学ランを纏った王子様
ざり、と土を踏みしめる音に合わせて、視界に赤いスニーカーが飛び込んできた。自分とは全然違う大きな足だなぁ、と呑気なことを考えて、痛みから少しでも気を反らそうとする。残念、効果はない。
公園のベンチに腰かけて十数分。いまだ動ける気配はない。ぎゅう、とお腹を両腕で押さえつけて背中を丸めたまま、私は動き出せないでいた。
──お腹が痛い。早く帰りたい。
気休めだけど、身体を丸めていると少しでも身体があたたまる気がした。
「大丈夫ですか?」
低いけれど耳に心地いい声が聞こえた。地面を睨み付けるばかりだった顔を上げる。自分に向けて誰かが声をかけてくれたのはわかった。
「……君は……?」
かろうじて、相手が学ランを着ていることはわかる。
「体調が悪そうなので……救急車とか呼んだ方がいいですか?」
学生くんには連れがいるようで、後ろから「おい、ジン……!」とたしなめるように呼ばれていた。私はジンくんとやらに、なんとか笑顔を作ってみせる。
「ううん、薬飲んだから……じっとしてたら治るはず……」
「でも顔が青通り越して土色ですよ」
「あー……血も足りてないし冷えてるからだと思うよ……生理痛で……」
重大な病気ではない。生理痛である。っていっても日常生活に支障が出ることもあるから月経困難症って言われちゃうのかもしれないけど。
毎月戦うこの痛み、月ごとに痛みに差があるのだ。今月はかなりやばめの痛みらしい。
正直今は動けないが、しばらくすれば飲んだ薬が効いてくるはずだし、カバンに入れてた貼るタイプのカイロでお腹のあたりが暖まって痛みがマシになるはずだ。本当は冷えきっている足にカイロを貼りたいところだが、季節は初夏。連日二十度を越える気温が多い中、カイロを貼ってたら変な目で見られそうだ。
痛みが出る前に飲まないと効きが悪いけど、研修先のホテルのロビーでぐったりしてたら構われるから、気を張らずに腰を落ち着けられそうなところまで必死の思いで避難してきたのだ。
研修で身動き取れなかったし、部屋は男性陣に合わせた空調で寒いしで、無理をした。気力だけで乗り越えたけど、研修を終えて、会社関係の人たちと別れて公園に避難してくるのが精一杯だった。
──はぁぁぁ、つらい。痛い。わけわかんないくらい痛い。
はやく帰ってベッドの中であったかくしてゆっくりしたい。そもそも帰れるのかな。いっそころしてくれ、と思うぐらいの痛みに心が荒みかけている。
体格がいいからたぶん高校生だと思うジンくんは、気まずそうな表情で視線を彷徨わせていた。そうだよね、男子学生くんに生理痛って言う私の方もなんとなく気まずい。
保健体育とかでも習うだろうし、気にしすぎかもしれないと思うけど。でも、目の前の男の子の気まずそうな顔見たら、申し訳ない気持ちになっちゃうよ。
「冷やすとよくないんなら、ここだと涼しいんでよくないんじゃないですか」
「うん……でも、ちょっと、お腹痛すぎて動けなくて」
はは、と笑ってみせたけど、無理して笑っているのはたぶんバレバレなんだろう。ジンくんが眉間に皺を刻んだ。
「駐車場まで辿り着ければ膝掛けとか毛布とか積んでるし、シートにヒーターもあるんだけど。ちょっと痛みが収まるまではおとなしくしてるよ。心配してくれてありがとうね」
内臓を雑巾絞りされているような痛みがどこかへいってくれないことには動けない。いつものことだから、慣れている。
少し人と話しただけで、多少気が紛れて、痛みがマシになった気がする。
というか、弱っている時に優しくされると嬉しくて、それだけで心がちょっとあったかくなったような気がするから。気力を振り絞れば、車までなんとか歩けるんじゃないかと思えてしまうぐらい。いや、まだもうちょっと休まないと無理だけど。
ジンくんは「カオル、荷物頼む」と連れの子に向けて声をかけると、学ランを脱いで私の膝にかけた。
「え? なに?」
戸惑う私に、ジンくんは小さく溜め息を吐く。
「放っとけない」
低く、けれど優しい声でそう言って。
私の座るベンチの前にしゃがみこんで、目線を合わせてくれる。しゃがんでもそのシルエットは大きくてガッチリしていて、つくづく、体格がいいんだなぁと知らされた。
「駐車場ってどこですか」
「え? 郵便局がある通りの裏の、ワッフル屋さんの斜め前あたり」
路地に入った通りのワッフル屋さんなんて男子高校生に目印としてわかってもらえないだろう、と口にしてから気づいた。けど他に説明できそうもなくて困っていると、ジンくんは特に困った様子もなく頷いた。
「あそこか」
頼もしくしっかりと頷かれたと思ったら、背中と膝裏にがっしりとした腕が触れる。
「えっ」
突然のことに固まった私を、まさかの状況が襲う。ジンくんが私を抱え上げたのだ。お姫様抱っこで。
「駐車場まで運びます」
「えええっ?!」
逞しい腕は、私の重さに一切揺らぐ素振りすらないけど。でも。
「お、重いでしょ……?! そんな、あの、下ろして……」
「全然軽いです。俺ラグビー部なので、練習で部員をお姫様抱っこで運んだりするし、うちの部員に比べたら練習にもならないです」
けろりとした表情で、足取りも危なげなく、ジンくんは歩き出す。
練習メニューにあるというのはたぶん本当なんだろう。私は華奢とはいえない体つきだけど、支えてくれる腕はまったく危なげない。体格いいなぁと思っていたけど、背が高いだけじゃなくて身体に厚みがあるんだなと思った。
──うわぁぁぁぁ……!!
