第四章(七)
「運転手さん、駅まで」
「どこの?」
「新幹線」
「はいよ。で、どこまで帰るのかね」
「東京」
「東京? そりゃ無理だ。東京行きの最終は出ちまってるよ。後は寝台かなぁ 」
思わず二人はシートに倒した体を起こし、顔を見合わせた。
駅で降ろされて呆然と、浮かび上がる桃太郎像を見上げる。
「どうするよ、寝台で帰る?」
ナオがポツリと言う。
「そりゃ、勘弁だぜ。あそこに泊まって、せっかくだから何か美味いもんでも食ってこうぜ」
駅前のホテルを指した。
「そうだな、それに明日はオフだし、急ぐこともねっか」
ナオも同意して頷くと二人はホテルのロビーに入る。
しかし、やけに人が多い。地方のホテルにはツアーの時にしょっちゅう泊まってはいるが、いつもこれだけ人が多かっただろうか。フロントへ行き宿泊の手配をするが、難しそうな顔をしている。
「あいにくですが、今いっぱいでございます」
「は? じゃ、ダブルかツインは?」
シングルを二部屋頼んだのだが、断られた。二人とも見かけは男同士だが、さすがにナオも気が引ける。できれば別々の部屋が良かった。
「申し訳ございませんが、二部屋はご用意致しかねます。只今、満室でございます」
「ちょっと、待って。 何で? スイートもダメなの?全然ないの?一部屋くらいあるでしょ。どこでもいいから探してよ」
フロントデスクのカウンターに片肘を乗せて参ったというように、ナオを見ると溜息をついてしまった。
暫くカチャカチャ、キーボードを叩いてパソコンを見ていたが、フロントの女性が申し訳なさそうに手を止めてこちらを見た。
「ないの?」
不安になって聞く。まさかこんな所で足止めを食らうとは思ってもみなかった。
「いえ、ございますが・・・。 エグゼクティブスイートが御用意できますが」
「あ、じゃ、それでいいよ」
ホッとして思わずO.Kを出す。スイートなら部屋も広いし、この際同じ部屋でも気兼ねしないだろう。
「ベッドは一つですが、よろしいですか?」
サングラスをして同じような黒い皮のジャケットを着、背も高く、どこからどう見ても男同士にしか見えない二人を交互に見る。
二人も思わず顔を見合わせた。
が、とたんに司がニヒルな笑みを浮かべた。
「仕方ないな、いいよ。 ・・・、ナオちゃん、ヨロシクね」
サングラス越しにウインクを送る。 思わずナオはゾッとした。
「ね、でも何で今日はこんなにいっぱいなの? 今日は仏滅でしょ」
宿泊カードに自分の名前と事務所の住所を記入しながら訊いた。
今朝、チャーリーが手帳を見ながら、今日は仏滅だと言っていたのを思い出す。となれば結婚式と重なる事はない。ホテルも仏滅の日の宿泊率は低い筈だった。
「ええ、何でも今日、岡山放送局の方に有名人が来ていたらしく、それを見にいらした方が宿泊されているみたいです。昨夜まで殆ど予約はなかったのですが、今朝になって急に予約が入ったんです。 申し訳ございません」
宿泊カードをフロントの女性に渡しながら司は思わず、え? と顔を上げると、カードの名前を見たその女性とサングラス越しに目が合った。思わず声を上げそうになった女性に向かって、人差し指を自分の口に当てた。
「頼むよ。こっちも帰れなくて困ってんだから。それに守秘義務でしょ」
