四章 王と女王と王子の策略
王都ユフレイシアは、王国の中央より南にあり、その街は大陸行路の西の果てとして知られている。
地図上では大きな梨の実に似たユフレイシアの国は、北東に大雪原、南東に大陸行路、北西に巨大な港と、そこを含めた西域全土に沃野千里の穀倉地帯を抱える。
建国より五百年。他国に攻め入られることも、他国に攻め入ることもなく、国力を豊かにすることに力を注いでいたエルドラ国は、辺境にあっても尚その豊かさを誇る強大国だった。
エルドラ国の現国王の名をベルジークといい、強大国の主にふさわしく、立派な体躯に豊かな黒ひげが印象的な、実に雄々しい壮年の男だった。若い頃から武芸に秀でたことでも知られ、王家に伝わる宝剣ファルシオンを手にした姿に、恋い焦がれる令嬢も数多くいた。
だがその中であって、決して彼を鑑みることの無かった女性が一人いた。
謁見の間の中央に立ち、悄然と玉座に座った自分を見るその女性は、必死にかき口説いた当時の美貌をそのままに、ただ常に穏やかな笑みを浮かべていたその顔に深い苦悩と疲労を浮かべていた。
謁見の間には、国の重鎮をはじめ、ちょうど挨拶に来ていた大貴族の当主も何人かいたが、みな呆然とした表情で王に相対する美しい貴人を見ている。その頬がわずかに紅潮し、目が陶然とした色を宿すのも仕方がないだろう。
臨席している息子もまた、彼にとっては初めて見る『北の伝説的美女』の美貌に衝撃を受けたようだ。ベルジークも他の者と同様、惚けたようにタザシーナに見惚れるのを止めれはしなかった。
(……タザシーナ……)
昔と変わらない姿のタザシーナに、ベルジークはまるで時が過去に戻ったような錯覚を覚えた。実際には最後に彼女に会ってから二十年以上の時が流れていたが、その顔を見れば昔と同じように心が騒ぐ。
ベルジークは、ともすれば玉座を立って、長年の思い人に手を差し伸べそうになるのを必死で押しとどめなくてはならなかった。ここはかつて懸命に愛を囁いた王宮の庭では無く、また二人きりであるというわけでも無いのだから。
それになにより、決して聞き逃すことのできない事が今、語られたばかりなのだから。
「……魔王が復活したと、そう仰るのだな、公爵」
王家に匹敵するほどの歴史的価値のある公爵家当主。建国から五百年に渡り、王家にすら一目おかれていたフェイリーン家は、その土地の貧しさのせいで貧困を抱えてはいても、なお、代々の王から厚く遇されている。
事情を知らない者が見れば眉をひそめそうな図式だが、全てを知る現国王は、この国で唯一自分の思い通りにしてはならない一家の主を見つめ、声をしぼりだした。
「そして、魔王軍が、あなたの家を破壊し、北の地にかつてのような陣を敷きつつあるのだと」
「御意にございます、陛下」
静かな美声は、かすれたようにか細く、悲哀をにじませた美貌と相まって、臨席した全ての者の心を強く叩いた。
「何ということだ……」
「あの伝説の魔王が……」
「……よりにもよって、こんな時期に……」
ざわめきは義憤に似た色を帯びて強く、熱を帯びたさざ波のように広間に行き渡る。
玉座でそれを感じ取りながら、ベルジークは内心慄然とした思いを抱えていた。その畏れとも言える思いは、魔王に対してではなく、目の前の美しい佳人に対してだが。
「……何故」
喘ぎに近い問いは、他の者にはただの自問のように聞こえただろう。
だが、タザシーナにはわかるはずだった。彼女もまた、自分と同じく『全てを知る者』なのだから。
果たして、翳りを帯びた顔の中で、一瞬だけ目をキラリと光らせながら、タザシーナはベルジークの問いに答えた。
「わかりません。五百年という年月が経ち、今まで何もなかったあの土地で、どうして突然このようなことが起きたのか。ですが……もしかすると王太子殿下にはこの事態がおわかりなのかもしれません。殿下は、わたくしの娘に、すぐに家に帰るよう、ご命令になったようですから」
