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序章

序章 1


「ジュリエットは笑ったか?」

そんな問いかけに思わず戸惑った。

「ジュリエット?シェークスピアの?」

「そう、最期の彼女」

一瞬考え込んだ。

「オレは・・・」

言いかけて見上げると、眩しい程に優しい微笑みとぶつかる。

司は目を伏せた。



 序章 2


 夜も更けてきた頃、ニューヨークの街角を一人の少年が血相を変えて走っていた。

みぞれ混じりの雨が降っているというのに、上着も羽織らずただひたすらに走り続けている。

 どれ位走っただろうか、とある高層マンションの入口に着くとガラス張りのドアを押し開けようとしてドンっとぶつかる。

もう一度体当たりするがドンッと音がして開かない。

鍵がかかっている。

物音に慌てたガードマンが駆け寄ると、それが住人であることを確認しドアを開けた。

「お帰り・・・」

彼は言いかけたが、少年はちらっとガードマンを見ただけで急いでエレベーターに乗った。

 はぁはぁと息を切らして壁に寄りかかった。扉が閉まっても動かないことに気付き、慌てて最上階のボタンを押した。

その指先からは水が滴り落ちている。髪からも冷たい水が流れて来る。

胸元に小さなフリルをあしらった白いブラウスは透けて肌にまとわりついていた。

 エレベーターが止まり扉が開くと、少年は足早に奥へと向かう。

部屋の扉の前でズボンのポケットに手を入れ、そこに鍵があるのを確認するとホッとしたように小さな溜息をついて鍵を差込み、扉を開けた。

そして、一旦後ろを振り返り誰もいないのを確認すると、急いで中に入り扉を閉めた。

玄関のドアにもたれ、ふうっと天井に向かって息を吐いた。

 バタンッと大きな音がしたので奥から慌てて、誰かが出てきた。

親子程年の離れた女性だった。

「お帰りなさいませ」

丁寧に頭を下げるその態度から彼女は母親ではなかったようだ。

彼女は少年が上着も着けず、全身びしょ濡れなのに驚いて目を見張った。

それを見て少年は何も言わず、彼女を押しのけて自分の部屋へ飛込むと鍵をかけた。

 余りに唐突な出来事に彼女は動く事が出来ずその場に立尽くしていたが、慌てて少年の後を追いかけようとした時、玄関のドアが開いて立ち止まってしまった。

振り向くと、一人の青年が入って来た。

「あ、お帰りなさいませ」

「やあ、マリー。よく分かったね、僕が帰って来ることを。それにしても外は寒いな。みぞれが降って来たよ。明日は雪になるかな」

そう言うと、コートを脱いでマリーに渡した。ふと下を見ると床が濡れている。

「あれ、びしょ濡れじゃないか。水でもこぼしたの?」

「いえ、それが・・・ 司様がお帰りになったのですが・・・ 」

マリーは心配そうに廊下を目で追った。

一瞬彼はマリーを見たが、マットで靴の裏を拭くと廊下の突当りの部屋へ急いだ。

「司?」

声をかけるが返事がない。

ドアをノックしてみるが応答がない。

ノブを回してみたが鍵がかかっていた。

ふとノブが濡れている事に気付き、下を見ると床はびしょ濡れだった。

「司!」

ドアを叩きながら呼んだ。何度呼んでも返事がない。ノブをガシャガシャ回そうとするが回らない。外からでは鍵が開けられないのだ。

「司っ、開けろ!」

怒鳴っていた。マリーも心配でおろおろするばかりだ。

「亮様、どういたしましょう。旦那様に・・・」

「いい、言わなくていい」

亮は首を横に振った。そしてジャケットの内ポケットから銃を取出す。

「何を!?」

マリーは青ざめて一歩引いた。

「こんな所でこんなものぶっ放したくないが、仕方が無い」

そして下がるように手で合図する。

「でも、騒ぎに」

「大丈夫、消音だから」

そう言うと、短い筒のような物を取出し銃口にはめる。そして、ドアノブの根元に向かって撃った。

鍵が壊れたことを確認すると銃をしまい、ドアを開けた。

 部屋の中は真っ暗だ。 最上階だけあって、窓からは街灯の灯など入って来なかった。

電気を点け、中を見るが司の姿はない。亮が注意深く中を見渡すと、ベッド脇の部屋の隅に膝を抱えてうずくまっているのを見つけた。

「司・・・?」

静かに恐る恐る近づいた。

震えているのか? 