内心悲鳴でいっぱいである。お姫様抱っこって、やっぱりちょっと乙女なら夢見ちゃうことも多いと思うんだけど。
私もお姫様抱っこに憧れ続けて二十四年なわけで。
人生でそんな機会は一度もなかったわけで。
それが今、名前も知らない親切なラグビー部員の男子高校生にお姫様抱っこで運ばれてる!
初体験を満喫するどころか、私は固まるしかできず、あわあわしているうちにジンくんは長い足でずんずんと歩を進める。すれ違う人たちが何事かと向けてくる視線が居たたまれなくて、そんな状態でも私を投げ出さずに歩き続けてくれるジンくんがすごくありがたかった。ジンくんの学ランのおかげで足もあったかい。
──すごく、すごく助けられてる。
弱ってる時に優しくされるって、めちゃくちゃ沁みる。
この子、すごくいい人だ。
ほっとして、ちょっと泣きそうになるけど、ここで泣いたら、それこそこの親切なジンくんを困らせてしまう気がして、私は必死で我慢した。
「あ、この車」
声をかけて、ミルクティー色の軽自動車の前で下ろしてもらう。
「あ、あの……お礼を……」
「いや、気にしないでください。お大事に」
それじゃ、とジンくんは来た道を軽やかな駆け足で帰っていく。まるで特別なことでも何でもないように。
追いかける隙もなかった。そもそも体調が万全なので追いかける元気はないんだけど、それを差し引いても動きが軽やかだった。
──爽やかーーー!
すごく優しかった。腕逞しかったし、あったかかった。
──なにこれなにこれ。どきどきする!
久々のときめきだった。学生の頃ならいざ知らず、社会人になり、仕事に追われるうちに鳴らなくなったときめきの鐘が胸の中でリーンゴーンと軽やかな音を立てている。
ぐわっと、頬が熱くなったような気がした。ぺた、と頬に触れる。熱いのかどうかはわからないが「ふへへ…………」変な声が出た。顔がとろける。すごく素敵な体験だった。
──いいなぁ。あんな優しくて格好いい子と付き合えたら幸せだろうな──と考えかけて。
思いきり首を横に振った。ぺちんぺちん、と両頬を軽く叩く。
落ち着こう、私。
どんなにキュンときたとしても、相手は高校生だ。年が離れすぎてて相手にされないし、学生さん相手なんて犯罪だわ。
「でもお礼ぐらいはしてもいいよねぇ……?」
誰にともなく問いかけて、じわり、じわりと胸に広がっていく甘い気持ちに浸る。
枯れた心に、潤いをもらっただけ。
ジンくんにはきっと、他意はない。
それさえ勘違いしなければ、間違いは起こらない。
──だけど、せめて、もう少しだけ。
付き合いたいなんて贅沢言わないから、もらった優しさとときめきの分のお礼がしたかった。
***
シフト勤務の私にとっては休みの日だけど、世間一般では平日だから、会える可能性はあるはず──そう信じて、待つことしばらく。神様は私を見捨てないでくれたらしい。
「あ!」
「あ。どうも」
スマホをさわりつつぼんやりベンチに座っていた私の前を、ジンくんが通りかかってくれたので。思わずベンチから勢いよく立ち上がってしまった。ジンくんも気づいてくれたらしい。
近隣の高校で男子の制服が学ランのところは何校かある。どこの高校かそれ以上絞り込めなかった私は、ジンくんに助けてもらった公園で、同じくらいの時間帯に彼が通ることを願って待ち伏せしていたのだった。
──執着気質の怖い女って思われる? 自分が一番わかってる! 言わないで! お礼渡すだけだもん!