ぎょっとしたような気配を横に感じて、ベルジークは己の息子を見やった。
王宮でも年頃の令嬢達の間で評判になっている自分の息子は、なるほど、今の女性はこういう容姿に秀でた若者が好きなのか、と納得するほど見栄えがいい。
やや身勝手な所はあるものの、性根もそれほど悪くないと思っていたのだが、タザシーナがこういう言い方をするということは、何やらいろいろ頭の痛いところがあるようだ。
「ファサードよ、そなたが公爵のご令嬢と懇意にしているのは知っておったが、かの令嬢から何か聞いておったのだな? 年の近いおまえにだけ、伝えるようなことを」
ファサードは品のいい貴族的な美貌をしていたが、このときばかりはそれが少し歪んでいた。彼は、父王がはっきりと美しい女公爵の言葉を前提にして確認をとっていることに気づいたのだ。
(……私は、そんなことは言っていない)
ファサードは唇を噛んだ。
自分が言ったのは、そんなことではなかった。
だが、おそらくそれを打ち明けられているはずのシルヴィアーナの母親は、その事情をここで言うつもりは無いらしい。……当然だろう。家を破壊した魔王軍というのが、王太子の言葉を受けて自分たちで作った紛い物だなどと……どうしてこの場で言えるだろうか。
……だが、かといって、こんな風に自分の名を出さなくてもいいではないか。それともこれは、意趣返しだろうか。
(……くそっ)
見たこともないほど美しい女性に感銘を受けつつも、ファサードは先ほどから異様な焦燥感を感じずにはいられなかった。
まさか本当に魔王軍など作り上げ、こんな大事を起こすとは思ってなかった。原因を作ったのは自分だ。自分が発案者だと公にされれば、どういうことになるだろうか? ベルジークは公正なことで知られる王だ。裁かれる時は、公爵だけでなく王太子である自分も裁かれるだろう。
自分の行いに道理が無いことを自覚していた彼は、この時、その未来を思って心底恐怖した。隠さなければならなかった。彼は元凶であり、こうなった以上、彼女等の共犯者なのだ。
「ご令嬢からは……最近……恐ろしい夢を見るのだと。そう伺っておりました。夢の話ですので、確証というのは何もないのですが」
異様に口が渇くのを感じながら、ファサードはようようそう答えた。
聞いたのは「夢の話」だということにしたのは、例え不審に思われても、夢である以上それを確認する手が無いからだ。自分がシルヴィアーナの所にちょくちょく顔を出していたのは誰もが知っているし、そのときの会話を知らない者からすれば、そういう話を聞いていても不思議では無いようにうつる。
表情には出さず、少しばかり苦心して話しをあわせると、なるほどと王は相づちを打ってみせた。その目が、後でよく話を聞くぞと言っているように見えたのは、恐らく錯覚ではないだろう。
(……くそ。なんだってこんな大事になるんだ)
彼としてみれば、ちょっとした嫌がらせに過ぎないことだった。
次期国王という地位にあって、あんなことを言うのがどれがけ悪辣なのかはわかっていた。女性には礼を尽くし、心を砕いて振り向いてもらえるように努力するのは、男として当たり前のことだし、常にそうあるべきだとも思っている。だが、絶対に自分を見ない少女に、せめて一度だけでも振り向いてほしくて卑怯なことを口にした。その結果が、これだ。
自分はまた、振られたのだ。それも、これほどの大事を起こすほどに、きっぱりと。
「……公爵の家は、本当に……」
半ば無意識に問うた彼に、タザシーナは目を伏せて頷く。
「もはや跡形もございません。遠目に見ましても、降り積もった雪で家の残骸すら見えないほどで……」
うめき声をあげたのは、彼だけでは無かった。