両腕はぎゅっときつく膝を抱えている。

まるで、自分の体を抱えているようだ。

司の周りの床には水溜りが出来ている。膝に押付けた髪からは水が滴り落ちていた。

白いブラウスからは肩が透けて見えた。

亮は屈んでその両肩を触った。

 冷たい

まるで氷の中に手を突っ込んでいるようだ。

「司、しっかりしろ。どうした?」

肩を揺すったが顔を上げようともしない。もっと強く揺さぶるとその反動で顔が上がった。

 !? 

思わず亮は目を見張った。目がうつろだ。息もしているのか分からない。顔色には血の気が失かった。

「司っ!」

何度呼んでもダメだった。まるで生気を失くしたろう人形のようだ。

パシッと平手で頬を打った。だが反応がない。もう一度打った。

「に、兄ちゃん・・・」

ハッとして顔を上げると、目の前の亮に気付いた。

「司、お前どうしたんだ?」

優しく落着いた声だった。

顔に亮の手が触れようとした時、ハッとなって再び顔を伏せた。

「どうした?」

「な、何でもないよ」

顔を膝に埋めたまま首を横に振る。

「何でもない事はないだろう。何があった?」

「 ・・・ 」

「司?」

「ほ、っといてくれ・・・」

その声は明らかに震えている。

亮は司を見ていたが、やがて振向くと入口に立っているマリーに声をかけた。

「タオルとホットショコラを持って来てくれ」

マリーは分かりましたと頷いて去って行った。

マリーが去ったのを確認すると亮は司の耳元で聞いた。

「親父と何かあったのか?」

今夜、司が父と食事をする事になっていたのを亮は知っていた。亮は父が嫌いだったので自分がニューヨークに来ている事は言ってなかった。司もそれは知っていたので敢えて父には黙っていた。マリーにも黙っているように指示していた。

一瞬ビクッとした司だったが、首を横に振った。

「何かあったんだな。また喧嘩か? ・・・ それだけでもなさそうだな。何を言われたんだ?」

亮にしては珍しく少々威圧的な口調に司は顔を上げた。

怯えた目をしていた。まるで鷹に射られた獲物のようだ。

「タ、タランチュラだから・・・ オ、オレは・・・ な、何でもないよっ!」

吐き捨てるように言って首を何度も横に振った。しかし、その内に、はあっ、はあっ、と息が段々荒くなっていく。

「司?!」

肩を揺さ振ると、がくっと膝をついて前のめりになって亮に抱えられた。

亮の胸に熱い息がかかる。

服は濡れて冷たかったが頬に手を当てると、燃えるように熱い。一気に体温が上昇したのだ。

「マリーっ、マリーっ!」

亮は大声で呼んだ。

慌ててタオルを何枚か抱えて走って来る。

「服を着替えさせる。手伝ってくれ」

司を抱きかかえようと体を起こすが、手でね退けられた。司は胸のボタンをしっかり握り締めている。

「何してるんだ、このままだと風邪をひくぞっ、とにかく服を脱げ!」

無理矢理脱がせようと両腕を抑えた。

「やめろーっ」

司は叫んで激しく抵抗していたが、やがて体の力が抜け意識が遠のくとがっくりと亮の腕の中へ崩れていった。

ようやくその場が落着き、ベッドの傍で息の荒い司の寝顔を見ていた亮はふと、窓の外へ目をやった。

みぞれが雪に変わっていた。

 何があったんだ 

亮は考え込んだ。

そして、妹の顔を見つめた。

 もし、普通の女の子として育っていたら今頃はどう過ごしているのだろうか。

 13歳

ちょうど子供から大人の女性へ変化する思春期を迎える頃だ。

おしゃれに興味を持ち始め、憧れの異性を追って恋に芽生える頃なのだろうか。

 可哀そうに・・・こんな家に生まれて来なければ・・・。

 こんな苛酷かこくな運命にしいたげられるなんて・・・!

亮は呪っていた。

 自分が10歳になるまではそれがごく当然の運命だと受入れていたが、司が生まれてからは、ただ光月家を呪っていた。特に父は許せなかった。

亮は事或る毎に反抗していた。ただ忠実に任務をこなすのは他ならぬ妹の為だった。司の負担を軽くするには自分が動けばいい事だった。

 しかし・・・。せめて、司の才能を生かす事が出来れば・・・。

幸いにも、単に教養でしかなかった音楽に対しては特異な才能を見出していた。バイオリンにしろピアノにしろ、各コンクールではモーツアルトの再来とまで言われていたが、それを続ける興味が司にはなかった。