女性は息を呑んで頷くが、俯きながら笑いを堪えているのがわかった。
「お前から守秘義務なんて言葉が出てくるとは思わなかったぞ」
ナオは周りを気にしながらも司の耳元で囁いた。うるせーよ、と軽くあしらいながら手続きを済ませると、鍵は後で受け取ると言い、二人は外へ出た。
どこか行く当てでもあるのか、とのナオの問いかけに、まぁね、と応えるとポケットから一枚の紙を取り出した。そして、それを見ながら歩いて行くと路地裏にある一軒の小料理屋へ入った。
カウンターと、座敷席が四つ程のこじんまりとした、どことなく桧の香りが漂って来る感じのいい店だった。
客も五、六人しかおらず、静かに語り合いながら酒を酌み交わしていた。
二人がカウンターに座ると温かいお絞りが手渡される。そして小鉢と箸が目の前に置かれた。決められたようにナオはビールを注文するが、司は珍しく冷酒を注文した。
「珍しいね」
「そう? 秀也と行く時には大抵呑むよ。 アイツはビールばっかりだけど」
手を拭きながら言う。カウンターの中では五十歳代後半程の店主が黙々と料理を皿に並べている。
「ねえ、親父さん」
気さくに呼ぶとニコリともしないでこちらを見る。店に入ってまでサングラスをかけているのが気に入らないのだろうか。しかし客を詮索する程器用そうでもない。ましてやその気もないのだろう。
「オレ達、地元じゃないんだ」
その言葉にピクリと眉が動く。
「メニューもよく分からないから、とりあえず親父さんのお勧めってヤツを五品位作ってくれる?」
「はいよ、何でもいいんだね」
意外にも愛想のいい返事が返ってくる。
人を惹きつけるような司の声のトーンに一瞬店内の注目を浴びる。
「いいよ、納豆とらっきょさえ入ってなきゃ」
そのセリフに思わず聞いていた者の笑いを誘った。店主も笑顔で応えると早速、調理にかかった。
酒が運ばれて来る。
「お、さすが備前焼で来るんだな。 これでビール飲むと美味いんだろ?」
司がナオの目の前に置かれたビールを見ると、繊細な白い泡が滑らかに覆っている。
「うん、何でだろうな。泡が美味いんだよ。ビールもコクが出るってかんじで。前に秀也と呑んで、アイツえらく感動してたな」
「ふーん、オレはいいや。 じゃ、とりあえず乾杯」
二人は軽くグラスをかざすと一口飲んだ。
「ふうっ、美味いなぁ。何だろなぁ、東京で飲むより何となく落ち着くよ」
ナオも同意するように頷く。
同じような雰囲気の店なら東京にはいくらでもあるが、不思議な位今は二人共に穏やかな気分になっている。
「ねぇ、そう言えばさ、ナオと二人だけで呑みに行くって事あんましないね」
言われてみればそうだった。必ず誰かがいた。何となくお互い「あれから」二人きりという場面を避けていたのかもしれない。
「なぁ、司、お前の事訊いてもいいか?」
由美の母親から聞いた後ずっと気になっていたのだ。訊いてはいけない暗黙の領域なのだろうが、話したくなければそれはそれでいい。が、それでもナオは訊きたかった。
「いいよ」
何のためらいもなく返事をした。司も別に言いたくない訳ではない。誰も何も訊かないので言わなかっただけである。ただ、マスコミだけは別問題だが。
「お前さ、お袋さんとはよく話しとかするの?」
?