いくら貴族としては小規模な屋敷だったとはいえ、ついでにかなり古い屋敷だとはいえ、そこまで木っ端みじんに吹き飛ばすようなことが、普通の人間にできるはずがない。その思いが、集った人々を呻かせたのだ。
「よく……ご無事でしたな、公爵」
深く安堵したような王の声に、一同は同意の意で頷いた。
衝撃的な話に震撼しつつも、無事にこうしてここに立ち、火急の報せをもって来た公爵の生存に、男達は一瞬、本当にホッとした顔になった。
これほどの美女を失うのは、とても我慢がならないとうのが彼らの本音だった。
その一方で、それほどのことがありながら、彼女が無事であることに首を傾げたのも事実である。
王の問いを受けたタザシーナは、わずかに目を伏せ、悲しげな風情のまま答えた。
「これから本格的な冬に入る前に、私達はファーレン家に身を寄せていたのです。あの屋敷は……恥ずかしながらとても歴史のあるものですから、次に大雪が降れば危険があるかもしれないと……そのファーレン家も歴史ある建物ですので、皆で冬をマライユール家で過ごさないかと話していた最中に、あのようなことに……」
怯えの色を含み、か細く悲しげなその声に、王と王子以外の面々は深い感慨を受けたようだった。よく無事でいてくれたと心の底から安堵し、その幸運に敬意を表する彼らを目の端にとどめながら、王はチラリと王子を見、王子は内心ひきつりそうになるのを堪えて王を見、そして悟った。
(……駄目だ。私では勝てない)
先ほどから感じる焦燥感が、紛れもない敗北感だということを彼は認めた。
自分のしたことが、どれほどの大事になろうとしているのか。もはや見当もつかなかったが、それを拡大させるにせよ収束させるにせよ、とても自分ごときの力では行えそうにない。それができるのは目の前にいる、この途方もなく美しい人だけだ。恐ろしいことだが、国の命運すら左右しかねないこの騒ぎを、王でも無く王族ですら無い女性だけが意のままにできるのである。
それがどれほど恐ろしいことであるか、自分以上にわかるはずの父王は、どういうわけか何か奇妙な諦念を瞳に宿して、確認をとるようにして問うたのである。
「公爵。長く北の地にあってかの魔王の封印を見守ってきた貴女が、この事態に心を痛めているのは解る。だが、家屋敷を壊され、あのようなものがいる領地に戻るのは恐ろしくもあり、辛くもあろう。魔王への対策のこともある。儂としては親族ともども王城に招きたいが……如何か」
「陛下のお言葉は大変嬉しゅうございますが、我らは建国王の御代より代々魔王のためにあの地に在りし者。此度のことをいち早く陛下に申し上げんと馳せ参じましたが、我らは己の身に課せられた義務を放棄することはいたしません。かくなる上は、我ら一族に流れる血にかけて、かの魔王の下に赴き、その破壊を最小限にとどめるよう尽力を尽くすのみでございます」
実際の事情を知っている側とすれば、これまたいけしゃあしゃあとよく言えるものだと感心するような奏上だったが、知らない者は別の感心をしたらしい。その身の類い希なる容姿も手伝って、男性陣に崇拝に近い感慨を与えている女性を見やり、国で一番偉いはずの王は嘆息をついた。
(……駄目だ。勝てん)
出会って以来数十年、常に勝てたことのない思い人の相変わらずの姿に、もはや嘆いていいのか感心していいのか懐かしがっていいのか……非常に複雑な思いでベルジークは言った。
「公爵の気持ちはよく分かった」
……見間違いでなければ、一瞬、公爵の目がキラリと光った。
「魔王復活は我が国において最も恐るべき、重大な事だ。万が一かつてのような破壊があるとなれば、全軍をもってしてでもその阻止にあたらねばならん。建国王アレスフィード陛下の御代より魔王封印の秘事を継ぎし公爵家ならば、その対応も知っていよう。汝に我が宝剣を託す。汝の思うように成すがよい」
