと思って」と言った。そして氷を自分のグラスに入れ、バーボンを飲んだ。
「ごめんな、秀也」
え?
思わず司を見ると、何の表情もなくパンフレットを見つめている。
「オレ、お前の趣味に何も付き合ってやれなくて ・・・、失格だよな」
そう言いながら半分位飲む。
「仕方ないよ、その体じゃ。それに俺だって勝手にやってるんだ。それに、歌だってお前に任せ切りじゃないか。気にすんな」
そう言うと司の隣に腰掛けた。
「でも、こういうのってやっぱり恋人同士で行った方が楽しいんだろ? それにデビューしてから二人でゆっくり旅行なんて行ってないじゃん。休みだってスケジュール合わないし」
司はグラスを一気に空にし、ボトルを取って自分のグラスに半分程まで注いだ。
「どうした? 司」
何だか、いつもと様子が違う。何かがおかしい。
「何だか、秀也が遠くへ行ってしまいそうで・・・」
ポツンと言った。
「ばかな事言ってんな。そんな事考えてたのか?」
「急に会いたくなって・・・ 」
また一口飲む。
「秀也ぁ、どこにも行かないでね 」
秀也の肩に頭を乗せながら、呟くように言った。
秀也は片手で司を抱き寄せると
「ばかな事考えるな。こうして二人の時間はあるんだから、それでいいじゃないか」
と言い、半分程飲んで司を見た。司も顔を上げて秀也を見る。
二人の視線が合った時、二人は唇を重ねた。
秀也の唇は一瞬冷たかったがすぐに熱くなった。
司は秀也の口付けが好きだった。しっとりと吸うように司を優しく包み込んでくれる。それでいて弾力があり押し開きさらに包んでくれる。
秀也は自分のグラスをテーブルに置くと、司の手からもグラスを取ってテーブルに置く。そして、司を抱き締めた。二人は抱き合いながら更に唇を強く重ねていった。
舌と舌が絡み合う。
秀也は優しく温かい。
司はそう感じながら秀也の首に腕を回す。
更に激しく絡み合った時、電話が鳴った。
一瞬、ビクッとして唇を離したが、秀也は再び司に押し付けた。
電話が鳴っている。
司は秀也の肩を押して、体を離すと電話を顎で指した。しかし秀也はそれを無視して司を押し倒そうとしたが、司は顔を背けて言った。
「秀也、電話」
仕方なく、ソファを離れて電話に出た。
「はい、・・・ あっ」
ゆかりだった。
一瞬、司を見ると既にグラスを手にしている。秀也は悟られないように背を向けた。
「何? ・・・ うん、・・ あ、俺も・・・。 今? ごめん、ちょっと」
そう言ってまた司を見る。
司は気にする様子もなく空になったグラスにバーボンを波々と注いで飲んでいる。
「え? 明日?」
また背を向けた。
「オフなんだ。・・・ うん、・・・ あ、でも、ごめん、後でかけ直すよ。 ・・・ うん、ごめんね、それじゃ」
明日、オフと言ってしまった。 どうするか、司はどうするんだうな。
受話器を置きながら考えた。
この様子なら朝まで一緒だろう。
そう思いながら向き直って司を見ると、丁度、空になったグラスにさらに波々と注いでボトルを置くと、それを一気に飲み干していた。
!?
「ちょっと、司っ、何やってんだっ」
秀也はボトルの中のバーボンが殆どない事に気付いて驚き慌てて司の手からグラスを取り上げた。
司は一瞬、秀也を見たがすぐに顔を逸らせた。その目には表情がなかった。何を考えているのか解らなかったが、こんな司を見た事がなかっただけに秀也は呆然としてしまった。
「どうした、司?」
気を取り直して優しく宥めるように言った。
「秀也は、優しいな」
司は立ち上がりながら、呟くように言うと、秀也の肩をポンと叩き、歩き出そうとして一歩前に出たが、がくっとそのまま倒れるように秀也に抱きかかえられてしまった。
「司?!」
「・・・」
そのまま気を失ってしまっていた。
そう言えば、司が病院から抜け出して来た事を思い出し、慌てて雅へ電話をかけた。
「もしもし、夜分にすみません。秀也です、・・・ え? いない? ・・・ あ、ああ。 司ならここに・・・、 それがちょっといつもと様子が違って・・・、 とにかく連れて行きますから」
やはり雅の方でも騒ぎになっているのか。秀也は何となく不安を感じて車を走らせた。
******
「まったく、ちょっと目を離した隙にこれだ。しかも酒まで」
雅は点滴を調整しながらベッドで眠る司を見て呆れた。
「すみません。俺がもっと気をつけていれば」
秀也もうな垂れる。まさか、こうなるとは思ってもみなかったのだ。
「いや、それより、やはり言っておきたい事がある。 一緒に来てくれ。 ・・・ 司なら心配ない。あれだけバーボンを飲めば動こうにも動けんさ」
そう言うと秀也を促し、自分の部屋へ連れて行った。
部屋へ入ると、応接のソファに誰かが座ってタバコを吸っていた。こちらを振り向くと紀伊也だった。
「ちょっと、紀伊也と相談していたんだよ」
雅は秀也を紀伊也の横に座らせると向かい側に腰を下ろして一息吐いた。
「秀也、驚かないで聞いて欲しいんだが・・・」
いつになく真剣な表情の雅に不安になり紀伊也を見るが、紀伊也は無言のまま俯いている。秀也は雅に頷いた。
「司の事だが、・・・一種の解離性障害かもしれない」
「解離性障害・・・」
聞いたことはあった。精神病の一つで、いろいろな症状の総称だ。
