第五章(二)
錯覚(二)
「似てるんだよ」
晃一が口を開いた。
ここは、いつも行く知り合いのバーだった。こじんまりとした落ち着いたバーだ。大抵何か話がある時はこの店の奥の席に座る。コンクリートの壁に遮られ、誰がいるのか他の席からは見えない。
「生写しなんだ」
そう言うと、タバコを吸った。ナオも頷いた。
「何が?」
秀也は二人を見た。二人とも怯えたような思い詰めた表情をしている。
「兄貴に。司の死んだ兄貴に生写しなんだ」
ナオの声が微かに震えている。
「え? 兄貴って、亮兄ちゃんとかって?」
「そう、亮さん。秀也は会ったことねぇんだよな。亡くなった後だったから」
「うん、写真では見たことあるけど。・・・ で、誰が似てるって?」
「アイツ。アイツだよ、並木」
晃一が少し苛ついて言う。
「ああ? そうかなぁ・・・」
秀也はどこかあどけない少年のような、でも気品を備え目鼻立ちがすっと通った切れ長の目をした並木と、司の部屋に飾ってある亮の写真を思い出した。
似ていると言われればそうかもしれない。
しかし、はっきりと亮の顔を思い出す事は出来ないし、実際に会った事がないから分からない。
「アイツ見た時、ゾッとしたよ。甦ったのかと思った」
晃一はまるで幽霊でも見たかのように言う。
「うん、俺も・・・。 冷や汗出たもん」
ナオは思い出して、また背筋が寒くなる。
「紀伊也はなんて?」
「紀伊也なんか絶句してたよ。一目見た瞬間だったな、固まってた」
晃一は紀伊也の驚愕した様子を思い出した。尋常ではなかった。あの、嫌味な程冷静沈着な紀伊也でさえも吐き気を催した位だ。
そこへ、バーテンダーが三つのグラスを持って現れた。
「どうしたの? 何だか、顔色悪いんじゃない?」
グラスをそれぞれの前に置きながら言った。
「ねえ、祐さん、生まれ変わりとかって信じる?」
晃一が訊いた。
思わずプっと吹き出し晃一を見た。
「どうしたの、急に。晃一がそんな事言うなんてね、珍しい」
ナオと秀也を見ながら言う。
「え? ああ。でもさ、生写しとかっていうのは?」
今度はナオが訊く。
「やだなぁ、もうっ。何、言っちゃってんの?」
「いたんだよ」
笑い飛ばされ、晃一がすかさず言った。
「・・・・」
真剣な眼差しに祐一郎の顔が曇った。
「何があったの?」
祐一郎はトレーをテーブルの隅に置くと椅子に腰掛けた。
「亮さんに会ったんだ」
「・・・!?」
「正確にいうと亮さんにそっくりなヤツに会った」
「何だ、そんな事で・・・」
何かもっと期待していたようにがっかりした。
「ホントだよ。似てたんだ。顔も体の線も仕草も声もっ・・・ !」
晃一は自分で気持ちが高ぶってくるのを覚え、口をつぐんだ。そんな晃一に祐一郎は落ち着くよう、膝に手を置いた。
「そんなヤツはいくらでもいるさ。錯覚じゃないのか? 顔が少し似ているだけで、他のもの全てまでが似ている、同じだ、って思い込みをしてしまう。人の心理だな。心理学専攻のナオなら分かるだろ」
ナオに顔を向けて言う。
「あ、ああ、論理的に言えばそうかもしれないけど・・・。 司が」
「司? どうかしたの」
一瞬眉をひそめる。
「倒れたんだ。アイツを見て、兄ちゃんと言った」
晃一はあの時の司の表情を忘れられない。
「司が・・・、倒れた? まさか、発作?」
三人は合わせたかのように頷いた。
祐一郎は腕を組んで暫く考え込んだ。三人は黙って祐一郎を見ていた。
祐一郎と亮とは学生からの親友だった。司の事は小さい時から知っている。
亮がどれだけ司の事を可愛がっていたかも承知していた。妹思いの兄だった。そして、司も兄思いの妹だった。周りから見ても羨ましい位仲の良い兄妹だった。