エルドラ王国の宝剣ファルシオンは、国軍全ての指揮官の証だった。この瞬間、タザシーナは、王によって王の名代に任じられたのだ。
タザシーナは深い決意を秘めた眼差しを王へと向け、凛とした声で答えた。
「御意、謹んで承ります」
※ ※ ※
魔王復活の報は、驚くべき早さで王都中を駆けめぐった。
その動揺は激しく、特に伝承をただ伝え聞くだけだった民草は、得体の知れない恐怖だけを感じ震え上がったが、特に家の中に閉じこもったり恐慌が起こったりということはなかった。
実際の所、彼らの生活にまだ影響は出ていないのだ。田畑が焼き払われたり、恐ろしい魔物の軍が押し寄せてくるのならともかく、今はまだ遠い北の一領地が被害にあっただけである。一時の恐怖こそ味わったものの、民の生活にはほとんど影響は出なかった。……多少、乾物系の食料の買い込みが増えたぐらいで。
むしろ動揺は、戦があれば必ず駆り出される王宮騎士団のほうがひどかった。
魔王ロードリークといえば、五百年も昔に封印された魔王である。
魔力甚大にして剛力と卓越した頭脳をもち、百を超す種類の魔物の群れを統括して北の大地に覇を唱え、周辺諸国を震え上がらせた化け物だ。手を振り下ろすだけで山をも吹き飛ばす雷撃を呼び、広大な土地を凍てつかせ、また、瞬時にして精霊を具現化させて兵と成すとまで伝えられている。とてもではないが、普通の人間に太刀打ちできるような相手ではなかった。
エルドラの民は、子供の頃よりその話を聞かされる。魔王の恐ろしさを伝えるというよりは、それを倒した建国王の偉業を讃える話なのだが、なにしろそこで語られる魔王がこれまた凄まじいため、実際に魔王復活が報じられれば、心躍らせて聞いた英雄譚はとたんに恐ろしい話になってしまった。
上の動揺は下の者にも伝播する。
なかでも、入団したばかりの新米騎士は非常に複雑な心境だった。魔王と聞けば確かに恐ろしいが、英雄を夢見る向こう見ずな若さも彼らにはあり、面と向かって魔王に剣を向けたいと思わなくても、旗頭に立てた英雄の元に集う勇者たらんとするちゃっかり者も多くいたのである。
彼らの視線は、ごく自然に件の魔王と関わりをもつ者、フェリシア地方出身の同僚へと向けられた。彼らの主家であるタザシーナが宝剣を賜ったという噂が流れると、我こそはと勢い込んで英雄軍に志願する者も出、騎士団にいたローザンはその対応に思いもよらない苦心を強いられるハメになったのである。タザシーナと一緒に王宮に来ていた『フェイリーン家の娘』ノイッシュも、同様だった。
「あ。ローザン」
「ノイッシュ」
王城の一角でちょうど鉢合わせた二人は、なんともいえない顔で互いを見やり、どちらともなく嘆息をついた。
「『公爵』からの呼び出し?」
「あぁ」
騎士団の一員としての職務と、周りからの奇妙な威圧感でげっそりしていたローザンは、上官から通達を受けるや否や、脱兎の如く所属する団から抜け出して王城に馳せ参じたのである。
王と母が会っている間、別室で待っていたノイッシュも似たような状況で、これなら『恐ろしさのあまり別宅で養生している娘』と称して家に残っていたほうがよかったと、彼女は少し後悔していた。現在の王宮がどうなっているのか、興味津々で母についてきた自分が恨めしい。
二人は揃ってため息をつき、何も言わずに早足で歩き出す。互いにいろいろ言い合いたいことがあるのだが、万が一それを誰かに聞かれでもすれば、取り返しのつかないことになる。今は黙って歩くしか手はなかった。タザシーナの所でなら、まだ話すこともできるだろうが……
だが、二人が伝言で聞いた部屋に行ったとき、タザシーナはそこにいなかった。かわりに、窓際でどこか手持ちぶさたに立っている若者を見つけた。
どうしてここに、と、二人は同時に思った。咄嗟に言葉も出ない二人の視線の先で、振り返った若者もまた、沈黙を守る。
その、複雑極まりない表情。
ノイッシュが小さく呟いた。