意外な質問だった。
「ホラ、娘ってよく母親を相談相手にするっていうか、女同士のヘンな絆みたいのあるじゃない。明日香がそうだったから」
「母娘の関係ってヤツ?」
「うん、それ。まぁ、お前に限ってはないのかもしれないけど、どうなのかな? とか思って。それに一般的に母親の存在って絶対的みたいなとこあるじゃない」
「そんな事まで心理学って勉強するの?」
「それは別だよ。で、どうなの?」
話をはぐらかされないようにさり気なく戻す。それまでナオを見ていた司は前を向いた。
「お袋はね、オレが生まれて二時間後に死んだよ」
「え?」
初めて聞く事だった。というより初めて明かされた事だった。
「今のは二人目。 今のお袋はね、子供が産めないんだ。それもあってね、再婚したらしいよ。 オレはホラ、生まれてすぐにばあやに面倒看てもらって、二歳から一人で海外だろ。 一緒に過ごした事なかったし、兄貴達だってオレと十歳離れてるんだ。だから子育てなんかしなくてよかったから遊んでたらしいぜ、あの人」
そう言うと、ぐいっと酒を飲む。一品運ばれて来たところでもう一杯注文する。
意外な司の真実にナオは戸惑ってしまった。血のつながっていない母親の存在、独りで過ごして来た二十三年、敬愛していた兄の死。それらを思うと切なくなってしまう。
しかし、司は一向に気にする事なく淡々と語る。
「ホントに一緒に生活した事なんてないからお互いよく分かんないんだよ。 兄貴達とはそれなりに仲良くやってたみたいだけどさ。たまに帰国したって、オレこんなだし、向こうも面食らっちゃってさ、話なんかした事ないなぁ」
言いながら皿に手を付ける。うん、旨い旨いと言いながら酒を呑む。
ナオもいつの間にか司と同じ酒を呑んでいた。
「ああ、いつだったかなぁ、お袋がさ、すっげ喜んでたんだ」
突然嬉しそうに思い出したかのようにナオを見た。
「いつ?」
「あん時だ。 高校の入学式の時。あの時さ、兄ちゃんと二人で来たんだよね。日本の高校って制服だろ? オレさ、生まれて初めて履いたんだよね、スカートってヤツをさ。 親父なんか激怒してたけど、お袋と兄ちゃん、それ見て大喜びして二人ではしゃぎまくってたよ。 すっげ、恥ずかしかった」
懐かしそうに言うとはにかんで俯いた。ナオも思い出す。
「そう言えばそうだったな。あれがまた妙に可愛かったりしてな。秀也なんてお前の制服の写真いつも持ち歩いてたぜ」
「うっそ?」
「ホント、ホント。あれには笑ったよ。セーラーだったら最高にウケてたけど」
「ばかやろ、セーラーだったら行ってねえよ」
「だよな」
二人は顔を見合わせると声を上げて笑った。
「あれから何となくオレとお袋の距離が縮まったかな。やっぱ、お袋も能天気そうでいて悩んでたのかなぁ。 今だって頻りに帰って来いとか言ってるみたいだし」
「帰ればいいじゃない」
「・・・・・、何となく」
母親に会いたくない訳ではない。司にとってあの家は帰るべき所ではなかった。亮とのつらい想い出もある。それにあの家は司にとって指令を受ける場所だった。
そのまま黙ってしまった司にナオはそれ以上は訊くまいと思った。もう充分だ。たとえこれ以上訊いたからとてどうこうするつもりもない。
司は波々と注がれた冷酒を一気に飲み干すと一息ついた。
「ナオ・・・」
神妙な口調の司を見ると、指先には空になったグラスがぶら下がっている。
「オレは辞めると思ってた」
「え?」
「ジュリエットを。 でも、お前今こうしてここに居るんだよな」
呟くように、それでいて確認するかのようにナオに視線を送った。明日香の死後、暫く顔を見せなかったナオが突然に姿を見せ、以前と変わらずステージに立ったのだ。あの時司は何も訊かずナオを黙って受け入れた。
そして今、司も沈黙を破った。
「あの時は本当に辞めようと思ったさ。お前を殺したい程憎んでたからな」
あっさりと言うナオに今度は司が戸惑ってしまった。
「何でだろうな。けど、冷静に考えると、お前は明日香の為に一生懸命だったんだって、そう思えたからかな。それに俺自身ジュリエットは続けたいと思ったんだ。今はあの時の自分の決断に感謝してるよ」
司も、もうこれ以上は充分だった。思わず笑みを浮かべると、酒を注文した。
二人は店主の料理と酒に舌鼓を鳴らし、他愛もない会話をしながら過ごすとホテルへ戻った。