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三章 魔王サマの育て方

 夜になると、空は陰鬱な暗雲に覆われ、目を開けていられないほどの猛吹雪になった。

 ちょうど城に入る直前で吹雪きの洗礼を受けたシルヴィとタザシーナは、ものの見事に雪まみれになり、出迎えた親族一同を大いに笑わせた。

 寒い思いをしたのは有難くないことだったが、生家を犠牲にされてふてくされていたらしいメイッシュですら、あんまりな姿の二人に吹き出し、笑いながらタオルを持って来てくれたのは少し嬉しかった。

 由緒ある古い家を破壊したことは、偽魔王軍の面々に少なからず覚悟めいたものを植えつけたようだった。

 いくら老朽化し、取り壊しが決まっていたような屋敷だとはいえ、主家である家が自ら退路を断って行動を起こしたのだ。伯父達の顔に一抹の不安と、強い決意が浮かんだのを彼女はしっかりと見ていた。

(……あれを見越して計画したんだとしたら、我が母ながら恐ろしいわ……)

 おっとりとした外見とは裏腹に、昔から母は人よりも一歩も二歩も先を見て動く人だった。今回のことも、恐らく表に出す以上にいろいろと策略をめぐらせているのだろう。

(……思いきりもいいしね……)

 生まれ育った家を吹き飛ばしたという事実は、思った以上にシルヴィの胸に重くのしかかってきた。夕飯を断り、一人さっさと割り当てられた部屋に引き上げたのも、会話をするのが億劫だったからだ。

(……今更、じたばたしてもしょうがないんだけど……)

 ベッドに横たわったまま何をするでもなく、幾度と無く寝返りをうつ。

 ベッドの横には、何も言わずにバルバトスが手渡してくれたバスケットが置いてあった。中に日持ちのする干し肉やパンが入っているのは、見なくてもわかった。

(……私、もしかして変な顔してたのかしら……)

 ……そうかもしれない。

 雪の中、雷撃を受けて砕け散る屋敷の姿は、今も尚鮮明に瞼の裏に思い浮かべることができる。吹き飛んだ屋根に、舞い上がる雪。耳を劈く轟音が大気を震わし、いくつもの落雷の音で屋敷の崩壊する音はかき消されたかのようだった。

 いや、

(……うぅん……聞いてたわ……)

 砕け散る煉瓦の音、梁や柱の音。雪の中に落ちてかき消されるその瞬間も、全てのこの目で見、この耳で聞いていた。

 最後の一かけまで。

 そうして、彼女の家は消え去ったのだ。いくつもの破壊の跡をその大地に残して、残骸だけを周囲に散らして……

 シルヴィは目を閉じた。

 思い浮かべるたびに鈍く胸を打つ光景には、静かな眼差しでそれを見つめる母の姿もあった。いっそ彫像のように美しく、冴え冴えとした母の姿が──

(……私が、原因を作ったのに……)

 ──偽魔王軍を作るきっかけを持ってきたのに。

(……ずるいわね……母さんのせいにしようとしてる……)