「……王太子殿下」
※ ※ ※
王の執務室には、壁一面を覆う巨大な壁掛があった。
かつて魔王を封じ、この国を築き上げた建国王の伝承を織り込んだものである。その壁掛を眺めていた国王は、背後を振り返った。
優雅な風情でお茶を飲んでいたタザシーナは、卓の上に広げられた地図を熱心に見ている。
「……貴方は本当に変わらないな」
嘆息混じりのその声に、タザシーナは軽く笑う。
「私よりも、むしろ陛下こそお変わりのないご様子」
「……外見だけなら、充分変わったと思うがな」
さらに嘆息をついて、ベルジークはかつてのままの美女に苦笑を向けた。
「それで、どういう算段なんだね?」
一国の王としてというよりも、親しい知人に対するような問いだった。
それを受けたタザシーナも、最も位高き貴人を相手にしているというより、幼なじみを見るような目で笑って答える。
「東南に、乱の兆しが見えました」
「…………」
「最近軍事力の強化に力を入れていることと、東の隣国ガーランドからの物資が不足しはじめたことは、無関係では無いのでしょう。初代国王陛下の懸念の通りの事態と見てよいと思い、行動に移したのですよ」
あっさりと言われた言葉に、王は一層深く嘆息をついた。
今はまだごく一部の者にしか知られていない隣国との不和も、この女性には筒抜けであるらしい。あれほど都から遠く離れた僻地にいるというのにだ。
「全く、かの王の懸念通りだよ。もはやガーランドとの間に戦は避けられん。だが、それは今に生きるこの国の騎士達が望むべき戦だ。過去の者の名で回避できるようなものではない。なのに今更魔王軍などと……そんな茶番が、今の世で通用するわけがなかろう?」
「きっかけを作ったのは、王太子殿下ですが?」
おっとりとした笑みを浮かべ、柔らかな口調で言いながらも、その目は全く笑っていなかった。むしろ厳しいぐらいの眼差しで、国王を見据えている。
「国を、ひいてはそこに暮らす民を守るべき王族の一人でありながら、いたずらに乱を招くような真似をなさるのは如何なものかと。まして魔王軍を作れなどと言われては、とても黙ってはいられません」
すでにそのあたりの事情を洗いざらい話されている王は、弱りきった顔でため息をついた。
「……あれの軽挙については如何様にも詫びよう。だが、貴方ならばこんなことをせずとも、儂に一言言えば全て丸く収まるのだと解っていたはずだ」
王の言葉に、今度はタザシーナがため息をついた。どこか困ったような、半分ぐらいは呆れの入ったため息だった。
「王よ。建国王の御代より、五百年の時が経っているのです。かの王が予見されたように、周辺の国も我が国へ手を伸ばしはじめました。むしろよく五百年も保ったものだと思いますよ。よほど『魔王』が効率よく効果的に自分の恐怖を周囲に植え付けたのでしょうね。……ですが、これ以上はどうあがいても無理です。伝説は伝説でしかなくなり、物語でしかない恐怖は人の心は縛る力を持ち得ません。そしてそれは、我が国の内にあっても同じです」
タザシーナの声に、示唆する所を察して王は口を噤んだ。五百年前の恐怖では、人を縛る力は無い。まさしくその通りだった。周辺国のこの国への忌避感が薄れたように、国内ではフェイリーン家の特殊な存在意義を軽視する見方が増えている。それは王族であっても同じだった。それ故に、今回の事となったのだ。
「……君は私に、国を挙げてこの茶番劇を遂行せよと言うのかね?」
「いいえ。茶番は私達で行います。陛下にはただ、それを傍観する立場をとっていただきたいのです」
「傍観だけ……? 手は出すなと言うことか」
「まさか国を守るべき国軍で、『魔王軍』と戦うわけには参りませんから。まぁ一応、それなりの組織は作っておきます。王国の剣と盾であるべき軍を」
