第五章(三)
錯覚(三)
翌朝、司は病院のベッドの上で目を覚ました。
そして、昨日の出来事を思い出そうとしていた。
ふうっと、一息吐いて目を閉じた。
番組の放送中の事は覚えていない。ただ覚えているのは、亮の声を聴いた事だった。
空耳だったのだろうか
生きている筈のない亮の声を聴く事などできる訳ないのに
あれは、幻だったのだろうか
でも・・・
再び目を開けて天井を見た。
右腕からは管が伸びて点滴が落ちている。室内を見回すといつもの病室だったが、ソファの上に紙袋と黒いケースが置いてある。どうやら、紙袋の中は司の着替えのようだった。
黒いケースに視線が止まった。
・・・ フルート。 そうだ、フルート。
司の目の前に、フルートを構えた亮がいた。上目遣いに悪戯っぽく笑っていた。
あれ、兄ちゃんだったの?
『光月さん』
彼はそう呼んだ。『司』とは言わなかった。
あれは誰だったのだろう
司は混乱していた。
また、胸が苦しくなる。 ハァハァ、必死で呼吸を整えようとした。
「兄、ちゃん・・ だったの? ・・・ 兄ちゃん・・・」
更に呼吸が激しくなり、胸も痛む。
咄嗟に点滴を抜いて悶えた。
ガシャンっ!!
大きな音がして点滴が床に転がった。
早朝の静けさを破る音が冷たい病院の廊下に響き渡った。看護婦が慌てて部屋に飛び込んで来ると、ベッドの上で苦しむ司を見つけ急いで担当医を呼びに行った。バタバタと数人の足音が響き、司の体を押さえた。
「どうした?! 大丈夫かっ」
雅の声がした。
「ボン、兄ちゃんが・・・、兄ちゃんが・・・」
そう言いながら意識が遠のいていく。
目を覚ますと、雅が椅子に腰掛けていた。
雅は司の目が開いたのを確認すると、脈を計り聴診器を胸に当てた。
「落ち着いたか。暫くは安静だな」
司は黙って雅を見た。
?
何となくおかしい
雅は首を傾げた。が、気を取り直すといつものように言った。
「紀伊也がえらく心配してたぞ。テレビ局で倒れたんだって? まったく、何だってそんな所で・・・らしくないな」
まるで叱るようだ。
「・・・・」
やはりいつもと違う。いつもなら、ここで言い返してくる筈だ。
「とにかく今日は安静にしていろ。二、三日は入院してもらうから」
命令口調で挑発してみた。
「・・・・」
「いいな」
「うん」
「え?」
拍子抜けした。
雅は驚いたが、初めて素直に従ってくれたと思った。いや、二回目か。最初はいつだったか思い出そうとした時、更に意外な言葉を聞いた。
「気分が悪いんだ。誰にも会いたくないから面会拒否にして。暫くここにいるよ」
そう言って顔を背けた。
「紀伊也や秀也達は?」
「誰にも会いたくない。できれば鍵かけといて」
「分かった。お前がそう言うなら。もちろん家の人も、だろ?」
雅は立ち上がった。
「ああ」
司はそう言うと目を閉じた。
「但し、発作が起きたらすぐボタンを押すんだ」
念を押すように言うと、部屋を出て行った。
******
秀也は何となく眠れない夜を過ごした。
あれから軽く食事をして帰ったが、晃一とナオの会話が気になっていた。
相変わらず紀伊也は黙っていたが、司を任せた手前済まない気持ちの方が大きかった。
亮を亡くした事のショックは分かっている。どれだけ慕っていたかはよく聞かされたし、その為に情緒不安定になり、何度抱き締めただろうか。
確かに命日には一日中姿を消している。が、そう言えば、一度だけ見かけたことがある。
あんな司を見たのは初めてだっただけに、声もかけられなかった。腑抜けというのはこの事を云うのかという位ぼんやりと歩いていた。
本当に魂がそこになかった。
あれから八年経つというのに、未だにショックから立ち直れていないのか。
『それをだな、急に目の前に現れてみろ』
不意に晃一の言葉を思い出した。
まさか・・・ ね
微かな不安がよぎりながら苦笑してしまった。
昼前、一般の面会時間にはまだ早いが、司の様子を見に行った。
もしかしたら、またいつものように抜け出しているかもしれない。まぁ、いなければそれに越した事はない。雅の怒った顔が目に浮かんでくる。今日はどんなセリフを言うのだろう。そんな事を想像しながら病室の前に着いた。
「!!?」
ドアに貼られた札に思わず目を見張ってしまった。
「何、これ・・・。 どういうこと・・・ ?」
とりあえずドアをノックし、中の様子を見ようとノブを回すが回らない。鍵がかけられていた。
あれ? ここ司の部屋だよな。
そう思いながら名札を確認する。
「光月司様」・・・、そうだよな。
もう一度回すが開かない。慌ててナースステーションへ駆け込んだ。
ナースステーションでは既に顔馴染みである。新人ナースだけがそわそわ浮ついていた。
「あら、お早うございます」
「お早う。・・ じゃなくて、何あれ? 面会拒否ってどういう事? しかも鍵かかってるし。司、いるんだろ?」
看護婦達は少し困惑して目を合わせたが、どこかへ電話をかけた。一分程して雅が現れた。
「あ、先生。 あれ、どういう事?」
「珍しいだろ。司が自分から言い出したんだ。素直に安静にするって」
白衣のポケットに手を突っ込みながら少し嬉しそうに言う。
「うっそぉ?」
秀也は耳を疑った。司が自分から病院にいるって?!