 瞑った目の上で両腕を交錯させて、シルヴィは深く息を吸い込んだ。

 闇がゆるゆると降りてくる。瞼の上にも、心の上にも。

 行き場のない寂寥感を抱えて、シルヴィは一人、急ごしらえのベッドで泣いた。

 ……そして、奇妙な夢を見た。


 ※ ※ ※


 ……雪の深い、綺麗な場所だった。

 完全な円を描いて冴え冴えと輝く月。漆黒の天鵞絨に宝石を散らしたような夜空は、声も出ないほどに美しかった。

 声もなく、風もなく。ただ二人が歩いた足跡だけを刻む雪原は美しく、耳が痛くなるほどの静寂が、目に見えぬ圧迫感となってのしかかってきている。

 目深く被ったフードの下で、男が口を開いた。

「……どうしても、魔王になるつもりですか」

 三十をわずかに過ぎたばかりの、堂々たる体躯の美丈夫だった。

 闊達な笑みが似合うだろう彫りの深い顔は、苦渋と悲哀に歪み、にらみ据えただけで敵も逃げ出す鋭い目は、今にも泣き出しそうな色を湛えている。

 否定を願っての問いだということは、あまりにも明らかだった。だが、前を歩く人は無情にも静かに言い放つ。

「もう決めた」

 淡々と言いきって、はじめて先を歩いていたその人が振り返った。

 漆黒の髪に、紺青と琥珀色の瞳。端正な顔立ちの若者だ。

「誰も納得していません。私だって……!」

「ロードリーク。……もう、決めたんだ」

 声を険しくした男に、若者は強い眼差しを向け、言い放つ。

「エルドラ王国初代国王としての、最初で最後の命令だ。王弟ロードリーク、汝に建国王としてこの国を守り続けることを命ずる。いいな?」

 若者の声に、ロードリークは顔を歪めた。

 絞り出した声は、むしろ掠れた悲鳴に近い。

「……無茶苦茶だ……貴方が初代なのに、私に建国王を名乗らせるなんて……!」

「そうでもない。この案が成功すれば、おまえは希代の名君、俺は希代の魔王として名を残す。魔王がいれば、そうだな……五百年ばかりはこの国も安泰だろう」

「だからといって、どうして兄上が人柱にならないといけないんですか!」

 どう見ても若者よりも年上に見える弟を見上げて、若者は苦笑した。

「王とは、そういうものだろう?」

「!」

 言葉に詰まった弟に、若者は軽く笑う。湖畔にそっと光が挿したような、ひどく静かな笑みだった。

「おまえは誰よりもそれを心に留めておかなくてはならない。王となるんだからな。……だけど、なぁ、ロッド。俺は別に、今までも、これからも、義務だけでずっとこんなことをして生きてきたわけじゃない。俺はいつだって、俺のやりたいようにしてきた。おまえ達を守ることも、戦うことも、国を造ることも……全部だ」

「……死ぬことも、ですか?」

 今にも泣きそうな弟に、若者は少しだけ微笑んだ。

「そうだ。……ロッド、考えてみたことがあるか? おまえは俺より後に生まれたのに、あっという間に大きくなって、今では俺のほうがずっと年下みたいだろう? たぶん、これからも差は開く一方で……きっと俺は、おまえ達や、おまえ達の子供、もしかするとその次の代の子を看取ってもなお、ずっとこのままで生きるんだろう」

「そんな……」

「いいや、恐らく、俺のこの予想は外れていない。強く魔力を有する者には、時折俺のような者が出ると聞く。神代の時代から遙かに遠く、古の血すら絶えて久しい今の世で、魔力や魔法は消え去っていくものに過ぎないのに……」

 軽く笑ってみせた若者の顔には、隠しようのない悲しい影があった。

 誰よりも強く、誰よりも力に満ちた人でありながら、常にどこか寂しげな色を身に宿していたその人の言葉に、ロードリークは愕然として息を呑んだ。

(……まさか……)

「それでは……まさか……まさか……!」

 実弟が何を察したのか、確認せずただ若者は微笑った。

 何の肯定もせずとも、それが疑念への答えなのだと、ロードリークにはわかった。

「俺は自分を犠牲だとは思わない。他の誰がそう思おうともだ。俺達は常に戦い続けるわけにはいかない。周りの国がそれを許さないというのなら、彼らが手出しできない状況を作り出さないといけない。そのためには、俺がこの国の王であっては駄目なんだ」

 史上最強の王。魔導の王にして、剣の王と呼ばれる英雄。

「俺が王として立つことで押さえられるものも確かにあるだろう。だが、おそらくそんなものは百年と保たない。それでは、この国は国として力を溜める前に潰されてしまう。……だからこそ、俺はあの案を実行する。成り立ったばかりのこの国の現状、周辺国の動向、俺自身の力、これからの世の中の流れ……それらを踏まえて、結論を出したんだ。……俺はこの国の礎になる。そしてそれが、おそらく一番、この国を長く生かすはずだ」

「私たちは、どうなるんですか!」

 静かな兄の声に、ロードリークは叫んだ。

 堪えきれなかった涙が溢れて、頬を勢いよく流れていく。

「残される私達は……! あなたを喪って! あなたに……あなたに……ッ<」

 置き去りにされて、という言葉を、けれど今一歩のところでロードリークは飲み込んだ。

 喉が押しつぶされたようにくぐもった音をたて、息ができずにそのまま膝をつく。

 若者は声を押し殺して泣く弟の傍らに引き返すと、その姿を見下ろして小さく呟いた。

「……すまない」

 静かな声に、ロードリークは一層悲しみに胸が押しつぶされていくのを感じた。

 兄は、決して振り返らない。

 行くべき道を決めた後は、決して後を見ない。

 いつだってそうだった。そうやって、断固とした態度で自分達を率いて来てくれたのだ。

 たかが辺境の、小さな部族の集まりだった辺境の民をまとめて、大陸の一角に国を築きあげるほどの力を集めて。

(その果てに……こんな最期を……!)

