第四章(四)
「ねえ、お兄ちゃん、司さんって彼女とかいるの?」
部屋に入って来るなり、耳に当てていたヘッドフォンを外して訊いてくる。
「いるわけねぇだろ」
まったく、どいつもこいつも司を初めて見るとこれだ。まぁ、あいつに女らしい格好をしろと言っても無理な話だし、こちらとしても見たくはない。
「ちゃんと教えてもらったのか? 余計な事まで教えてもらったりしてねぇだろうな」
余りにもうっとりとした目をしているので、まさかとは思いつつも訊いてみる。
「うん、教えてもらったよ。分かりやすいし、発音もすごく綺麗なのね。とても高校生には見えないよ。お兄ちゃんより頭良いでしょ 」
カチンと来たが、当たっているだけに言い返せない。情けない事に大学に行っているナオもフランス語を教えてもらっていた。
「まぁ、本場仕込みだからな」
「え?! 本場って、留学?」
「ああ、今まで日本の学校に行った事ないって言ってた」
「う、そぉ・・かっこいい! 顔も美形だし頭もいいし背も高いし、言う事ないねっ。それで彼女がいないなんてもったいない気がするけど、できて欲しくないな。ねぇお兄ちゃん、紹介してぇ」
思い切り呆れて妹を見る。
「はいはい、二学期の成績が上がって高校受かったらね。せっかく、アイツだって夏休み返上してお前の家庭教師引き受けてくれたんだから、それに応えてからにしろよ」
はぁっと、大きな溜息をついて見上げると、明日香は背を向けて部屋を出て行こうとしている。
「ま、アイツはやめとけ。性格わりィし、気性は荒いし・・・それに」
パタン、ドアが閉まった。
「男じゃない」
******
「ナオ、眠れないのか?」
ふぅと煙を窓に向かって吐くと、声のした方に振り向いた。ベッドから晃一が体を起こしてこちらを見ている。
「あ、ごめん。起こした?」
晃一は灯りを一つつけると、自分も脇のテーブルからタバコを取り、一本抜くと火を点け天井に向かって煙を吐いた。
「まぁ、あんな事があった後だからな・・・。俺もさすがにビビったよ。アイツといると災難ばっかし遭うけど、あの中に飛び込んで行った時は本当にダメかと思った。けど、相変わらず無事だったんだよな。秀也なんか本当に顔面蒼白だったよ、可哀そうに」
「 ・・・・・・。 」
「ナオ? ・・・、司なら心配ないよ」
黙って浮かない顔をしているナオに晃一は慰めるように言った。
「ああ、わかってる」
ふっと、苦笑すると再び窓の外へ目をやった。
「あの子の事、気になるのか? お前が連れて行った子・・」
炎の上がる建物から司が助け出した彼女を思い出した。異常なまでに怯えていた。それは当然だが、何故か司はナオを名指しし、預けた。そのまま友人か他のスタッフに預けて救急車に乗せればいい事だったのだが。司の行動はよく読めない。
「何で、お前に預けたんだろうな」
晃一は首を傾げながらタバコを吸った。
救急車に乗り扉が閉じられた時、悲鳴を上げて頭を抱え込んだ。そしてガタガタと痙攣を起こしているのかと思う程震えていた。呼吸も荒い。救急隊員とナオとで必死に彼女の体を押さえつけ酸素マスクをつけさせ落ち着かせようとしていた。
病院に着き治療が終わるまで友人と待っていた。家族への連絡も気が動転していた友人に代わってナオがした。治療が終わり、暫くしてから両親が来ると事情を説明し、友人をタクシーに乗せ、もう一度病室に戻ってみた。
ナオに気付いた両親が頭を下げ、近づいて来た時、思い切って訊いてみた。
「彼女、どこか悪いんですか? 持病とか」
突然の質問に一瞬二人は顔を見合わせる。
「え? いえ、ありませんが」
父親が返事をした。
見ればとても堅実そうな父親だ。母親の方も優しそうなごく普通の母親のようだ。まるで自分の両親を見ているようだった。
「でも、発作、起こしてましたから、気になって」
「発作? きっと、火事で仰天してしまったんでしょう。 ・・・でも、他の人はちゃんと避難できたのに・・・、 まったく迷惑をかけてしまって、申し訳ない。その、助けて下さった方は? 」