しかし、亮と一緒にギターを弾いたり、歌を作ることには非常に興味を示していた。亮が音楽業界に手を出したのもその為だった。ただ、今は留学しなければならず、東京ーイギリスの往復を繰返していた。

 今回ニューヨークに来たのは、そんな亮の友人がデビューする事になり、デビュー前に司が彼等に作った歌がヒットしたので他にも作って欲しいとの依頼を受け、来週から始まるクリスマス休暇を機に、一緒に日本に帰ろうと司を呼びに寄ったのである。


 翌朝、目を覚ますと外はまだ雪がちらついていた。

司はまだよく眠っている。呼吸の乱れもなく静かだ。

 静かな朝だった。

コンコン

小さくドアがノックされた。

亮が返事をすると音を立てずにマリーがドアを開け、顔を覗かせた。

微かに淹れたてのコーヒーの香りがする。

「おはようございます」

そう亮に向かって言うと、視線をベッドに向けた。

亮は木製で白い布張りの肘掛ソファから立上がると、司の頬に手を当て入口の方へ歩いて行った。

「心配かけたね。熱も昨夜よりは下がっている。今日一日寝ていればもう少し落着くだろう」

それを聞いてマリーは幾分安心したように亮を見た。

「そうですか、良かった。ところで亮様、朝食の用意ができましたが如何いたしましょう」

「そう、ありがとう。そちらへ行くよ」

亮は一度ベッドに目をやって部屋の外に出ると、静かにドアを閉じた。


 亮が出て行った後、急にハッとなったように目を覚ますと体を起こした。

そして、ここが自分の部屋で自分のベッドにいる事を確認すると、ホッとしたように息を吐き、窓の外に目をやった。

 外は明るい灰色をしている。ちらちらと粉雪が舞っていた。

カーテンは開け放しになっている。ベッドの脇には白い布張りのソファがこちらを向いていた。

 そっか、昨夜は兄ちゃんが・・・。

突然、司は何かに襲われたように怖くなり頭を抱えて羽毛布団に顔をうずめた。

 恐怖が蘇った。

初めて経験した恐怖だった。


 ******


 ホテルのレストランで食事をした後、部屋へ連れて行かれた。

そこには他に3人男がいた。二人は黒いスーツを着ていて見覚えがある。父のSP達だ。もう一人はどこかで見た事があった。

 父の仕事の関係か? それとも・・・。

殺気は感じなかったが、本能的に警戒していた。

「まあ、掛けなさい」

父、亮太郎は目の前のソファを勧める。

手に持っていた内側に毛皮をあしらった黒いコートをSPの一人に預けると、言われるままに座った。

亮太郎が二人に下がるよう手で合図をすると、二人は一礼して出て行った。

「タランチュラ、そろそろ見極めの時が来た」

その言い方は親が子に語りかける口調ではなく、支配者が崇拝者に語りかけるようだ。

「不幸にしてお前は女に生まれて来てしまったが、これからはそれも一つの手段として使える時が来るだろう。が、女の血が流れてしまった時にはお前の任務に支障をきたしてしまう」

「女の血? 何言ってるんだ、オレは!」

「お前は男ではない」

「なっ・・・ !?」

「そう、そろそろ時が来る」

亮太郎はそこまで言うと司の下腹部を指した。

「痛みが来るだろう、そして女の血が流れ出す」

「それは・・・!?」

急に恐ろしくなった。

亮太郎にではなく、自分自身の体に恐怖を覚えて身震いしたのだ。

以前、スクールで教わった事がある。女性の体のしくみというものを。

司は生まれた時から男として育てられ教育も受けて来た。だが、女でることに変わりはなかった。

「ど、どうすれば?!」

このままでは自分は生きられない、たとえ能力者と言えどもこれ以上能力者狩りのタランチュラとして生きる事が出来ない。

 もう死ぬしかないのか

咄嗟とっさにそう思った。

「タランチュラ心配することはない。もしその時が来たら、私の所へ来なさい。不安は全て取り除いてあげますよ」

もう一人の男が言ったが、その言葉はまるで氷を体に押し付けられているようだ。

男はそれだけ言うと亮太郎に頷いて立上がり、黙って部屋の外へ出て行った。

司は思わず立上がり亮太郎を見つめた。

「ア、R・・・ オ、オレは一体どうすれば・・・」

すっかり怯え切った司を見て亮太郎は司に近づくと力いっぱい抱締めた。

一瞬、ビクッとしたが金縛りにあったように動けない。息苦しくなって来る。

亮太郎は更に力を込めた。そして耳元で囁くように言った。

「司、お前はタランチュラだ。そして女だ。もうすぐ女になる。男の為に女となるか、お前の為にタランチュラとなるかはお前次第」

そしてブラウスの裾から両手を入れ、背中を這わせる。そのまま片方の手で背中を撫でながらもう片方の手で、腰から腹へそして胸へと這わせて行く。司は余りの恐怖に目を見開いたまま動く事が出来ず、されるがままになっていた。

「男の為に女として生きたいか? 司」

 い、いやだ!

