第四章(五)
「で、どうだったの? 彼女」
着替えながらナオに訊く。
「両親としては覚えがないらしいけど・・・」
昨夜の会話を思い出す。結局、由美は鎮静剤で眠ってしまったし、ナオとしても短い時間しかいられなかったので判断ができない。
「けど、お前はどう思うんだ?」
シャツの襟を正すと、司はベッドに腰掛けた。
「よく判んないけど、お前の言うとおりだと思う。ただ、自信はないよ」
「だろうな。 オレ達は医者じゃないから断定はできないけど、オレの勘からすると、多分そうだと思うよ。もし、そうだとしても親は認めたくねえだろうし、本人としても自分が精神病だなんて知ったらショックは受けるだろうしな・・・。 けど、あの時の二の舞はしたくねえが、ほっとくわけにもいかねえ・・・、だろ?」
司は真っ直ぐ、ナオを見た。
「ああ」
ナオも司の瞳を見る。自分達の過去の過ちは繰り返したくはない。それに知ってしまった以上、見て見ぬ振りをする事ができないのだ。
司はベッドから飛び降りると、ドアに向かって歩き出した。ナオもそれに続く。
二人は廊下に出ると、由美の病室に向かった。
コンコンと、軽いタッチでドアがノックされ、ドアに向かって「はい」と返事をした。
少し前まで母親がいたが、医師に呼ばれ出て行った。その間、昨夜の事を思い出そうとしていた。
友人の麻美とジュリエットのコンサートに行き、大好きな司の歌声を聴いていた。
それが突然止み、爆発音が聞こえたかと思うと、会場は騒然となった。
ステージで司が何か叫んでいた。そしてマイクを放り出すと、一斉に皆が動き出した。
隣の人に押されながら通路へ出る。更に人の波が押し寄せてくる。異様なまでの緊張と不安の空気に包まれて急に圧迫感を覚え、思わずシートの影に座り込んでしまった。
「早く逃げろっ」「火事だ」「急げっ」不穏な空気と足音、そして不快な匂い。
それらに囲まれて突然息苦しくなってしまった。自分の周りだけ空気が無くなっていくようだ。必死で息を吸った。が、辺りが急に静かになったかと思えば、突然灯りも消えてしまった。
更に恐怖を覚え、このまま死んでしまうのではないかと思った。その時、誰かに抱き締められた。
『一人じゃないよ、苦しくないから』
そう優しい声で言われた時、不思議と空気が戻って来たのだ。そして、手を引かれて外に出た。その後バタバタと足音がして大勢に囲まれると、また苦しくなった。その人は自分をどうにかするのではないかと思った。再び恐怖に襲われたのだ。
その後の事はよく覚えていない。その声の人と、もう一人誰かが一緒にいてくれた。
あれは、誰だったのだろう。
「あ・・・」
入って来た人物を見て、由美は目を疑った。というよりは自分はまだ夢でもみているのだろう、そう思った。確か昨日のコンサートで・・・。
「具合はどう?」
薄茶がかった長い前髪の隙間から覗く、大きな切れ長の目で琥珀色をした瞳の人物が、その薄い唇を開いた。昨夜の、その人の声によく似ている。
「昨夜よりは顔色良さそうだね」
彼より背が高く体格もよく、浅黒い肌に黒い瞳と黒く艶やかな髪が印象的なもう一人の人物が言った。
彼と並ぶと、先に口を開いた彼はかなり華奢で色白に映る。
司はベッド脇の椅子に腰掛けると、ニコっと微笑んだ。とても人懐こい笑みだ。
「無事で良かったよ。一時はどうなるかと思ったけど。どう? まだ苦しかったりする? それに、結構、煙も吸っちゃったからね」
まるで昨夜の事故が他人事のように感じさせるように、茶目っ気で話す。
「ったく・・・」
ナオは呆れて溜息をつきながら司の頭をはたくと、笑みを浮かべて由美を見下ろした。
二人を見つめたまま、戸惑っている由美に、「まだ、昨日の今日だもんな、すぐ良くなるワケないか」と、司が言った。
「当り前だ。てめェみたいに単細胞で出来てるワケじゃないから快復が遅くて当然だ」
ナオが鋭く突っ込む。
「お前、晃一みたいな事言うなよ。何だかお前までが晃一の毒牙にやられちゃったんじゃねェだろうな」
思わずムッとして、後ろに立っているナオを睨んだ。
「別に・・・。本当の事を言ったまでだ」
ナオは舌を出した。
司はチッと舌打ちをすると由美の顔色を伺った。何もナオと言い合いをしに来た訳ではない。訊きたい事があって来たのだ。
その時ドアがノックされ、医師と母親が入って来た。二人は振り向くと軽く頭を下げたが、医師が司を見るなり顔色を変え、
「ちょっと、光月さんっ、寝ていなきゃダメじゃないですかっ! まだ、安静にしていて下さいっ。 全く、うちの看護婦は何をやってるんだっ 」
司を叱り付けると、病室を出て行こうとした。
「あ、いいよ、先生。もう、いいから」
慌てて司は医師に言う。もうこれ以上の入院はお断りだ。うんざりした声に医師は近づいた。
「それは、しっかり診てからにします。光生会の雅先生からもなるべく安静にするよう、言われていますから」
どうやら、昨夜病院へ運ばれた時に、秀也が司の主治医の事を話したのだろう。すぐに連絡を取ったと思われる。
まったく、秀也も余計な事をしてくれたもんだ。と、この時ばかりはさすがに秀也を恨んだ。
「あの、どこか悪いんですか?」
ずっと黙ったまま現状を把握しようと状況を見守っていた由美が、恐る恐る口を開いた。
「何でもないよ。ちょっと、発作を起こしただけだから」
言ったまま瞬間、ナオと目を合わせ、何をしにここへ来たのかやっと思い出した。