「余り、良い気分しないな」
ポツリと言うと、何か不安を感じた。
「ちょっと、待って」
秀也は訳が分からず重苦しい沈黙を遮った。
「何で、そんなに深刻になるんだよ。たかが兄妹だろ。それにもう8年も経ってる」
「秀也、そっか、お前・・・。」
祐一郎は不意に秀也を安心したように見ると
「知らなくて正解だよ。だからお前なんだ。司を任せる、なっ」
晃一とナオを交互に見ると立ち上がって言った。そして、二人の肩を叩くと「これ、俺のおごり」と、グラスを指して、トレーを持ってカウンターへ戻って行った。
秀也は祐一郎を目で追うが、視線を戻すと、晃一とナオは俯いたまま黙っていた。
「何?」
秀也は少し苛ついた。
司の倒れた理由が分からない。死んだ兄に似ている、それだけでは理解できないし、説明になっていない。
やがて、決心したかのように晃一が顔を上げた。
「葬式の日さ、あいつ、絶叫してた」
晃一とナオは思い出すと、宙を見つめた。
「絶叫? ・・・ 司が?」
秀也が訝しげに訊く。
「ああ。 葬儀が終わって、出棺の前に親族だけで最期の別れをするだろ。多分あの時だよ。誰かの叫ぶ声が外まで聞こえたんだ。司だと分かったけど・・・」
そこまで言うと息を詰めた。そして、グラスに入ったジンを一口飲む。グラスをテーブルに戻すと更に続けた。
「出てきた時、司じゃなかったな。 アイツ、魂を抜かれたみたいな感じで・・・。 紀伊也の話じゃ、火葬の時はもう見ていられなかった、って言ってたよ。相当ショックだったんだろうな。暫く部屋にこもったきりだったもんな。ナオも覚えてるだろ」
そう言ってナオを見ると、ナオは思い詰めたように煙を吐いて応えた。
「ああ。 心配して家に行ったけど、追い返されたよ。二週間位して急に学校に行き出したって聞いたけど、俺達とは会おうとしなかったし、和矢に訊いても黙ってるだけだったし。それからだよ・・・」
タバコの灰を灰皿に落とした。
「亮さんの話をすると逃げるし、思い出したかと思えば・・・」
「発作起こして、入院、の繰り返しだよな 」
晃一が代わる。
「あそこの家も何だか複雑そうだしな」
-そう言えば司のヤツ、家族の事を話そうとしなかったな。敢えて訊くこともないと思ったから、そのままにしていたけど・・・。
秀也は何度か司の家に行った事があるが、使用人が出て来るだけで両親とは殆ど会っていない。パーティの席で何度か顔を合わせただけだった。
「あの時初めて司の家族を全員見たよ。兄貴があと二人もいた。しかも一人は亮さんと双子だったんだ、驚いたよ」
晃一はナオと顔を見合わせた。
「そうそう、てっきり二人兄妹だとばかり思ってたからな。祐さんだって他に兄貴がいたなんて知らなかった位だよ」
「えっ、そうなの?」
秀也は驚いた。 この二人はもっと司の事を知っていたのかと思ったのだ。しかも亮の親友でさえ、兄弟の存在を知らなかったとは。
確かに司の所は複雑な環境だろうなと思った。なぜなら、当の本人自体変わった育て方をされている。
人にはそれぞれの事情がある
触れてはいけないものがあるのだから仕方がない。メンバー達は余り知らなかった。というよりは敢えて知ろうともしなかった。
恋人である筈の秀也でさえ、そこの所には触れなかった。が、しかし今は気になってしまった。
-俺の知らない司がまたいる、と。
「話がずれたな」
晃一が思い直したように言う。
「そこで、だ。今日あの、並木が現れちまっただろ。司の中じゃ8年前の事は何も終わっちゃいなかったんだ。 思い出したよ、命日の日は必ず一日中俺達の前から姿を消している。だろ?」