「そうしてそこに、鼻息荒い勇者様ご一行を集めて封じておくというのだな。血気逸った英雄が、魔王軍に単身で戦いを挑まないように」
タザシーナはくすりと笑みをこぼした。一瞬だけ輝いた目を見れば、ベルジークの答えが彼女の意に適うものであったのは明白だ。
王はただただため息をこぼす。
「……君を軍師として宮廷に招けないのが残念だよ」
「私に軍師は務まりませんよ。唯人を率いるのには慣れていませんから」
それはその通りだろう。こんな馬鹿げた計画を実行してしまうような者では、王の軍師など務まらない。タザシーナはクスリと笑った。
「私のモットーは少数精鋭、そして適材適所です。真っ当な戦は、真っ当な方々にお任せいたしますわ」
ここで「君は真っ当じゃないからな」などは言えない。ベルジークは嘆息で皮肉を飲み込んだ。自分とて命は惜しい。
「ところで、陛下」
ふと、タザシーナは表情は変えずに口調だけを変えた。
冷ややかな笑みを浮かべたまま、世間話をするかのように朗らかな声をあげられ、ベルジークは思わず逃げそうになる足を必死に踏ん張った。
わかっている。危険が迫っている。
彼女がこの顔とこの声を出した時は、必ず何かをぶんどられるのだ。
「先ほどの謁見で、私、屋敷が壊れたことを報告いたしましたね?」
自分が壊したとは絶対に言わない。そしてそれは、実際に正しい。
壊したのは彼女の娘だ。
「そして、陛下はその場で、同情を寄せてくださった」
真偽のほどはともかく、とりあえず、表面は。
「ご臨席の方々も、大変同情してくださいました」
「……つまり?」
嫌々ながらも先を促すと、白く美しい手がしなやかに伸びてきて、掌をこちらに向けた。
チョーダイ。
「建築費用、くださいますね?」
「……断定なのか」
「我らが王は、素晴らしい度量の持ち主でございますれば」
にっこりと微笑む素晴らしい美貌に、ベルジークは心の中で涙した。……駄目だ。チクショウ。どうやっても勝てそうにない。
「……善処しよう」
「ありがとうございます」
ニッコリとさらに笑みを深めてから、タザシーナはまたしても顔と口調を変えた。
「……さて。本題が済んだところで、これからのことですが」
「ちょっと待て。君の本題は魔王軍や国のではなく、屋敷の建築費なのか!?」
さすがに声を大きくしたベルジークだったが、魔女の底冷えのする笑みを直視して口を噤んだ。
恐ろしい。もう問えない。
「さて、魔王軍と国のことについてですが……よろしいですね?」
「……ハイ」
「国軍は対ガーランド戦に備えなくてはいけませんから、英雄軍とあわせて増強をしておいてください。万が一ということもありますから。その間、『魔王軍』への対応は我が一族が行います。貢ぎ物の準備をお願いいたします」
「……建築費だけでなく、他のものも貢がせる気か……」
「まぁ、陛下。我らの屋敷の建築費用は、私達がいただく陛下の『思いやり』。貢ぎ物は、魔王軍への貢ぎ物。全くの別物です……そうですよね?」
ベルジークは視線を逸らして押し黙った。追求したい部分は山とある。思いやりとか、色々。
だがつっこめば、きっとまた魂も凍りそうな魔女の笑みを見せることだろう。……見たい気もするが、寿命が縮みそうだから忌避しよう。
冷や汗を流している国王をじっくりと見て、タザシーナは笑みを浮かべた。
「王が用意された貢ぎ物と、我らの力で、『魔王軍』も我が国ではなく隣国へとその破壊の矛先を向けるでしょう。ええ……もったいぶりながら」
この上更にもったいぶられるらしい。どれだけぶんどられるのだろうと思いつつ、ベルジークは深々と嘆息をついて諦めた。……仕方がない。彼女等には逆らえない。
悄然と俯いたベルジークに、わずかにそれと解る笑みを浮かべてタザシーナは言った。
春の日だまりのような微笑では無く、ゾッとするような覇気に満ちた笑みで