「驚いたろ? そりゃ、驚くよな。 俺も驚いたよ。十年位司を診てるけど、初めてだもん いやぁ、アイツも少しは大人になったのかなぁ」
「でも、面会拒否って。しかも鍵まで」
「うん、それも意外だったな。 気分悪いから誰も中へは入れるなって言うんだよ。たまにはしっかり静養したいんじゃないの? お前等来るとゆっくり静養できないだろ」
嫌味っぽく横目で秀也を見る。
「そりゃ・・・」
秀也はバツが悪くなって首をすくめた。
司が入院すると、何となく皆暇をもてあまし、見舞いがてら病室で話を始め、そのうち司も病室にいるのがつまらなくなって、夜中にこっそり抜け出すのである。今まで、まともに退院手続きをした例がない。
「という訳で、今日の面会は無理だな。心臓の方は落ち着いているから、心配はいらないよ。それに、ここは病院だからな」
雅はそう言うと、秀也を手で追い払った。仕方なく秀也は病院を後にした。
ちょっと、早いが事務所へ行けば誰かいるだろう。そう思いながら車を走らせた。
事務所へ着くと、入口では報道記者が待ち構えていた。秀也は気付かれないようにいつもの裏口から入った。スタッフが秀也に気付くとスポーツ新聞を手に、一斉に駆け寄って来た。
「ちょ、ちょっと、秀也さんっ。 これっ!!」
宮内が手にした新聞を突き出した。そして、あちこちで声が上がる。
「司さん、倒れたって本当ですか!?」
「どうなってるんですか!?」
秀也は思わず新聞を受け取ったが、目を通す間もなく説明を求められる。
「チャーリーは?」
とりあえず、マネージャーのチャーリーを探すが見当たらない。
「今、社長のとこ行ってますよ。 チャーリーだって、昨日皆に追い返されて訳わかんなくて泣いてましたよっ!!」
宮内は同情して秀也を睨んだ。
「みんなは?」
「もうすぐ来ますよっ」
他の三人は呼び出されたのか、と少しホッとした。
こう、急に責められても肝心の司と会う事が出来なかったのだ。顔色さえも分からないというのにどう説明しようかと考えた。
「あ、来た来た」
誰かが入口を指して手招きする。三人共に一緒だった。
「何だよ、あの騒ぎ」
晃一が憮然として言った。
「はあ、助かった」
思わず秀也は呟いた。
「よく、三人一緒に来れたな。屋上からでも来たのか?」
秀也はビルの入口の人だかりを思い出した。
「正面からに決まってんだろ。 何の騒ぎかと思えば、司の事だった」
晃一は相変わらず気にする素振りも見せず、平然と言ってのける。
「もうっ、もっと自覚して下さいっ」
宮内が呆れたように怒った。 どうしてこうマスコミに無関心なんだ、この人達はっ、しかも勝手過ぎるっ。
「とにかくっ」
「とにかく、大丈夫なんだろ?」
宮内の声を遮って晃一が秀也に訊く。まるで秀也が病院に寄って来た事を知っているかのようだ。
「それが・・・ 」
秀也は少し困惑した。
「会えなかった?」
秀也が事情を説明すると、紀伊也が驚いて言った。
スタッフ達はとりあえず司の容態に問題のない事を知ると対応に追われた。
「どういう事?」
紀伊也は何か不安を覚えた。
「よく、わからないよ」
「余程、ショックだったのかなぁ」
ナオがタバコの煙を天井に吐きながら言った。
「秀也、本当に大丈夫なんだろうな」
晃一が念を押すように言う。
「だと思う・・・」
自信なさげだ。何せ、初めての事なのだ。
「で、先生は何て?」
「心配いらないって。 あの様子じゃたまには静養したいんじゃないかって。 それに俺達が行くと、静養できないからって追い返されたよ」
「何だ、ソレ」
晃一はムッとして言う。
「まあ、確かに言われればそうだけど」
ナオが慌てて付け加えた。 まあな、晃一は苦笑した。
「とりあえず、ほっとけ」
晃一は言うと、秀也の手にしていた新聞の束を奪い取って読み始めた。トップの見出しは全て司だった。
「どれもこれも一緒だな。 光月司、番組放送後倒れる。光月司、心臓発作か。 ナニナニ・・・ ふんふん・・・」
「ちょっと、これ・・・」
ナオが晃一から受け取った一つの新聞を見て驚きの声を上げた。
「どれ」
晃一はナオから奪い取って読むが、顔色が変わっていく。
「どうした?」
今度は秀也が読み始めた。
「ナニナニ・・・。 倒れた原因は並木清人か・・・? 何だよ これっ」
紀伊也も秀也から取って読み始めた。何となく不安が的中して来た。
誰が見ていたのか、大切なフルートを手渡したまま走り去った、とある。
そう言えば、黒いケースには入ってなかった。
憮然とした表情の秀也を横目に三人は不安を募らせながら目を合わせた。