「アイツの事なら心配はいりません。いつもの事ですから」
「でも、お礼を・・・ 」
「明日、また伺います。アイツもここに入院してますから」
軽く頭を下げて出て行こうとした。
「あの、お名前を」
立ち止まって振り向き、「神宮寺です」それだけ言うと、病室を出た。
一旦司の所へ寄ったが、まだ眠っていると秀也から聞かされ、そのままホテルへ戻って来たのだった。
あれがパニック障害の症状なのか。初めて見た。突然に底知れぬ恐怖に怯えるような目、ひきつけのような呼吸、震える体。確かに司の起こす発作とは異なるものがある。
確か、うつ病の一種の筈だ。とすれば何か原因がある筈だ。
あの時の明日香は・・・。
思い出し、キュッと唇を噛み締めた。
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「パニック障害?! 何訳わかんない事言ってるんだっ!? お前が明日香をたぶらかすような事をしたからだろっっ!? お前が殺したんだっ」
葬儀から数日経ったある日、司から意外な告白を受けた。
数人の女の子に囲まれると、急に怖くなって訳も分からず怯えてしまうというのだ。そのうち、息が苦しくなって呼吸困難に陥ってしまう。その時必ず思う事が「誰かに殺される」と言う事だった。その都度、司に助けを求めるようになっていた。ライブの後も大抵メンバーと別れ早く帰っていたのは、明日香を自宅へ送り届ける為だった。
休みが明けて、静岡に戻った時も、事ある毎に電話で何度か相談を受けていたというのだ。しかし、司の方も兄が亡くなった事で、そちらの方のショックが大きく、彼女の相談に乗る所ではなくなっていた。そして、明日香が高校に入学して三ヶ月目の出来事だった。司が最期に電話をもらって、三日後に亡くなったのだ。
******
「ナオ、今日はもう寝ろ。眠れなくても横になってろ。疲れてんだから」
晃一の一言で現実に引き戻されたナオは、頷くと、タバコを消してベッドへ入った。
******
「ねぇ、司さんのお兄さんてどんな人だったの?」
「え・・・?」
電話口で突然そんな事を訊かれ、思わず戸惑う。
「あ、ごめんなさい。お兄ちゃんから、亡くなってとてもショックを受けてるって聞いたから。司さんがそこまでショックを受ける人ってどんな人かと思って」
気を遣っているのだろうが、とても無邪気に訊いてくる。
「明日香ちゃんは、・・・ もし、ナオが死んじゃったらどうするの?」
自分の答を出さずに逆に訊いてみる。
「うーん、とりあえず泣く、かな。 一応優しかったし」
「とりあえず、ね」
思わず苦笑した。
「もし、私が死んだらお兄ちゃん泣いてくれるかな?」
「え?」
「司さんみたいにそこまでショックになってくれるかな?」
表情こそ見えないが、急に辛辣な口調だ。
「明日香ちゃん?」
「・・・・・・。」
「どうしたの?また、・・・ 苦しくなっちゃったの?」
「ねえ、司さんは私の事病気だ、って言ってくれたけど、どこも悪くないのよ。ただ・・・、ちょっと苦しくなって、怖くなって・・・」
「明日香ちゃん、心配しなくてもいいよ。直にそれもなくなるから。ね、約束したでしょ。今週の土曜日に一緒に病院へ行くって」
「・・・、そうだけど・・・怖い」
「怖くないよ。信頼のおける先生だし、診てもらって治れば、友達とちゃんと話が出来るようになるんだよ。それにオレも毎日一緒にいてあげる事できないから、早く治して、また一緒に遊ぼうよ」
「うん、・・・ でも・・・」
「それに、前にも言ったけど、これは明日香ちゃん一人で乗り切れるものでもないし、明日香ちゃんだけの問題でもないんだよ。皆でやっていこう、って」
「お兄ちゃんに言ったの? 」
「いや、ナオには言ってないよ。君のお母さんにはそれとなく言ったけど」
「え!? お母さんに言ったの?! 嘘つきっ、誰にも言わないで、って言ったじゃないっ!」
「明日香ちゃん!?」
「司さんなんて、大嫌いっ!!」
そう叫んで、電話が切れた。そして三日後、ナオから電話をもらった。
自殺・・・?