「お忘れなきよう。我らは『フェイリーン』の名を冠されし一族。国軍が王国の剣と盾であるように、我らは『王の』剣と盾である者なのです」
※ ※ ※
ため息は、誰が最初についたのかわからないほど、ごく自然に三人の口からこぼれた。
王宮の一室である。
主に遠方から来た貴族が王への謁見待ちで使う部屋の一つで、三人はなんとも複雑な表情で顔を見合わせている。
特に複雑な色が濃いのは王太子だ。
「……陛下には、全て話した」
小さな声に、二人は息を呑む。
「……私も陛下も、ほぼ全容を理解している。故に、虚言は必要ない。……諸侯はコロッと騙されたがな」
何に何を、とは言わない。
言わないからこそ、二人も嘆息をついて頷いた。
「まぁ、普通に考えて……『ありえない』話ですからね」
「……それが『ありえる』ことになってしまっているから、頭が痛いんだがな」
茶番を茶番と知っているのは、彼等の一族と、今日からは王と王子。
国の頂点に立つ者が知ったことで、ある意味未来への恐ろしさが薄れた二人と違い、王太子の恐怖はただひたすら濃かった。
「いったい、これからどうするつもりなんだ」
ファサードの声に、ローザン達はちらりと互いの目を見交わす。
どうと言われても、と嘆息をついたのはローザンだ。
「それはフェイリーン公爵にお尋ねください。我々はそれに従うだけですから。……それよりも、殿下。なんだってシルヴィにあんなこと言ったんですか。どうしていつも懲りないんです?」
ローザンの声が、やや不機嫌な色を帯びているのは仕方のないことだった。目の前にいるこの王子が従姉妹におかしなことを言わなければ、今のこの事態は無かったのである。もっとも、不機嫌の理由はそれだけでは無いが。
言われた方もその自覚はあるのだろう。実に嫌そうな顔をしたが、ローザンを無礼だと叱責はしなかった。
「それはもう言っても仕方ないだろう。だいたい、おまえにそれが解らないってわけでもないだろうが」
王太子の声に、ローザンは微妙な表情で目線を反らせた。むっと口元が尖ったが、むしろそれは図星を指されて気分を害した時の癖だった。
王宮騎士養成学校時代において、シルヴィの周りには常にこの二人がいた。
二年前までは恐ろしく強くおまけに美しい従姉妹もいた。
彼女の傍に行くことは自然に彼らとも近づくことになり、結果的に、三人(当時は四人)は身分の差はあれども非常に見知った間柄になってしまったのである。
互いに、望むと望まざるとに限らず、ではあったが。
「私としましても、殿下が何故、姉にだけああいうことを仰るのかが不思議でなりません。今更言っても詮無きことではございますが、殿下におかれましても、もう少しやりようと言うか……言いようがあったのではありませんか?」
微妙な男二人の反発を感じ取って、ノイッシュはそう声をかけた。
実際、ファサードはシルヴィ以外の女性には実に礼儀正しい紳士だった。
乙女が夢見る王子様そのものの美貌と、王族として叩き込まれた洗練された物腰で、宮廷の内外を問わず羨望者も多い。それなのに、一歳年下の、姉に対するときだけは、いっそ見事はほどその態度ががらりと変わるのである。むしろ好きな相手にだけ意地悪をする子供のようなものだとすれば納得できるのだが、いかんせん他のときとのギャップがすごすぎて、ノイッシュとしては笑っていいやら嘆いていいやら、大いに対応に困るところだった。
「言いようと言うがな。あの女にいったい何をどう言えばいいと言うのだ? いつだって最初から喧嘩腰なのだぞ」
「……殿下も充分にいつも喧嘩腰でいらっしゃいました」
ノイッシュの声に、ローザンも深く頷く。ファサードはむっとしたが、ノイッシュに文句を言いはしなかった。これがシルヴィ相手なら、これでもかというほど嫌味を言うのだが。
「……それよりも、だ。お前達。フェイリーン公爵が全てのことを決め、ただそれに従うだけ的なことをさっき言っていたが、本当にそれでいいと思っているのか?」