喉が渇ききって声が出ず、代わりに息がれた。亮太郎は更にまさぐり続けた。

冷たい夜の闇が更に司に襲い掛かる。

恐怖が頂点に達した時、その右手首からチェーンが伸びた。

同時に亮太郎は思わず飛び退いた。

司を見ると肩で息をしながら金のブレスレットをはめた右手でブラウスのボタンを外している。三つ外したところで更に息を大きく吸い込んでいる。

余程苦しかったのだろう。が、亮太郎を見つめる眼は恐怖に怯えながらもとてつもなく冷酷だ。

それを見て亮太郎はほくそ笑んだ。

「司」

もう一度抱締めようとしたが、司はその手を払い除け二、三歩後退りをするとそのまま部屋を飛出して行った。

 後はどこをどう走ったのか覚えていない。気が付くと自分の部屋の前にいた。


 ******


 ああっ


司は頭から手を離し自分の体を強く抱締めた。

声にならない叫びが響く。

 亮は何となく不安を感じ、朝食を早めに切り上げて部屋へ戻った。

ドアを開けるとベッドの上で自分の体に腕を回して突っ伏して苦しんでいる司を見つけて愕然となった。

「司!?」

思わず駆け寄ってその体を抱締めた。

 震えていた

小刻みに体を震わして声にならない呻き声を出している。

「どうした、しっかりしろっ!」

そう叫びながら強く抱き締めた。今自分に出来るのはこれくらいしかない。何かにしいたげられているように震える司を更に強く抱き締めていた。

 何かに強く縛られていると感じた司は咄嗟に亮を払いけた。

「司?!」

亮の声だ。

ハッと顔を上げると亮が心配そうに見ているのに気が付いた。

「兄ちゃん・・・ 」

そのとたん、司は自分の体に巻付いていた恐怖の鎖がほどけて行くのを感じた。

「兄ちゃん、居てくれたんだ」

思わず泣きそうになって俯いてしまった。

亮は何も言わず司の頭を抱き寄せた。

亮の胸に頭を預けながら司は完全に鎖から解放されていた。

そしてほっとしたように、亮の胸から離れた。

「ありがと」

その顔にはいつものあどけない笑みがこぼれた。

亮は幾分安心すると、今は何も訊かない方がいいだろうと、見守るような笑みを見せた。

「気分はどうだ?」

「うん、いいよ。何か飲みたいな」

「温かいカフェオレでも飲むか?」

「うん」

「じゃ、待ってろ」

そう言うと立上がり部屋を出て行こうとした。

「あと、マフィンも」

司が亮の背に向かって言うと、振向いてニコッと笑顔で応えた。

ドアが閉じられると、司は窓の外に目をやった。

 兄ちゃんには迷惑かけられない。オレはタランチュラだから。


 一週間程亮は司と過ごす事にした。帰国の話はもう少し落着いてからにしようと思い、そのままにしていた。

あれから二日程して熱は下がったもののずっと微熱を伴い続けている。しかし熱を押してまで昼はスクールへ通い、夕方には一人でどこかへ行き夜更け前に帰宅して来ていた。そして部屋にこもると机に向かい宿題を済ませているようだった。時折音楽が流れていた。

 亮がニューヨークに司を訪ねたのも、一人でどんな生活をしているか知りたくなった為だ。以前、他の国に居た時もやはり何度か訪ねた事がある。

司を訪ねるのは家族の中でも亮だけだった。

 それにしても夕方から何処へ行っているのだろう。塾にでも行っているのだろうか。それにしては疲れて帰って来る。マリーに訊いても知らないと言うだけだろう。使用人の身分では主人の行動を詮索する事は許されないからだ。

 そんな司を見ていて明日、帰国の話をしてみようと思った。

 今日は12月21日、明日、話をして明後日に帰国をすればイブは何とか日本で過ごせそうだ。

友人のクリスマスライブにも間に合う。そう思い、亮はかねてから注文していた物を取りにティファニーの店へ向かった。


 その日、司は何となく気分が悪く朝からベッドを抜け出せないでいた。

昨夜から吐き気のようなものを感じて早目に床に就いたが、気持ち悪くてなかなか寝付けなかった。

時々胃の辺りから少し下へ掛けて締め付けられるような痛みがあった。

まだ風邪が治っていないのかと思っていた。熱も下がり切らないのに無理をしてスクールに行ったからか。そう思うと少し反省したりもした。

何か飲んで落ち着けようと思い、体を起こした。

 ?!

