第四章(ニ)
「司、大丈夫か?」
紀伊也から水を受け取り、それを口に含んでうがいをする。
「サンキュ、少し吸っただけだ。それよりみんなは無事か?」
そして、人でごった返した広場を見渡す。
「ああ、煙で目と喉をやられた奴はいるが、大事には至らないだろう。他の怪我人はナシだ」
「そうか」
それを聞いてホッと胸を撫で下ろした。 よくもまあ、皆落ち着いて避難してくれたものだ、と司は感心しながらスタッフと観客を見渡した。
それにしても透のヤツ・・・。
急に思い出したように腹が立つと透を探した。
あ、いた、あんのヤロー・・・ ん?
見ると、透とナオが女の子一人に何か手こずっているようだ。三人は皆から離れた所にいた。
「どうした?」
司と紀伊也が近づいて行くと、二人は困惑したようにこちらを向いた。
「この子が友達とはぐれたらしいんですよ」
「由美がどこにもいないのよっ。外に出て探したんだけどどこにもいなくてっ」
半分泣きながら訴えている。
「スタッフに指示は出してあったんだろ?」
司は紀伊也に訊くと水を飲んだ。
「ああ、もちろん」
透は二人の会話に、え? と首を傾げた。何の事かよく分からないというようにナオを見上げると、一瞬ナオは呆れたが説明した。
外に出た時に、連れがいた場合必ず確認させる事、避難して来た者を客席毎まとめておく事、そうする事でお互いの無事を確認出来るというものだ。
「なるほど、頭いいっスね」
感心して二人を見ると、司と紀伊也は呆れて溜息をついた。しかし、それでもいないという事は、逃げ遅れたという事になる。
三人は青ざめて顔を見合わせると建物を見つめた。
隣の建物は既に半分が崩れ、火の手が上がっている。自分達が今までいたホールの入口からも煙が出ている。火が回るのも時間の問題だ。
「い・・・た・・・」
ホールの客席の下でうずくまっている彼女が視えた。
何でさっき気が付かなかったんだろうっ?! 自分は最後に出た筈だったのに!?
司は持っていたペットボトルをナオに押し付けるとホールに向かって走り出した。
慌てて紀伊也がそれを追う。
何事かとスタッフは二人を目で追うが、あっという間にその影は小さくなっていく。
「司っ、何する気だ!? まさか、行くつもりなのか!?」
「当り前だっ 」
「ばかっ、今行ったらそれこそ危険だぞ。後は消防に任せろっ」
「任せろったって、奴らいつ来るんだよっ。待ってたら助かるもんも助からねぇだろっ」
「司、やめろ! だったら俺が行くっ」
「ばかっ、てめェに彼女がどこにいるのか視えんのかよっ。それよりお前は外で誘導してくれっ」
「何、言って!?」
「火が回るのは時間の問題だっ。外から見ててくれればどっから出ればいいか分かるだろっ、頼むぞっ」
司は紀伊也を突き飛ばすと、正面の入口からそのまま中へ入って行った。
えっ!!?
全員が正面の入口に釘付けになった。
ホールは既に煙が充満している。先程、咄嗟にタオルを水で濡らして持って来た事を思い出すとそれを口と鼻に当て、正面の重たい扉を開けた。
扉は二重になっていた。もう一つの重たい扉を押し開けると、非常灯だけが妙に光って暗く静かな客席が広がっていた。
そこはまだ、煙が天井から半分にも満たない位で留まっていた。分厚い扉が二重になっていたせいもあるのだろう。司はタオルを口から外すと叫んだ。
「誰か、いるんだろう!? どこにいる?!、どこだっ?!」
「・・・・・・。」
返事はないが微かに気配がする。一番後ろから正面のステージへ左右を見渡しながら歩いて行く。
ひっく・・・。 というひきつけのような人の息遣いが聞こえ、立ち止まるとそちらの方を注意深く見た。すると、シートの下に誰かが頭を抱え、うずくまっている。
「大丈夫か?」
声をかけながら駆け寄り、抱き起こした。暗がりでよく見えないが怯えているのは確かだ。が、司を突き放すと再び頭を抱え、ひきつけを起こしているかのような息をする。
「お前・・・」
司は彼女を見て以前にも思い当たる節があり、ハッと気付くと優しく肩を抱いた。
「もう、大丈夫。心配ないよ。今、君は一人じゃないから心配しないで。さ、皆の所へ戻ろう」
彼女は恐る恐る司を見上げた。
「ね、一人じゃないでしょ。さぁ立って。オレを信じてついて来て。ここから出よう」
ゆっくり立ち上がらせると、抱き寄せて背中を軽く二回叩いた。そして体を離して顔を覗き込むと、
「今のおまじない。これでもう、苦しくないよ」
茶目っ気に微笑むと、彼女は安心したように頷いた。
さ、行こう
と彼女の肩を抱いて通路に出た。が、その時、すぐ近くでバーンッという何かが破裂するような音がした。
まずいな・・・ 火が上がったか!