王太子に問われ、二人は顔を見合わせた。
ファサードは苛立ちの混じった声を落とす。
「責任逃れをするつもりはないが、こんな事態を起こして、それでいったいどうするつもりでいるんだ? こんな茶番はそれこそ馬鹿げているだろう。……きっかけは私の一言とはいえ、やろうと思えばあの女公爵にはいくらでも私の言葉を撤回させることができたはずだ。お前達にしても、全員が一丸となって止めるぐらいのことはできたんじゃないのか?」
二人はそっと視線を外した。まさかノリノリで協力したとはさすがに言えない。
「なのに、なぜこんなことをした? この事態の収束をいったいどうつけるつもりでいる? ただでさえ、今は東がきな臭いというのに」
「殿下がそれを仰いますか!」
「私だから言うに決まっているだろう!」
思わず声を大きくしたローザンに、ファサードはより大きな声で叫び返した。
「言っておくが、私はあの女性の演技には騙されんぞ!! どれほど美しくとも、あれは魔性のそれだ! 謁見の間であの女性がどれほど巧みに周囲の男共の心を鷲づかみにしたか、お前達にも見せてやりたかったぞ! あっという間にあの馬鹿げた話を周囲に納得させたんだからな!!」
王太子の声はローザンの非難よりも激しく、恐怖と激情を吐き捨てるようだった。その声に含まれている響きに、ノイッシュは思わず目を瞠る。
(……もしかして……殿下って……)
脳裏に、すでにこの世の人では無い王妃の姿が浮かんだ。
王はタザシーナをずっと思っていた。
王妃は政略結婚で嫁いできた他国の王女だった。
かの王妃の目に、タザシーナがどういう風に映っていたのか。それは、王子の言動を見ればよくわかる。
だが、その上で尚、同じ母の娘であるノイッシュにはキツくあたらないのは、姉と違って彼の心を乱す相手では無いからだろう。複雑な心情を察して、ノイッシュは何ともいえない気持ちになった。
「事によっては、今回の騒ぎは王国の存亡にすら関わる。それを成すのは、あの女性だ。王ではく、王族ですらない、ただの一貴族の女当主が、国の命運を左右するんだ。いったい、どんな腹づもりがあるのかと、私でなくとも事情を知る者ならば勘ぐるだろう!?」
「そんな……それは……」
ノイッシュが物思いに耽っている間にも、二人のやりとりは続いている。言葉につまったローザンの横で、ノイッシュは慌てて声をあげた。今は、王子の心境に同情している場合では無かった。
「お言葉ですが、殿下。母が何をしたところで、この国がどうこうなるようなものではありません。たかが一辺境の女貴族に、いったい何ができますか」
ノイッシュの言葉に、けれど王子は首を振ってそれを否定した。
「普通ならそうだろう。だが、あの女性ならやれるぞ。お前達の家系に魔力甚大な者が多くあることは、歴史ある血筋の者なら誰もが知っている。かつて一人の魔導師の力は百人の騎士にも匹敵すると言われていた。魔法使いたるお前達の魔力ならどうだ? 一人あたり千人の騎士に匹敵する戦力と言えなくはないか? あの女性に至っては、おそらく万人とすら言えるだろう。……あの耳環! あの腕環! いったい何個の魔力封じの封環を身につけている!? そしてその力を前にして、魔力を持たない者は為す術がない。ましてあの美貌だ。味方をつくるのも容易かろうよ!」
「「殿下!」」
二人の避難の声に、ファサードは苦い表情になった。
「あの女性に二心無しと誰が言える。王ですらあの女性の言葉に従う節がある。いったい何を目的とし、何のためにこんな茶番を始めたのか。お前達、誰か一人でも詳しく聞いているのか。聞いていないというのなら、よくよく考えてみたほうがいいんじゃないのか」
吐き捨てるような、と言うにはあまりにも苦々しい表情で、王子は続けた。
「この国の騎士として」
と。