 何を思うでもなく伸ばした腕が、自分の半分の厚みしかない体を抱きしめていた。

 生まれて三十余年。見るからに頑強な戦士になった自分に比べれば、無双の勇者として知られる兄の体は、いっそ華奢と言っていいほどに細い。けれども、突然の抱擁を受け止めた相手は、そこに立ったまま小揺るぎもしなかった。

 その生来の強力では無い、鍛錬によって身につけた揺るぎない力で、ただ黙って男泣きに泣く大男を受け止めていた。

「……おまえは、俺を憎んでもいい。犠牲というのなら、おまえこそそう言われるに相応しいはずだ。……俺の弟なんかに生まれなければ、こんな重荷を肩代わりさせられることも無かったのにな……」

「だったら……生きてください!」

「それはできない」

 ロードリークの悲鳴に、若者は悲しい笑みを浮かべて小さく首を傾げた。少し困ったようなその表情は、惜しみない愛情を湛えてなお悲しそうだった。

「俺は常に考えていた……どれが一番有効で、どれが一番望ましいのか……。それがやっと見つかった。あらゆる面に置いて……ある一点を除けば、だが……これが一番俺の望む通りの最期になる」

(……何故……)

 何故と、理由を聞かされても尚、声を張り上げて叫びたかった。目の前に立つこの人が、どれだけの長い年月、どれほど苦しい旅を経て、ここに国を築いたか……それは、誰よりも傍にいた自分がよく知っている。誰よりもよくわかっている。

 英雄と呼ばれるに相応しい人だった。どのようなとき、どのような場所で命尽きたとしても、必ず人々に崇拝され、敬愛されて眠ることになるはずだった。

 予想ではなく、確実にそう思える人なのに……!

 なのに。彼が選んだ自らの最期は……


 ※ ※ ※


 彼が選んだ、最期は……

「……自殺……」

 あえて男が飲み込んだ言葉が、するりと口から零れた。

 シルヴィは呆然と天井を見上げたまま、瞬きをする。頬を暖かいものが伝い落ちて、それで自分が泣いているのだということに気づいた。

(……変な、夢……)

 自分の目からこぼれ落ちる涙が、寝る直前のものなのか、それとも夢の中からのものなのか、シルヴィ自身にもわからなかった。

 ひどく生々しい慟哭が、冷えた体にこびりつくようにして蟠っている。男の絶望にも似た悲しみが、今も自分の身の内で泣き声を上げているようだった。

(……本当に、変な夢……)

 夢の中で、男はロードリークと呼ばれていた。見たこともない、立派な体躯の偉丈夫だった。

 そして、彼に兄と呼ばれていた若者……

(……あれ、『魔王』だった……)

 ひどく静かな眼差しに、深い叡智を宿した人。とてもじゃないが、今のお子様の状態の人とは結びつかない。

 だが、あの二人の容姿は、完全に同じだったのだ。

(でも……変よね……。ロードリークって、魔王の名前じゃなかったっけ?)

 ゆっくりと体を横向けにしながら、シルヴィは眉をひそめた。瞬きした拍子に、また一粒、涙がこぼれ落ちる。

 エルドラ王国の建国王に封じられたという件の魔王の名こそ、ロードリークという名前のはずだった。

 周辺国を脅かし、大陸を恐怖のどん底にたたき落とした後、当時無名だった若者に討ち取られ、この地に封印されたという……

 だが、夢の中では何か違っていた。魔王は、まだ魔王では無かった。ロードリークというのは別人の名前だった。そして、男の言っていた言葉。

『魔王になるつもりですか』

(……魔王として名を残し……片方は建国王……)

 次第にぼんやりとしていく夢の残滓を集めて、シルヴィは頭を抱えた。

 夢というのは、目覚めてしまうと内容を忘れるものだ。

 しかし、とても気になる部分が沢山あるのに、気になった部分そのものを片端から忘れていってしまうのは、どうにももどかしかった。そして大変気持ちが悪い。

(あぁもう……)