「昨夜、君、発作起こしてたでしょ。あの事詳しく訊きたくて」
「発作? 」
由美は首を傾げて司を見ると、司は頷く。そしてナオもじっと由美を見ていた。
「え? 光月さん、昨日この方と一緒だったんですか? こちらとしても運ばれて来た時の状況しか分からなくて、今日検査をしてみようとかと思っていたんです。昨日診察した時には・・・」
「特に異常は見られなかった」
医師の言葉を遮るように言うと、司は医師を見上げた。
医師は驚いて司を見つめたが、頷くと、
「狭心症かと思ったんです。それの治療法で行ったんですがね。落ち着いたからいいものの、ただ救急隊によると、悲鳴を上げて怯えていたというものですから、まあ、パニックになって精神状態が混乱していたのでしょう。その事でお母さんにも伺ってみたのですが、今までに心臓の病気はないという事でしたので・・・ 」
自分の専門外の患者なら早く他の医師に預けようというのか、さして体の異常が見られないので、その時の状況を聞いて、早く判断したいというのが彼の狙いなのだろう。
「そう、今まで起こした事ないの?」
由美に向き直る。司に見つめられどうしていいか戸惑ってしまった。
本当にこの人は光月司なのだろうか。でも、まさかこんな所に居る筈がない。しかし、医師は彼の事を光月さん、確かにそう言った。
「司、もうやめよう。彼女困ってるよ。それに昨日の今日じゃまだ話せないだろ」
ナオが心配そうに由美の顔を見ると、窘めるように言った。
思わず由美は体を起こし、司を食い入るように見る。その顔色は徐々に蒼褪めていく。
「はいっ、深呼吸してぇ」
突然、司はおどけるように言うと、息を大きく吸って吐いた。それにつられ、由美も思わず息を大きく吸って吐いた。とたんに固まりかけていた体が解き放たれたように軽くなっていく。
そして、笑みがこぼれた。昨夜、助けてくれたのはやはり司だったのだ。
「ありがとうございました」
ペコリと頭を下げた。
「皆に約束したろ。オレが最後に出るって。約束守れてよかったよ。ちょっと、遅くなっちゃったけど」
メディアでは殆ど見る事のない笑顔はとても優しく無邪気だ。が、急に真剣な眼差しを向ける。
「本当に発作、起こした事ないの?」
もう一度、訊いた。
「どこも悪くないんですよ、由美は。今まで病気だって、そんなにした事もないですし。本当に健康で」
「あんたに訊いているワケじゃない 」
思わず後ろからの母親の声を冷たく遮った。子供を庇う親というものはどうも苦手だ。庇うというよりは横槍を入れてくる。
明日香の時も最初はそうだったのだ。何故、司が説得をして病院に連れて行く事を承諾させねばならなかったのか。
病気はした事がなく健康だ。それだけの理由で他の事は見ようともしない。
表面上だけの彼女しか知ろうともせず、内面では何を考え何を悩んでいるのか、それが例え苦しむ結果となったとしても前向きに相談に乗ろうともしない。むしろ世間や他の家族にさえも隠す事をしたがる。それが、精神病ではないか、という疑いならなおさらだ。
自分で自分の事を客観的に見つめ、自問自答して解決できるのであれば、あんなに苦しくなったりはしない。何かに押し潰されそうになるから、急に呼吸困難という症状が表面に現れてくるのだ。
司と母親の間に険悪という沈黙が流れ始めた。
「司、また後にしよう」
それを破るかのようにナオが口を開いた。話の腰を折られたようで、司は溜息をつくと立ち上がりながら「また、来るよ」と呟くように言った。
由美は何か言いたそうだったが、ナオが「またね」と声を出さずに口だけで由美に伝えると、司を促して外へ出て行った。
扉が閉まると同時に母親は「何なの、あの人達は」と怒ったように扉を睨みつけ、由美に振り返ると心配そうに頬に手を当てた。
「逃げ遅れてしまったんだもの、怖かったのは当然よね。それに煙を吸って苦しかっただけなのに、ねえ、由美ちゃん」
言い聞かせるように言うと、医師に向かった。
「いつまで、入院ですか?」
「ま、検査もしてみる必要がありますので、明日も入院してもらいます。明後日には退院できるでしょう」
そう言いながら由美の手を取り、脈を計る。
と、突然、扉の向方で、ドサっという人の倒れる音と、「司っ、しっかりしろっ」という慌てた声が響き、医師は驚いて廊下に飛び出した。
そこには胸の辺りを押さえてうずくまる司と、それを心配して肩を抱いたナオがいた。
「だから、安静にしてろって言っただろ」
ナオが窘めるように耳元で言う。
「ちょっと、大丈夫ですかっっ!? どこか痛みます? 発作、起きました?! 」
司の脈を取りながら顔を覗き込む。顔を歪め苦しそうにしている司に看護婦も心配そうに寄って来るが、何分、世間を騒がせている人気ロックグループの司とナオだ。思わず見惚れてしまっている。
医師が司の体を起こそうとしたが、その手を払い除け、
「大丈夫だ、から。病室に戻るよ。・・ナオ、頼む」
と、ナオに寄りかかりながら何とか立ち上がる。そして、抱きかかえられるように歩き出した時、その片方の踵を思い切りナオのつま先に押し付けた。
「いてっ」
思わずナオは声を出すと、司を睨みつけた。
「どうかしました?」
医師が訊ねたが、何でもありませんとナオは首を振った。
「後で、点滴、お持ちしますから」
医師は背後から声をかけると、看護婦一人に指示を出し、司の供をさせた。