第四章(六の2)
去年の十二月、大学生の兄が住む大阪へ一人で遊びに行った時の事だった。
兄とその友人達に連れられ、夜の道頓堀界隈を散策に行き、とある裏通りに入った時、一軒の店でボヤ騒ぎがあった。その時たまたま通りかかった由美は、その店や周辺から逃げて来る人込にまみれてしまい一人はぐれてしまったというのだ。
初めての場所での混乱、逃げ惑う人の声、足音、異臭。それらが突然襲い掛かり呼吸困難に陥ってしまった。
幸いにもすぐ兄に発見され何とか落ち着きを取り戻したものの、その日は震えが止まらず一晩中恐怖に怯えていた。
そして翌日は兄が自宅まで送り届けてくれたので、何とかそれは無事に乗り切れたものの、年末の大晦日の晩、友人と初詣に出かけた時、それはまた起こった。
参拝客で賑う神社の中庭に突如、暴走族が爆竹を投げ込んだ。神社は一瞬パニックになり、人々の悲鳴と火薬の匂いに突然のひきつけを起こしてしまった。
まるで自分の周りだけに空気が無くなってしまったかのように息苦しくなって、由美はその場にうずくまってしまい、またもや友人とはぐれて一人になってしまった。そこへ駆けつけた警察官によって助けられたという。
それからというもの、暗がり、人込、異臭、これら三つが揃うと必ずと言っていいほどひきつけのような発作が起こるというのだ。
ただ、この事自体が怖くて誰にも言えず黙っていたが、司が退院したその日の夕方、担当医師から「パニック障害」の疑いがあると言われ、それなりの医師を紹介するので考えてくれと言われたのだ。
「いつ、そんな事言ったんだよ」
ナオが司に訊く。
「ん? 抜け出す前にちょっとね。で、収録のオファーが来た時に彼女んとこ電話したんだよ。多分迷ってるんじゃないかと思って」
ナオから由美に視線を移すと、由美は俯いてしまった。「お母さんには相談したの?」との問いかけに軽く頷く。それを見た司は母親を呼ばせた。
二人とも困惑した顔で司とナオを見ていた。
すぐに担当の医師に相談しても良かったのだが、何となく医師も面倒臭そうだったのだ。光月司から依頼を受けた手前、渋々承諾したのだが、医師を紹介すると言ったところで時間がかかるとまで言われてしまったのだ。
そこへ司の電話である。知り合いの医師から然るべき人物を教えてもらったので、紹介したいというのである。だがその前に司としても事情を詳しく知っておきたかった。
本当にそうであるかどうか。
それで、今こうして由美から直接話を聞く事にしたのだ。まずは本人の意思も確認したかった。それに家族の同意も。
「由美ちゃん、今ならまだ早いうちに治療できるよ。このまま放っておいたらそれこそ取り返しのつかない事になってしまう。電車やバスにも乗れなくなってしまうし、外出する事すらできなくなってしまう。すぐにでも診てもらった方がいい」
司はそう言って二人を交互に見ると、上着の内ポケットからメモを一枚出すと机の上に置いた。
「ちょっと遠くて申し訳ないけど、大阪の広瀬川クリニックって云う所。ここの先生なら安心して相談できるよ。しかも女医さん・・・」
そこまで言ったところで、え!? と、驚いてナオに視線を送った。
瞬間、ナオがそのメモを取り上げていた。
「まだ、薬なんか要らないんだろ」
そう言って少し睨むように司を見る。
「まあ、初期だから、カウンセリング程度でいいかと」
「だったら、無理に通う事ないんじゃないのか」
「何言ってんだよ、早いうちから芽は摘んでおかないと悪くなってからじゃ遅いだろ」
「原因は分かってるんだ。だったらこのままそっとしておいた方がいいよ。無理に通って自分が精神鑑定かけられてるみたいに思って、自分が精神病じゃないかって思い込んでしまう方が怖いよ 」
「でもそれは素人が言う理屈だろ。専門の先生に任せれば万が一の発作の時の薬だって処方してもらえるかもしれないだろが」
何故ナオが反対するのか分からない。次第に苛立ってくる。
「それに、パニック障害だって断定されれば、周りで生活している家族の対応だって問題になって来るんだ。それも合わせて診てもらえって言ってるんだ」
すると、ナオはいきなり司の胸倉を掴み上げた。
「お前に家族の苦しみが分かってたまるかっ。家族と一緒に暮らした事のないお前に、身内の悩みなんか分かる訳がない。家族の中の一人が精神科に行くんだっ、その親や兄弟の気持ちなんか考えた事ないだろっ!? 何がその対応が問題になるだっ。前だってそうだ、お前一人で勝手に事を運んで、病院に行く事に決めましたからよろしく、だと?! 俺に何の相談もなくだ。 今回もまた同じ事するつもりかよっ」
ナオの剣幕に思わず絶句してしまった。
何も言い返せず司は静かにその手を払い除けると、黙って立ち上がって外に出て行った。
春とは言え、暗い夜の風が冷たく頬を突き刺す。門の脇の電柱に寄りかかるとタバコを取り出して火をつけた。夜空に向かって白い煙の糸が伸びて行く。それをじっと見詰めていた。
チクリと胸が細い針で突かれたように痛い。