太股ふとももの付け根辺りが湿っぽい。

 あれ?

思わず赤面してしまったが、次の瞬間まさか!? と布団を思い切りまくり上げた。

そして予想通りシーツに赤黒い染みがついているのを発見した時愕然として、息を呑んだ。

 先日の恐怖が一気に襲う。

自分が深く暗い底のない穴へ落ちていくのを感じた。

もがけばもがく程に引きずり込まれるように落ちて行くのだ。

 急に心臓がバクバクと言い出した。息をしようにも上手く吸えない。その内心臓が何かに締め付けられたように痛み出す。

 はぁっはぁっ・・・ だ、誰か助けて・・・!

そう叫んだが声が出ない。

辺りを見渡すと電話があった。ベッドから転がり落ちるように電話に飛びつく。

「も、もしもし・・・き、来て、早く来て!」

そう呻くように言うと電話の向こうで声がした。

「早く来てっ!」

そのまま受話器を放り出すと、うずくまってしまった。

 しばらくしてドカドカと数人の足音が廊下に響き渡り部屋のドアが開かれ、その内の一人が中へ入るとドアが閉じられた。

「司、大丈夫か?」

床にうずくまり胸を押さえている司の肩を優しく抱いた。

司は何とか呼吸を整えると彼の胸にしがみついた。

「親父・・・ 助けて・・・っ!」

亮太郎は司がそうする事を待っていたかのように我が子を見下ろす。

電話を受けた時、既に予測はついていた。全ては計画通りだった。

 ただ、亮に会うまでは。

「もう大丈夫だ、安心しなさい。後は私に任せるんだ。いいな」

そうなだめるように言うと、司は救われた思いで頷いた。

「さあ、行こう」

父に支えられながら司は立上がったが、胸の苦しさによろけて亮太郎に抱きかかえられた。

その時、外で微かに言い争う声がしたかと思うと部屋のドアが勢いよく開き、亮が飛び込んで来た。

 マンションの前に黒いリムジンがある事に不安を感じて急いで来たのだ。更に玄関の前に黒いスーツの男を見かけると驚いて彼等を押し退け入って来たのだ。

亮は一瞬、自分の目を疑った。司が亮太郎の腕の中にいるのだ。

「司っ!?」

ビクッとして振向くと、亮が血相を変えて立っている。

「兄ちゃん・・・」

司は一瞬、亮に助けを求めようかと見たが、ぎゅっと唇を噛み締めると父に強くしがみついた。

「早くっ、早く連れてって!」

そう叫んだ。

亮は一歩踏み出そうとしたが、司の意外な言葉と行動に思わず身を引いてしまった。

亮太郎は何故そこに亮がいるのか驚いたが、とにかく亮から司を引き離さなければならなかった。そして、亮太郎は自分のコートを司の頭から被せると抱きかかえるように歩き出した。

二人が亮の前を無言で通り過ぎた時、亮は父にしがみついた司が微かに震えているのを見た。

 泣いているように思えた。

ドアが閉じられ、亮は一人呆然と司が去って行った方を見つめていた。


 司・・・


ポケットの中の小さな箱を握り締めた。

窓の外は静かな明るい灰色をして、粉雪が舞っていた。


 ********


 三月、暖かな春の陽射しが優しく空気を包んでいる。

地面には柔らかい緑色の芽があちらこちらで顔を出している。

 匂いがした。

これが春の匂いなのだろうか。


 一人の若者が一つの墓の前に立っていた。

手にしていた花束をそっと、墓の前に置く。

26本の白いバラの花束だった。

上着の内ポケットからジョーカーを取出すと、1本抜いて火をつけた。

一服吸って空に向かって煙を吐き、そのまま墓の前に置いた。

「兄ちゃん、行ってくるよ。見ていてくれ」

そう語りかけるように言うと、白い糸を辿って天を仰いだ。


 光月司、苛酷な運命に翻弄ほんろうされながら二十歳になっていた。

「ジュリエットはこれから笑うんだ」

墓の下に眠る亮に応えると、上着の内ポケットからサングラスを取り出して掛けると、背を向け一歩踏み出した。



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