なんとなく気恥ずかしくなりつつ、私は早歩きでジンくんに近寄っていく。今日も一緒にいた連れの子に短く声をかけて、ジンくんも私の方へとゆっくりと距離を詰めてくれる。
「あのっ……、先日はお世話になりました」
「今日は顔色良さそうで、安心しました」
ちょっと親切にしただけなのに待ち伏せしてるなんて怖いな、みたいな反応はなく、今日のジンくんもやっぱり優しい。
きゅーん、と胸が甘くしびれる。
はっ、だめよ、だめだめ、めろめろになってる場合じゃない。ちゃんと大人の対応しないと!
「ラグビー部員さんて言ってたから、スポーツタオルなんだけど。よかったら使ってね」
私は持参したお礼をいそいそと差し出した。
「たいしたことしてないんで、そんな……」
「いやいや、すっごく助かったので! もらってくれると嬉しいです!」
「……そっすか」
差し出した紙袋を受け取ってもらったその瞬間──ジンくんのお腹が鳴った。
ちょっと顔を赤くして、ジンくんは思わずといった様子で、学ランの上からお腹を押さえる。
私は半ば反射的に、かばんの中から恐る恐る簡易な包装をしたマフィンを取り出す。
「あの……自分のおやつ用に持ってたんだけど、よかったら食べる? 甘いもの苦手じゃなければだけど……」
よく知らない社会人の女がごはんに誘ったりしたら怖いし、せめてこれぐらいなら──と行動した後で、聞こえない振りをした方がいいかもしれない、と思い至れなかったことを猛省する。
──あああ、私のばかばか! 恥ずかしい思いをさせちゃったかもしれない、ごめんなさい!
「甘いもの、大好きです!」
ぱあっ、と笑った顔が、めちゃくちゃかわいくて、胸がずきゅーんと撃ち抜かれたみたいな衝撃があった。
「じゃあ、どうぞ」
ちょっと緊張しつつ差し出したマフィンの包みを手際よく外し、ジンくんは躊躇うことなく口に入れた。
「……うまっ!」
びっくりしたような顔で一言こぼして、私が何口にも分けて食べる大きさのマフィンを、三口くらいでぺろりと食べてしまった。
「これ、どこで買ったんですか?!」
大きな背を少しかがめて、ずいっとジンくんが顔を寄せてくる。表情は真剣そのものだ。
「あ、えっと、売り物じゃないんだ。私が作ったやつで」
「えっ……! まじすか……! こんな美味いの絶対売り物だと思った……」
そんな大袈裟な、と照れる気持ちと、ふふふそうでしょう?!と頷きたい気持ちが入り交じる。友達からもお菓子の腕前は誉められて伸びてきた自負があったりする。
スポーツタオルよりも食いつきがいい。美味しそうに食べてくれるのが、見ていて嬉しかった。
「手作りとか気持ち悪くなかったら、また作ってこようか……?」
つい、そんなことを言ってしまった。自分の作ったお菓子を本当に美味しそうに食べてくれる姿が眩しくて、嬉しくて、笑った顔がかわいくて。ああ、私というやつは……。
「いいんですか?!」
ああ、だめぇぇぇ……そんな嬉しそうな顔されたら、君のためならお姉さんいくらでも喜んで作るよ!って言いたくなる! さすがにそんなこと言ったらドン引かれそうだから言わないけど!
内心の混乱を隠しつつ、とりあえず私はこくこくと何度も頷いた。
「やった……!」
嬉しそうな顔で小さくガッツポーズする姿がかわいい。ねぇ、かわいい。私白昼夢とか見てない? これ現実? 大丈夫?
不安になりつつも、社会人として生きてきたうちに鍛えられた表情筋をフル活用して、デレデレの表情ではなく、微笑みくらいのちゃんとした顔を作る。
「うん。美味しそうに食べてくれて嬉しかったから、作り甲斐があるというか、作るのは好きだけど、あんまりたくさん食べれないし助かるっていうか。
あ、でも私、仕事の休みがまちまちで……。君も帰りの時間って部活ある日とない日で違ったりするよね?」
作ってきても、どこに行けば会えるかとかがわからないと無駄足を踏みかねないな、と私は唸る。
「じゃあ、その、RINEとか」
さらりと、ジンくんからSNSの連絡先を尋ねられてしまった。
「あっ、いや、その、いきなり失礼っすよね。嫌だったらすみません」
「嫌じゃないので! 大丈夫です!」
若干食い気味にジンくんの提案に乗ってしまったのは、仕方のないことだと思う。
──ああ。若い子に飢えてるとか思われなかったらいいなぁ……。
そんなことにビクビクしながらも、私とジンくんの交流はスタートしたのだった。