「家族か・・・」
思わず呟いて足元を見つめる。余りにも漠然としていた。
家族が抱える悩み、苦しみ。そんな事今までに考えた事すらない。
自分自身生き延びるのに必死だった。
ただ一人だけ、今はもういないが兄の亮だけは違っていた。たった一人の恋人とも言える肉親だ。あれは家族とは言えないのだろうか。
父や他の兄達にも悩みや苦しみはあるのだろうか、それに母にも・・・。
司は暫くぼんやり春の夜空を眺めていた。
「待たせたな」
いつの間にかナオが柱の反対側に寄りかかりタバコに火をつけている。
「司?」
相変わらずぼんやりと空を見上げている司に声をかけた。
「さっきはごめん。言い過ぎた」
ナオは感情任せで行った事を後悔していた。あの時は司の他人事としか思っていないあの態度に昔を思い出し、本当に腹が立ったのだ。
だが、母親から思いがけない事を聞かされ、困惑してしまった。
「家族だから、同じ悩みや苦しみを分かち合って助け合わなければいけないんだと」
司が出て行った後、ポツリと母親が口を開いた。 その場にいた二人は思わず母親を見た。
「光月さんがそうおっしゃっていました。自分にはそう思える家族がいないから言えた義理ではないけれど、そうしなければいけないんだと思う、と。 あの方に言われて私もそうだと思いました。でも何故、光月さんのような忙しい方が赤の他人である私達の事をそれ程までに考えて下さっているのか、お聞きしたんです。 たまたま、あそこに由美が居ただけだったのですが」
そこで一旦言葉を切ると、隣に座っている由美を見た。
「知ってしまったんだ、俺達。ただ、逃げ遅れて助けただけじゃない。司が由美ちゃんを見つけた時、気付いてしまったんだよ君の事を」
ナオが引き継いだ。放っておく事など出来なかった。
七年前の明日香が自分達を呼んでいるような気がしたのだ。司がナオに由美を病院まで連れて行くように言ったのは、明日香をナオに引き渡す事が出来なかったからだろうか、今になってそう思えてならなかった。
『以前に、由美ちゃんと同じ症状が原因でお嬢さんを一人亡くした家族がいたんです。その頃はまだパニック障害って日本では余り認識されてなかった。それで、その時の母親も混乱していて、自分の娘が精神科に行くなんてとんでもないと言っていた。何とか説得して行く事になったんですが、今度は本人が行きたくないと言い出し、結果亡くなってしまった。
誰にも理解されない心の病気だと当時の医者は言っていた。彼女の抱えていた悩みをその家族に話したんです。 その時まで同じ屋根の下に住んでいて何となく過ごしていたその家族は突然、抱え切れない程の切ない悩みを抱えてしまった。
それを見たらやり切れなくなって、言わなければ良かったと後悔したんです。でも、その家族、今も亡くなった娘さんと同じ悩みを抱えているんだと、同じ気持ちを持っているのだと、そう思えてならない。
言った事でオレはあの家族を傷つけてしまったけれど、もし言わなかったらあの家族は彼女の本当の心を知らずに過ごしていたのかもしれない。肉親の誰にも知られずに独りで死んでいったなんて思いたくない。それじゃ、余りにも惨めだし皆が可哀そうだ。
だから、まだそうなる前に知っておく必要があるんです。家族の事を』
司が電話でそう伝えたという。ナオは愕然としてそれを聞いていた。
知らなかった・・・
司も悩んでいたのだ、それなのに俺は・・・
もしあの時本当の肉親であれば、ためらいもなく強引にでも明日香の事を連れ出していただろう。 が、しかし・・・。
「でも、何で、あいつはそこまで家族にこだわるんだろうな。とても執着しているとは思えないが」
思わず呟いた。
第一、司が家族の事を話したのを聞いた事がない。しいて言うなら兄の亮だけだ。他の二人の兄の名すら聞かない。両親にしても然りだ。
「その家族に嫉妬しているのだ、とおっしゃっていました」
最後に母親が付け加えた。
一瞬、母親を見たが、あいつらしい言い方だと、思わず苦笑してしまった。
ナオは司の言うとおりだと二人に言うと、先程奪い取ったメモを二人に渡した。
「でも、病院へ行くだけでは不安でしょう。亡くなったのは俺の妹なんです。同じ境遇の悩みを抱える者として何か力になれるかもしれない。何かあったら相談してください」
そう付け加えると、挨拶もそこそこに家を出て来た。
「司、ごめん。お前がそういうふうに思っていたなんて・・・」
「気にするな。オレはお前が考え直す程、できちゃいねえよ。それに今更家族の事言えた義理じゃないし、資格もない」
そう言ってフッと寂しそうに笑うと、持っていたタバコを地面に投げ捨て爪先で踏み潰した。
「さ、帰ろうぜ」
サングラスをかけて歩き出す。
先程ナオは、司という親友を失うかもしれないと一瞬でも疑ったが、今の司の背中からは何か温かいものを感じ、思わず微笑むと後について歩き出した。
そのうち、いつものように肩を並べて歩き出すと、大通りに出た所でタクシーを拾った。