 イライラと眉間に皺を寄せる。だが、記憶は一層薄れていった。

(まぁ……いいや、どうせ夢だし)

 なんであんな夢見たんだろう、と布団に潜り直しながら、シルヴィは大きく欠伸をした。もはや夢の内容はほとんど朧気だ。ただ、ひどく悲しげな目をしていた『魔王』の姿だけが、脳裏にこびりついている。

(……それにしても、夢の中の『魔王』ってば、えらく大人っぽくて格好よかったな……)

 もしかして願望だろうか、と考え、いやまさか、と一人で苦笑したシルヴィは、次の瞬間、とんでもないことに気づいて跳ね起きた。

「いっけない!」

 思わず声が出た。

 布団を蹴飛ばす勢いで床に降り、バスケットを抱え、カンテラをひっつかんで部屋を飛び出した。

 忘れてた。その魔王が地下にひとりぼっちでいたのだ!

(ごはん! ごはん食べて無いんじゃ! あの子!)

 もはやあの子扱いになっている。

(朝からずっと一人にしちゃったんだわ……あんな、言葉もまともに通じない状態だったのに!)

 正直、母親に生家を壊すと告げられた時からずっと、地下に置いてきた魔王のことを忘れていた。戻ってきたとき城に何の異変も無かったことからして、魔王はシルヴィの言いつけ通りにおとなしく地下で待っていたのだろう。シルヴィが戻ってくるのをずっと。

(どうしよう……!)

 よりにもよって『魔王』にそんなことをしてしまったというよりも、あんな(体こそ大きいが)小さい子供みたいな相手に寂しい思いをさせたんじゃないか、ということのほうが、よほど胸にこたえた。

(あぁ……願わくば、暗闇で泣いてませんように!)

 十七の娘にこんなことを願われる魔王も他にいないだろうが、あの魔王と接したシルヴィにとっては、笑い事にならない切実な願いだった。

 シルヴィが勢いよく足を踏み出す度に、暗闇の中にヒタヒタと音が響く。夜中であるために静まりかえっている城内は、ここが魔王城であることを抜きにしても恐ろしかったが、今のシルヴィにはそんなことを気にしている余裕はなかった。せっぱ詰まった心には、恐怖すら忍びよる隙が無いらしい。

 充分に気をつけ、警戒しながら中庭に飛び出し、片隅にある神殿に素早く潜り込んで、隠し扉へと走り込む。手早く開けて潜り込むと、途端に圧力すら伴う凄まじい魔力が襲ってきた。

(……うわっ……)

 やはり、地上と地下の間には、シルヴィの想像もつかないような強力な結界が張られているらしい。

 これほどの魔力の主を地下に住まわせていても、地上の住人には全く気づかれることが無いのだ。

(やっぱり、魔王の封印と何か関係があるのかしら……でも、なんか夢の中じゃ、魔王自身が自分をどうにかしようとしてなかったっけ……?)

 夢の残り香を引きずりながら、シルヴィは一歩一歩階段を慎重に下りた。焦って歩くあまり、滑って最下層まで尻で滑り落ちることになったのは今朝のことだ。

(……まだお尻の青痣ひいてないんだから……!)

 周囲にバレないよう、治癒魔法で痛みは軽くしたものの、完治にまでは至らなかったのである。ここでまた同じことを繰り返したら、それこそ明日は青いお尻が紫になる。

「復活の魔法をもっと上手く使えたらなぁ……」

 ほとんど半分の威力しか出せない高位治癒魔法を思い出して、シルヴィは嘆息をついた。前を見据えると、動きにあわせて揺れるカンテラの光とは別に、暗闇の向こうに小さな光が見える。

(魔王の部屋だ)

 あの若者が眠っていた部屋を、シルヴィは勝手にそう名付けた。地下室と呼ぶよりは雰囲気でるような気がしたからだ。

(光球の魔法があんなに長く保つなんて、ちょっとびっくりね……。朝からだから、ざっと十二時間以上保ってることになるんだ)

 本来、光球の魔法は長くてもせいぜい三時間ぐらいしか光の強さを保っていられない。ただ周りを照らす光を呼び出すだけの下級魔法だから、母のような腕の立つ魔法使いなら六時間でも十二時間でも光ったままにしておける。だが、未だに魔法のコントロールができないシルヴィの場合、どんなに魔力を込めて造っても四時間が限度だった。

