第一章 牙(一)
第一章 牙(一)
『タランチュラ』 その体の数百倍はあるであろう象をも一撃で倒すとさえ言われる毒蜘蛛である。
しかし、月夜を静かに這う漆黒のその肢体はしなやかで神秘的な艶を放ち美しいとさえ言われる。
ただ、その牙さえ剥かなければ ・ ・ ・ 。
*****
「 どうでもいいけどよぉ 」
晃一が上半身裸で肩にタオルを掛け全身の汗を拭いながら、ドリンクを片手に呆れた声を出した。
ん?
他のメンバーは手を止めて晃一を見た。
「お前、その下まで脱ごうとすんのやめてくれる」
ズボンのベルトを外し、ファスナーを下ろしかけた司を見ている。
「あん?」
思わず手を止めて晃一を見ると、ほとほと呆れ果てた様子でこちらを見ながらドリンクを飲んでいる。
「また、穿いてねぇんだろ?」
「そうだけど、それがどうかした?」
司はファスナーから手を離し、胸から腹へ流れた汗を肩に掛けたタオルで拭う。
「いや、慣れたと言やぁ慣れたし、今更どうこう言うつもりはねぇけどよぉ、お前も23だろ、ちったぁ気にしたらどうよ」
溜息をつくと椅子に腰掛けながら額から流れる汗を拭った。
「どうしたの急に? ・・・ あーっ、分かった! ねえ、ねえ、お前さ、もしかして急に意識しちゃったの? オレの事。それならそうと言ってくれればいいのにィ」
司はニヤけながら晃一に近づくと素早く膝の上に跨った。
今夜の観客の盛上りは異常で、メンバーもその熱気に押され二回もアンコールに応え、興奮冷めやらぬままにライブを終了させ楽屋に戻って来たのだ。
司もまだステージでの余韻を残していたので思わずそのまま晃一に絡んだ。
「うわっ、やめろっ!」
司に両腕を首に絡ませられ、目を見開くと、白く僅かに盛上った胸が目の前に迫って来る。
慌てて司の肩を押し、それを何とか食い止めていた。
「晃一、今日こそ司を犯っちまえよ」
ナオが茶化した。
その声に司も「晃一く~ん」と甘い声を出しながら自分の胸に晃一を埋めようとしている。
晃一も本気で必死に抵抗していた。
「ばかやろっ、司を犯る程俺は落ちぶれちゃいないぜ!」
「おおっ、言うねぇ、秀也ぁ 何か言われてますぜ」
司は晃一の膝の上で腰を動かしながら笑って秀也を見た。
見ると秀也は呆れている。が、司が尚も晃一に迫ろうとしているのを見ると、慌てて晃一から引き離そうと、背後から司の両脇に自分の両腕を絡ませる。
「ばかっ、もうやめろ」
それでも司はふざけながら笑い出すと、その両腕を振り解こうと身を捩った。その光景にナオも紀伊也も呆れながら大笑いして見ていた。
ガチャ、
ドアが開かれ、瞬間視線が釘付けになった。
一瞬、静まり返り皆ドアに注目すると、ドアのノブに手をかけたまま呆然と、晃一・司・秀也を見つめたマネージャーのチャーリーが立っていた。
「何?」
上半身裸で胸を露にし、両脇を上半身裸の秀也に抱きかかえられ、上半身裸で椅子に座っている晃一の膝の上に跨ってその首に腕を絡ませている司が言うと、
「いや、・・・何でも・・ない・・・」
と、そのままチャーリーはドアを閉め、二、三歩後ろに下がり、廊下の壁に倒れかかるように寄りかかるとへなへなと座り込んでしまった。
「ねぇ、今のって、ヤバくない?」
閉じられたドアを見ながらナオが言うと、
「うん、ちょっと刺激が強すぎたかも」
紀伊也が付け加えた。
「そっかなぁ」と、言いながら晃一の膝から降り、秀也を振り払うとドアの方へ歩いて行きノブに手を掛けた。
「ちょい、ダメ!」
慌てて秀也が飛んで来るとノブを回そうとした司の手を止めた。
へ?
秀也を見ると半分怒っているようだ。
「そのまま出るなよっ、ばかっ」
秀也に窘められ、へいへいと、仕方なく中へ戻りロッカーから着替えを出し肩に掛けると、ファスナーを下ろしズボンを脱ぎ捨てシャワールームへ消えて行った。
結局、四人は司の全裸を見る羽目になってしまい、呆れて溜息をつくと苦笑してしまった。
着替えを済ませた五人は、中華街の一角にある老舗のとある高級料理店へ案内された。
今夜のライブの打ち上げだ。
およそ三時間近くに及んだライブに五人は腹を空かせ、打ち上げが中華街と聞き、期待を胸に膨らませ待っていた。
せめてビールの一杯位早く飲みたいとセッティングされたテーブルを見ながら待っているのだが、なかなか出て来ない。
「ねえ、まだぁ? 腹へって死にそうだよ」
とうとう堪え切れなくなった司がぼやいた。他の四人も同感して椅子にもたれかかり、チャーリーを横目で睨んでいる。
「もうちょっと待って。もうすぐ社長が来るから」
え?
メンバーはチャーリーに視線を送る。そう言えばテーブルの椅子はあと二つ空いている。他のテーブルを見ると何となく浮かない顔をして、スタッフがおとなしく座っていた。
その時入口の扉が開き、店員に案内された事務所の社長ともう一人スーツを着た男性が入って来た。
?