二人は頷いた。
「それをだな、いきなり目の前に現れたんだぜ。そりゃ驚くよ」
「確かに」
ナオが同感した。
「それは分かるけど・・・。 分かったけど、何でそんなに不安になるんだよ」
秀也は何となく納得せざるを得なくなり、訊く。
「お前なぁ、カノジョだろ。わかんない?」
晃一は少々呆れ顔だ。
「つまり、敬愛していた兄貴に生写しの男が目の前に現れて、心奪われないか、って事」
秀也の顔をマジマジ見ながら一気に言った。
「まさかぁ」
秀也は苦笑してしまった。司に限って他の男に見向きをする筈がない。女を騙くらかして遊ぶ事はしても、自分から男に興味を持つなど到底考えられない事だった。
「本当に大丈夫か?」
ナオが心配そうに訊いた。
「あのなぁ、司だぜ。変な心配するなよ。それに俺しか知らない司だっているんだし、そんな柔な付き合いしてねぇよ」
「そうだよなぁ。 もう何年になるんだっけ?」
「んー、7年かな」
秀也がバンドに加わった時からだからそれくらいになる。
「まあ、その辺の事はお前に任せるさ」
晃一がソファに寄りかかると秀也の携帯電話が鳴った。
「もしもし・・・、 あ 紀伊也」
秀也が二人に目配せすると、晃一は慌てて体を起こした。
「うん、・・・ ああわかった 。ありがとう。・・・今? 店にいる。・・ん? ・・・ そう、じゃ」
「何だって?」
「あ、今から来るって」
「じゃなくて、司は?」
晃一が苛ついて訊いた。
「大丈夫。 間に合って落ち着いたって。 今日は一日目を覚まさないから来なくていいって」
電話をしまいながら、安心したように言った。
「そっか、良かったな」
晃一も安心するとソファの背にもたれた。
やがて、疲れ切った紀伊也が店に入って来た。皆の所へ行く前に祐一郎に呼び止められた。
「聞いたよ。あいつらから。 で、どうなの?」
「・・・・」
難しい顔をした紀伊也に不安になる。
「ヤバイの?」
「あ、いえ、体の方は心配ないんですが・・・」
「亮の事?」
「!?」
「大丈夫だろ、秀也に任せろ。 なっ」
「はい・・・ 」
そう頷くと奥へ行った。紀伊也は黙って椅子に座るとタバコを口にくわえた。
「紀伊也、悪かったな」
ナオが言いながら、ライターを出し、紀伊也のタバコに火をつけた。
紀伊也は黙って首を振った。そして、煙をふうっと天井に向かって吐くと呟いた。
「疲れたなぁ」
スタジオで並木を見てから急に気分が悪くなり、それ以来ずっとモヤモヤしていた。
司の異変から更に気が気でなかった。公然の場で倒れる事だけは何としてでも避けねばならなかった。それは避けられたが・・・。
救急車に乗ってから、司はずっとうわ言で亮の名を呼んでいた。時々目を開けて紀伊也に気付くと、
『紀伊也・・・、 兄ちゃんに会った・・よ。亮兄ちゃん、が・・ いた・・ んだ』
そう嬉しそうに言うと再び目を閉じ、息苦しそうに呼吸していた。
「・・や、紀伊也」
不意に呼ぶ声がし、フッと顔を戻すと秀也が心配そうに見ている。
「大丈夫か? ごめんな、お前に任せて。大変だったろ」
「ああ、何でもないさ。・・・、 秀也の気持ちが少しは分かったかな、なんてな」
皮肉っぽく笑みを浮かべる。
「ナニそれ」
「え? いや、よく秀也、司の事で心配してたろ。アイツそんなに体強くないし、冬とか寒くなるとすぐ熱出して倒れてさ。 毎回大変だなぁって思ってたけど、秀也もよく耐えられるよな」
「ああ、でもなんか慣れちゃったよ。最初は焦ったけど、長くいるとね・・・」
そう言って苦笑した。
つられて紀伊也も苦笑するが、病院までの事は黙っていた。