(……この地下に魔力が満ちてるからかな……)

 もしかして、魔王の保つ魔力が周囲の魔法を活性化させているんだろうかと考えたシルヴィは、長い階段を下りきって部屋に入ったとたん、その考えが半分だけ当たっていたことを知った。

 部屋は明るかった。

 そして魔王は泣いてはいなかった。

 王城の大広間より広い巨大な部屋の中で、大小さまざまの光球を無数に創っては天井に放り投げながら、彼はいろんな色に囲まれてちょこんと座っていたのである。



 シルヴィは最初、部屋の中に様々な色が乱舞しているのは、天井に放置された光球(大量)の光が見せる目の錯覚だと思っていた。

 だが、光に目をやられないようにしながら部屋の中を見ても、魔王の周りに何か奇妙な色のモノがいる。中空にもふわふわ飛んでいる。ついでに自分の近くにも、その『何か』がそろそろと近づいてきている。

(…………ナニコレ……)

 シルヴィは、とりあえず音もなく近づいてきたソレをじっくりと見た。

 見たこともない異様なソレに悲鳴をあげずにすんだのは、同じものが魔王の傍にもいたからだ。

 やや青みがかった水の固まりのように見えるソレは、ひどくシュールな人型に見える。顔や手の指といった細かい造形は無く、ただ水飴が伸びて人の形を真似すればこんな感じになるだろうか、という形だった。

 頭のようなところがあり、首のように細い場所と、胴体部分だろう場所がある。たぶん肩らしきところから腕らしきものがひょろりと伸び、胴は腰の部分でちょっとくびれ、あとはそのまま長いスカートでもはいているかのように地面まで伸びている。

 水の化け物だろうかとも思ったが、傍にいても嫌な感じはしなかった。奇妙な異形の形もまた、不思議と綺麗な気すらする。

 いずれにしても、悪いものでは無さそうだ。

(……なんだろう……これ)

 魔王の近くにいるのも、どうやらこれの同型らしい。

 呆然とそれを見つめていたシルヴィに、ソレはついとらしきものを下げる。その仕草はお辞儀のように見えた。

「お嬢様」

 ………喋った!

「……へ?」

 とっさに自分を指さして喉をひきつらせるシルヴィに、それはふわりと動いて跪く。

「王が長らくお待ちです。どうぞお傍に……」

「いや、傍に……って……ていうか、あんた何……?」

 いっそう呆然として呟いたシルヴィに、ソレはただ魔王の傍に行くように促す。だが、シルヴィが魔王の元に行くよりも、彼が気づくほうが早かった。

「ヴィ!」

 なんと、名前まで呼んでいる。だいぶ短縮されているが。

「魔王? え、あなた喋れるの?」

 ひどい言いようだったが、驚いたことにその言葉の意味も通じたらしい。魔王は無邪気に笑って頷いた。

「覚えた」

「覚えた……って……」

 いつどうやって、と呟きかけたシルヴィは、魔王の周りに様々な本が開かれているのを見た。

 絵本、図鑑、辞書、魔導書……その、節操なく選ばれた本の山。

「……これ見て、覚えたの?」

「そう」

「字、読めるの?」

「覚えた」

 そう言って人型のソレを見る魔王に、あぁ、とシルヴィは納得した。この人型は、魔王の教育者であるらしい。

「……これ、自動的に動き出すように創られてたのかな……魔王が起きたとき用に」

 それはあり得ないことでは無いように思えたが、魔王の返答は違っていた。

「? マルドゥークはわたしが創った。ヴィの言ってること理解できなかったから」

「……これを創ったの? あなたが?」

「そう」

 人型の造形物は、どう見ても高位魔法の手による人形に見えた。言葉も満足に理解できなかったのに、どうやってこれほどのものを創り出せたのか……

「言葉だけが魔法を具現させるのではありません。王は血の力によって我らを創りだされました」

 まだ説明が上手ではない魔王にかわって、人型が横からそっと声を添える。シルヴィはあっけにとられて人型を見つめ、呆然と呟いた。

「……まるで人格があるみたい……」

「魔導人形とはそのようなものです。人の血肉によって生まれ、魔力によって維持され、精神を宿して主の手足となるもの。精霊が宿れば、属性に応じた姿を成します」

「ということは……」

 シルヴィは、目の前にいる青い人型を見、天井を飛んでいる橙色の人型を見た。

「あなたが、水の精霊? あそこを飛んでるのは火の精霊なの?」

「左様にございます。他にも、風と土、光と闇の方もおいでになります」

「光の精霊って……めちゃ高位だった気がするんだけど」

 シルヴィは改めて魔王をしげしげと見た。彼は別に何を誇るわけでもなく、シルヴィが何か言ってこないかとじっと待っている。

(もしかして、ずっと一人で勉強してたのかしら……)