通っていた高校の校舎の屋上から飛び降りたというのだ。
******
ハッと、飛び起きると額に滲んだ汗を拭う。
明日香ちゃん・・・
責められたような気がして、思わず目を閉じた。
そして、ゆっくり目を開けると既に明りが窓から射し込んでいた。
見知らぬ病室だった。
一つ、溜息をついた。
そっか・・・、昨夜のライブの時・・・。
昨夜の出来事とは思えないような遠い過去の日に感じる。むしろ、明日香と電話で話をした事の方が昨日の事のように感じた。
もう、七年も経つのに・・・。
昨夜、由美をホールで抱き締めた時、明日香を強く感じた。彼女の怯えた瞳が一瞬、明日香に責められているような気がしたのだ。
ドアがノックされ、静かに開く。
「司、大丈夫か?」
入ってきたのはナオだった。手には司のバッグが握られている。
「ナオ・・・」
思わず目を逸らせた。まるで、後ろめたい事があるかのように、まともにナオの顔を見る事が出来ない。一瞬、ナオにも責められた気がした。
『お前が殺したんだ』
あの時、確かにそう言われた。事実はどうであれ、助ける事が出来なかったのだ。そう言われても仕方がないし実際、司自身そう思うしかなかった。
「あんまり良くもなさそうだな。ったく、頼むよ。お前がそんなだから、秀也まで倒れるんだぜ」
ナオはバッグを置くと、傍の椅子に腰掛けた。
「え? 秀也が?」
思わず息を呑む。どうやら心労で倒れたというのだ。
倒れたというのは大袈裟かもしれないが、さすがに司があの煙の中に飛び込んで行き、爆発音がしても出て来ず、その後の炎の中から飛び出して来た事には生きた心地がしなかったのだろう。司を待っている間、血の気は失せ、全身震えているようだったというのだ。昨夜も皆の前では気丈に振舞っていたが、部屋へ入るなり軽い目眩を起こして、倒れるように寝てしまったというのだ。
「まったく、お前というヤツはホント、後先考えずに無茶するところあるからこっちが大変だよ。とにかく、晃一が怒ってたぜ。何かある度に秀也に世話になってるくせに勝手すぎるって。もっと、秀也の事考えてやれ、て言うのが伝言」
司は黙ってうなだれ、聞いていた。確かに晃一の言うとおりだ。
「それと、紀伊也からは、秀也の事は心配するな、って」
顔を上げ、ナオを見ると心配するなと、微笑んでいる。
「そういうことだ」
司は俯いて一瞬目を閉じた。紀伊也が秀也を看てくれているのだ。
司にとって紀伊也は何より信頼のおける存在だった。ただ、幼い頃から一緒にいるだけではなかった。主従のような関係ではあるが、孤独に育って来た司にとっては唯一の親友のような存在だった。言葉は少ないがそれだけで何が言いたいかがよく分かる。
昨夜、彼女を紀伊也でなくナオをわざわざ呼んで預けたという事も何か理解してくれているのだろう。心置きなくナオと二人で彼女の身を按じて来いというのが伝わってきた。
「お前と、紀伊也っていう組み合わせも不思議だよな」
「え?」
「性格が違いすぎるからさ。それに大人と子供って感じもするし」
「どういう意味だよっ」
思わずムッとして口を尖らせる。
「そういうところが、お前はガキなんだよ。って晃一が言ってた」
更にふて腐れて口を尖らせる司にナオは笑った。