気が付くと煙で視界がぼやけてきている。隣で彼女が咳き込んだ。司は辺りを見渡し、持ってきたタオルを見つけるとそれをで彼女の口と鼻を覆った。
「これをしっかり当ててろ。外すんじゃないぞ」
言い聞かせると会場の入口を見渡す。
くそっ、火が既に回ってやがんな・・・。
しかし会場の中はやけに静かだ。その時すぐ後ろでまた激しい爆発音が響いた。ビクッとして彼女が司にしがみつく。
「大丈夫、心配するな。必ず助け出してやるから信じろっ」
そう言うと肩を抱く手に力が入った。しかし、さすがの司でも火に囲まれてはどうしようもない。自分一人なら何とかなるが、ましてや彼女が一緒だ。
消防が来るのを待つか・・・。 ふと足元を見ると煙が扉の下に吸い込まれて行く。
ここで、開ければ爆発する・・・。 司は青ざめた。
その間にも会場は煙で満たされていき、いつしか気温も上昇していた。
息を呑んだ拍子に煙を吸う。思わず咳き込みそうになり、それを飲み込むと顔を背けた。
目の前の建物に引火した時、紀伊也は青ざめて息を呑んだ。まだ出て来ないのだ。
遅い・・・、何してるんだ、司?!
立ち尽くす紀伊也を誰かが抱きかかえるように後ろへ下がらせる。見ると、銀色の防火服に身を包んだ消防士達だ。
そして、ホースが建物の左側に隣接する建物に向けられ、水が放たれた。と、その時バーンッと破裂するような音が響き、一気に目の前の建物に火の手が上がり、正面の入口は瞬く間に炎に包まれた。
「司っ!?」
『紀伊也っ、ダメだっ、火に囲まれた。どっか出られそうな所を探してくれっ』
司の声がテレパシーとなって紀伊也に届く。紀伊也は消防士の腕を払い除けると注意深く炎に包まれた入口を探すが見付らない。
『紀伊也っ、早くしろっ。 長くは持たないぞ』
『司、どこにいる?! どこの入口が一番近い?!』
『正面だ』
『なら、そこから出て来い』
『無理だ、ここは開けられない』
『ダメだ、そこしかない。他は遠回りでとても抜けられそうにない。いいか、俺の合図でそこから出ろっ。 俺を信じろっ』
『 ・・・、わかった。 頼むぞ』
司は閉じていた目を開けると彼女の肩から腕を外して、手を握った。
「いいか、合図したら全力で走れ、いいな」
紀伊也はホースを持っていた消防士に駆け寄り、突き飛ばすとホースを奪い取り、正面の入口に向かって水を放った。正面の客席の入口に向かって、勢いよく一直線に水が伸びて行く。
『司っ、今だっ』
紀伊也の声と共に司は彼女の手をぐいっと引っ張り叫んだ。
「行くぞっ、全力で走れっ」
正面の扉を開けた。熱で扉と扉の空間が燃えるように熱い。そして、もう一つの重たい扉を勢いよく開けた。
「うわっ、何だ?!」
いきなり水が勢いよく飛んで来る。一瞬しか見えなかったが、この先に紀伊也がいたような気がした。考えている余裕はない。見れば周りは火の海だ。後方で凄まじい爆発音が聞こえた。ステージのセットに引火したのだろうか。
司は水を正面から受けながらも彼女をかばって引っ張って走った。
驚いた消防士が紀伊也に掴みかかろうとしたが、ホースの放たれた正面の入口から二人の人影が現れると息を呑んでそれを見つめた。
紀伊也は二人が出て来るのを確認するとホースを消防士に突きつけ二人の元に走った。
司は外に出ると尚も走って建物から遠去かろうとしたが、勢い余って、走って来た紀伊也とぶつかって倒れてしまった。
「良かった、無事で」
ほっとすると、ずぶ濡れになった司の肩を叩いた。
「ばっかやろ、無茶苦茶じゃねぇか。見ろ、ずぶ濡れだっ」
肩で息をする司を、まあまあとなだめるように立ち上がらせると、皆が待つ広場へと歩き出す。司は彼女の手を握ったまま紀伊也の後に続いた。
固唾を呑んで待っていた皆は三人がこちらへ歩いて来るのを見ると、歓声に沸いた。メンバーとスタッフが駆け寄り三人を囲む。
が、司は彼等を制すと「ナオいる?」と静かな口調で言い、スタッフから受け取ったタオルを彼女の頭に覆いかぶせ、震える頭を抱き寄せた。
暫くしてナオが先程の女の子と共に司の前に現れると、「ちょい、みんな向こうへ行ってて」と手で追い払った。女の子は「由美!」と自分の友人の無事を確認すると、わっと声を上げて泣き出してしまった。
「ナオ、この子、病院まで頼むわ」
「え?」
「パニック障害、起こしてる」
ナオは一瞬、目を見開いて司を見たが、「わかった」と頷いた。
彼女をナオに引き渡そうとしたが、彼女は司にしがみついて離れようとしない。
「心配するな。ナオなら大丈夫、君の事わかってるから信じてついて行くんだ。オレも後から行くよ」
優しく頭を撫でながら見下ろすと、怯えた目で司を見上げた。が、安心したように頷くと手を離した。
「ナオ、悪いな。オレも後から行くよ。頼む・・な」
顔をしかめながら言うと、彼女の背を押してナオに預けた。
「任せておけ、・・・さ、行こう」
ナオは頷くと彼女の肩に手を回し、止まっていた救急車に乗り込んだ。救急車がサイレンを鳴らし走り去って行くのを見届けると、司は堪えきれなくなって、うっ、と左胸を押さえ膝をついてしまった。
「司っ?!」
「煙を、吸いすぎた・・・くっ・・・」
持病の発作を起こして、そのまま秀也の腕の中で気を失ってしまった。