 シルヴィがここから出るなと言ったきり、地上に出てしまってからずっと……

「……えらいねぇ……」

 なにか熱いものがこみあげてきて、シルヴィは小さい子を誉めるように魔王を誉めた。嬉しそうに笑った魔王は本当に子供のようで、思わず手を伸ばして頭を撫でてしまう。

「ごめんね、ずっと置いてきぼりしちゃって」

「うん?」

「最初はすぐに帰ってくるつもりだったんだけど……ごめんね……」

 シルヴィが何を謝っているのかわからないらしく、魔王はひどく困ったような顔をしてシルヴィをじっと見つめた。

「ヴィ、『泣いて』た?」

「……え?」

「外に行ったあと、ヴィが変な感じがした。わたしにはそれが何か、わからない。魔導人形が『なげいている』って言った。それもわたしにはわからない。『泣いて』るって言われた。外でさっき泣いてた? 何かあった?」

 なにか、あった?

 ごく普通の問いだというのに、彼が言うとひどく強く胸を打った。

 見た目だけは同じ年に見えるこの魔王が、最初身振り手振りを交えても言葉をなかなか理解できなかったのを知っている。それが、たった十数時間でここまで話せるようになったばかりか、他人を案じて声をかけれるようになったのだ。

 頭が良いというだけでは無いだろう。必死で覚えたのだ。周りに市場のように開かれた本の数々を見てもそれがよくわかる。

「……ちょっと、悲しいことがあっただけなの」

「悲しいこと?」

 ふいに目の前がぼやけてきて、瞬きすると頬に熱いものがこぼれ落ちた。

「うん。……家をね、壊してきたの」

「家を壊すと悲しい?」

「うん。……あのね、家ってね、どんな家でもそこで生まれて暮らす人がいるの。沢山の時間そこで過ごして、いろんな思い出が詰まってる所なの。だから、壊れると悲しい」

「……ヴィ、何か出てる」

 魔王の手が恐る恐る伸びてきて、頬を伝い落ちる涙を触った。

「水出てる」

「涙だよ」

 魔王の表現が可笑しくて、シルヴィはちょっと笑った。

「涙? これ? 目から出るのが涙?」

「そうだよ」

「悲しいと出る?」

「そう」

 魔王はわずかに沈黙したあと、何かを言いかけ、迷うことしばし、なんとも頼りない顔で言った。

「どうすれば止まる?」

 一生懸命案じてくれる魔王に、シルヴィは口元がほころぶのを感じた。

「大丈夫。……時間が経てば、止まるから」

「どれぐらいで止まる?」

 シルヴィはちょっと瞬いた。

「……わからない」

 微笑って言った途端、また涙がこぼれた。泣き顔を隠すように俯くと、かえって堪えていたものがこみ上げてくる気がした。

 家の柱につけた、背比べの跡を覚えている。昔、怖いもののように思えた壁のシミも。今はもう、それはどこにも無い。大雪のたびに集まった、古びた大暖炉の広間も。祖母を看取った一番日当たりのいい南の部屋も……

 ……全部……

「……?」

 ふと暖かいものに包まれて、シルヴィは目を見開いた。目の前いっぱいに、見覚えのある黒い服がある。わずかに上向くと、ちょうど真正面に魔王の首があった。

(……魔王?)