雅は昨日と今日の出来事を全て話した。
「 ・・・、そして秀也の所へ行った司の様子からして可能性は高いな。俺は精神科医じゃないから詳しくは判らないし断定もできないけど、その可能性はある。 早目に発見して治療しないと、取り返しのつかない事になり兼ねない。正式に検査をしてもいいんだが、恐らく光月家からの了解は取れないし、どこでどうマスコミに漏れるかわからん。そこで、紀伊也と相談していたんだよ」
そこまで言うと、紀伊也を見た。
薄暗い天井に向かって煙を吐いて、灰皿にタバコを押し付けるとおもむろに秀也を見る。
「秀也、俺も迷ったんだ。まさかアイツのせいでこうなるとは思ってもみなかった。けど、もしかしたらアイツが司を何とかしてくれるんじゃないか、って」
「並木・・・?」
ふと、秀也はバーで晃一が言った事を思い出した。
『心奪われないか』、その時は冗談だと思っていた。が、今はそうは思えなかった。
さっき、司は秀也が遠くへ行ってしまいそうだ、と言っていたがそれは司自身が離れて行く事を意味していたのではないかと。
「司が、今まで生きて来られたのは亮さんがいたからだと思うんだ。亮さんが司を守ってくれてたんだ。司にとっちゃ、亮さんは魂の一部なのかもしれない。だから亮さんの死をなかなか受け入れられないは、そのせいもあるのかもしれない。 並木が現れたお陰で司はおかしくなってしまっているけれど、もしかしたら、これで亮さんの死と向き合う事が出来るんじゃないか、って」
「そうだな、紀伊也の言うとおりかもしれない。司が亮の話をして発作が起きなかったのは偶然じゃないかもしれない。 俺もあの時そう思ったよ。彼なら司を救ってくれるかもしれない」
そんな二人の会話を秀也は黙って聞いていた。そして、思わずソファの背に寄りかかって、薄暗い天井を見つめた。
秀也は氷が解けて淡い黄色をした残りのバーボンを飲み干し、グラスをテーブルに置いた。隣には司から取り上げた空になりかけているグラスがあった。そのグラスを手に取り、ボトルを無造作に取り上げ全て注ぐと一気に飲み干した。
勢い余って思わず咽た。そして、空になったグラスを見ながら笑ってしまった。
「アイツ、よく飲んだな」
そして、さっきまで司と口付けを交わしていたソファにもたれるとタバコに火をつけた。
後は任せる、と言って出て来てしまったが・・・。
メンバーの中でも口数が少なく、どんな時でも冷静に行動する紀伊也にああまで言われてしまっては、秀也には返す言葉もなかった。しかしその嫌味な程までに冷静に判断する紀伊也に司の亮に対する想いを告げられると、やはりショックだった。
自分は司にとって、何なのだろうか、と。そして、ふと自分が並木に似ていると言ったゆかりの言葉を思い出した。
『写真同士だとそうでもないのよね。でも、実際秀也さんを見ていると、ドラマに出てくる彼と雰囲気が似ているのよ。なんていうのかしら、優しい処? 何となく落ち着いているというか・・・。あ、でも目の辺りなんか、司さんとも似ているんじゃない?』
『目? 誰に?』
『えーっと、司さんと並木清人。なんか兄弟っぽい感じ?』
そう云えば、司と並木が二人で並んだ時、ふとそう思って口にしたな。
俺と並木・・・、 並木と亮さん ・・・・・・!?
まさかと思い、秀也は一つの結論を出して愕然となった。
******
「司が? お前が亮さんに似ているから? ・・・はは ・・・まさか」
晃一は笑い飛ばした。
「そんな事言ってなかった? 晃一は俺と司が付き合うって言った時どう思った?」
真剣な秀也に晃一は面食らってナオに助けを求めた。
「秀也、考え過ぎだってば。 そりゃ、俺も最初はそう思ったよ。亮さん亡くなってから一年も経ってなかったからな。 でも、最初のきっかけはどうであれ、俺は司がそんな半端な気持ちでお前と付き合い始めたとは思えないな。 それに、だって、そうじゃなきゃこれだけ長く続いてないだろ?」
言われてみれば確かにそうだ。
考えすぎなのかな、俺
そう思うと少し安心し、目の前のバーボンの水割りを飲んだ。
秀也は、自分の出した結論の確認と、紀伊也と雅の話を伝えようと、晃一とナオが行くと言っていた店へと顔を出すと二人ともまだいたのだ。
「ところで、明日どうする?」
晃一が切り出した。
明日?
「紀伊也の話じゃ、明日は様子見だろ。とすると動くのは明後日だから、明日は完全なオフだ。なあ、久しぶりに海行かねーか」
「ああ、いいねー。 ちょっと寒い気もするけど、入りたいねー」
ナオが晃一の提案に嬉しそうに応えた。
「秀也はどうする?」
晃一が秀也の顔を覗き込む。
「とりあえず、司の事は紀伊也に任せればいいさ。あいつなら大丈夫だよ、な」
「ああ・・・、 俺はいいや、やめとく。司が入院してんのに、遊べないよ。それに半分は俺のせいでもあるし」
「ほぉー、相変わらず優しいね、秀也君は」
晃一がからかうと、秀也は晃一の頭をはたいて立ち上がる。二人が秀也を見ると、ちょっと、と言って席を外すが、二人とも気にする素振りも見せずに飲み始めた。
十二時半か・・・。起きているかな。
ちょっと悪い気もしたが、秀也は携帯電話を取り出すと何処かへ電話をかけた。