どこかで見た顔だったが思い出せない。が、思わず司はうんざりしてしまった。
こいつらと一緒かよ・・・
「お待たせして申し訳なかったね。まずはお疲れ様」
社長はそう言うと、司の向かい側に座った。
「疲れたよ、早くして欲しいんだけど」
ふて腐れて社長を睨んだ。そんな司に苦笑しながら無視すると「まずは紹介させてもらう」と、隣に座った男に視線を送る。男は司に向かって軽く頭を下げた。
「こちらの経営者で、西園寺利幸さんだ」
西園寺? あれ、親戚なのか?
司の怪訝な顔に気付き、西園寺は微笑んだ。
「翡翠の西園寺さんとは従兄なんですよ。だから、あなたのお父様には大変お世話になっています」
はぁ・・・
思わず溜息をついた。
こんな処で父の話が出るとは思わなかった。それに、あの西園寺の従兄だなんて・・・。
「え? 司とは知り合いなんですか?」
社長が驚いて訊く。
「ええ、遠い親戚に当たりますかね。専ら私共は光月さんのお父様が経営なさっているムーンデライトグループには大変お世話になっていましてね、実はこの店も翡翠の方もそのグループの傘下に入っているんです。ですから光月さんとはパーティの席で何度かお見かけしたことはあるんです。まあ、覚えてもらってはいないと思いますが。しかし今日は光栄ですよ。こうして足を運んでいただけるなんて」
嬉しそうに言うと、更に付け加えた。
「それに今、人気絶頂のジュリエットの皆さんにこうして来ていただけるだけでも、うちの看板が挙がりますしね」
と、満面の笑みを浮かべメンバーを見渡す。
「まあ、改めて紹介するまでもないが、一応・・・」
と、うんざりした司を見ながら社長はメンバーを紹介し始めた。
「・・・。ボーカルの光月司、ギターの須賀秀也、ベースの神宮寺直人、ドラムの矢神晃一、キーボードの一条紀伊也。以上がジュリエットのメンバーです」
司を除く四人は紹介されながらペコリと頭を下げた。
それにしてもいい加減にしてくれっ。
司はそろそろ限界に来ていた。店に入ってから30分以上も待たされているのだ。待たされる事が何より嫌いな司は今にも席を立ちそうな勢いだ。
その様子に隣に座っていた秀也と紀伊也は少し焦って目を合わせる。
「余り待たせてしまっていては申し訳ない。料理を運ばせますよ」
西園寺の一言に二人はホッと胸をなで降ろした。爆弾の秒読みのスイッチが切られたのだ。
しばらくしてビールと豪華に盛り付けられた料理が次々に運ばれて来る。
スタッフは見た事もない盛り付けに感動しながら思わず視線を司に向けた。
元々の素性をよく知らないのだ。
まさかデビューして3年経った今、こんな処で明らかになるとは。
しかも、ムーンデライトグループと言えば、彼等が知っているかぎりでは世界を股に架ける貿易会社で数多くのブランドの総代理店をも手掛けている。それに確か今、自分達が所属しているこの芸能事務所もその傘下に入っている筈だ。その他にもあるが規模が大き過ぎてよく分からない。
とにかく司はその経営者である光月家の娘だという事だ。
何か司には他の者達とは異なるものがあると感じてはいたが、それは生まれ持った家柄の違いなのだと納得させられた。
それにしてはこの風貌、動作、言葉遣い等々、疑問に挙がるものは数知れず、である。
宴会が始まってから各テーブルでは、気を遣いながらもその話に触れていた。
司は時折、社長や西園寺から話し掛けられてはいたが、素っ気ない返事しかせず食も余り進んでいないようだった。
西園寺の隣に座っていた晃一は、彼から勧められたせいもあるが、運ばれて来た料理に手当り次第に手を付けていく。
チッ、人の気も知らねぇで・・・
思わず、手元にあった春巻を箸で摘むと晃一の口目がけて投げつけた。
「あぐっ、・・・ お、サンギュ」
見事に口の中に入ったのを見て司は苦笑するしかない。他のメンバーもおおーっと歓声を上げ、二人のコンビネーションを称えた。
ようやく宴会が終わり、社長と西園寺への儀礼的な挨拶を済ませると解放された。
「あー、食った食った。さすがだね、美味かったよ」
晃一は満足気に腹に手を当てながら言うと、横目で相変わらず不機嫌そうな司に視線を送ると嫌味の笑みを浮かべた。
「チッ、食った気がしねぇよ。ったく」
黒い皮のジャケットの内ポケットからサングラスを出してかけると、その薄茶褐色の柔かい長めの前髪を掻き上げた。そしてタバコを取出すと1本銜えて火をつけた。
一服吸って上に向かって煙を吐く。
「司、大丈夫か?」
紀伊也が寄って来て小声で話しかけた。
司がちらっと見ると、少し垂れた切れ長の瞳が心配そうにこちらを見ている。
「ふんっ、お前の事が出なかっただけでも良かったじゃん。お前まで不機嫌になったらたまんねぇよ」
ぼそっと言うとタバコを吸った。それもそうだな、と苦笑した紀伊也もタバコを取出し、歩き出した司の後に続こうとした。
「あっ、どこ行くの!?」
慌ててチャーリーが司の首根っこを捕まえる。
「うわっチっ、何すんだよっ」
思わずタバコを落としてしまい、弾みで灰が指にかかった。
「タクシー乗って! 早くっ」
見ると、メンバーもスタッフによって無理矢理タクシーに乗せられている。
気が付くと遠巻きに人だかりが出来ている。どこで聞き付けたのかジュリエットのメンバーが来ていると知った野次馬やコンサートに来ていたファンが駆けつけていた。
抵抗する間もなく、タクシーに乗せられると一路近くのホテルまで直行した。