 おずおずといった感じで、魔王がシルヴィを抱きしめていた。その動作はあまりにもぎこちなく、まるで何か壊れ物を扱うような慎重さだ。シルヴィは思わず微苦笑をこぼしかけたが、それはかえって泣き笑いに似た情けないものになった。

(……暖かい)

 中身はともかく、同じ年頃の異性に抱きしめられていることに違いはない。

 だが、ときめきはしなかった。そのかわり、その腕の中を嫌だとも思わなかった。思ったよりもがっしりとしている腕の温もりも、ぎこちないながらも頭を撫でてくれる手も、ひどく温かくて優しい。

(……この魔王が、昔、大陸全土を震撼させたなんて……)

 信じられなかった。

 小さな子供のようになってしまっているからかもしれないが、今はただ、目に見えるもの全てに優しく、幼いほどに真っ直ぐだ。

(……本当はどうなんだろう……。もし、魔王が本当に歴史にあるような『魔王』で、今こうやっているのが、単に起きたばかりで覚醒していないからだとしたら……)

 それは恐ろしいことのように思えた。薄皮一枚隔てた向こうに、得体の知れない闇が蟠っているような、ふいに薄ら寒くなるような恐怖を覚える。

 ずっとこうであってくれればいいのにと、シルヴィは思った。魔王自身にとってそれがいいことなのかどうかは解らない。だが、世界にとってはそのほうがいいことは明白だ。自分にとっても、きっと……

 暖かい魔王の腕の中で、シルヴィは胸の奥に凝り固まっていた喪失感が和らぐのを感じた。優しい魔王の手には、不思議な魔法が宿っているかのようだ。

 ありがとう、と心の中で呟き、顔をあげたシルヴィは、けれど声に出して礼を言うことができなかった。

 魔王はこちらを見ていなかった。魔王の視線の先を追えば、二体の魔導人形がいる。魔王達と同じ格好になった魔導人形は、こうやるのだと手本を示すように魔王に動作を指示していた。

 シルヴィは呆気にとられ、一生懸命真似している魔王の横顔を見る。

 そして、たまらず吹き出した。


 ※ ※ ※


「……準備は万全なのか?」

 薄暗がりの中で、低く響く声がそう問いかけた。

 魔王城の一角、ちょうど中庭の神殿を見下ろす場所にある部屋は、タザシーナとバルバトスの部屋に割り当てられていた。中庭に面した窓際に立ち、神殿を暗がりから眺めながら、タザシーナは微笑んで頷く。

「万全というにはほど遠いですが、それなりに。他方への繋ぎも、当面の行動計画もすでに整えています。あとはただ、私にしかできない、私の戦いをするだけ」

 そう呟き、うっそりと笑む妻の姿に、バルバトスは嘆息をついて肩を落とした。

「時が来た、ということか」

「えぇ。時が経てば、いずれこういった形で綻びがでることを、建国王は予見していらっしゃいました。そして、それを防ぐ術を我が家に伝えられた」

「……それを使うのか」

 バルバトスの静かな声に、タザシーナは微笑う。

「どうでしょう? 一つは使いますが、それ以上を使う気は今のところありません。それに、魔王が眠りについてから五百年余り。ちょうど伝承の通りの時期です。……諸外国の動向も、かつて予測された通りの動きをしています。……まさしく、時期が来た、というところでしょうね」

 そう言って微笑むタザシーナは、春の日差しのごとく柔らかく美しい。だが、その中に潜んでいるものが、決して穏やかで優しいものでは無いことを、バルバトスはよく知っていた。

「……シルヴィには、伝えないのか。あの子ももう、今年で十八になる。伝える時期だと思うが……」

 夫の声に、タザシーナは軽く目を伏せる。口元の浮かぶ笑みは、微笑というより苦笑に近かった。

「本家直系の女子にのみ伝えられる秘話も、継承権も、十八になったと同時に渡されるもの。……ですが、あの子にはもう、その必要すらないでしょう」

「?」

 不審そうな夫に、王家と同じ古さの血統を誇る女公爵は、力に満ちた笑みを浮かべて言った。

「時は満ちたのですよ、バルバトス。五百年の時が。凍った時間は動きだし、過去は現在に蘇り、人は誰もが己の立っている場所を深く鑑みることになるでしょう。……五百年余りにわたる、建国王の望み通りに」

 タザシーナはゆっくりと夫に歩み寄り、その巨体に白い腕をさしのべ、抱きしめた。

「……後のことは頼みます。あなたがいるから、私は私の戦いをすることができる」

「儂にはおまえのような戦い方はできん。だが、おまえの不在ぐらいは守ってみせよう」

 そのか細い体を抱きしめて、バルバトスは言う。

「王の守護者の名の下に」

 タザシーナは微笑った。ひどく美しい、透き通るような笑みだった。

「……英霊の守護者の名の下に」



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