第十四話 モノクロームの終着
「レイズ」
犬子の指先から10,000チップが乾いた音を立ててテーブルに零れ落ちた。
その目は無感動に冷め、向かい合うセレスを一瞥すると退屈そうに壁に飾られた絵画へと向けられる。
「……降りるわ。それブラフじゃないんでしょう? 」
さぁ、と肩を竦める犬子に、セレスはクスクスと笑った。
犬子が大きく張り、セレスが降りる。セレスがセオリー通りに張り、犬子が降りる。二人の勝負が成立するのは稀で、その勝敗結果もほとんど五分。
一進一退のゲームは3時間経ってなお、拮抗状態が続いている。
「怖いわ、その眼。どこまでも見えてるのかしら」
カードを伏せたままディーラーへと投げ、犬子はセレスの眼を見つめる。
銀の揺らめく髪の間から覗くその緋色の瞳は、放られたカードへと向けられていた。
後方から戦況を見守っていたシロクマは、十黒犬子というプレイヤーを分析する。
彼女は読む能力以上に、ブラフの勝負強さが"異常に秀でている"。
ブラフというものは相手の思考を誘導する必要がある。ブラフの理論は単純だ。
勝負に参加せず、慎重なプレイをしていた者が急に強気に攻めてくれば、他のプレイヤーは警戒して勝負を降りやすくなる。それは『慎重』というイメージが先行し、強気のアクションが『強い手札』という結論に繋がるからだ。逆にどんな手でも気軽に勝負してくるプレイヤーが強気に攻めてきても、あまり警戒はされないだろう。
本命のアクションと、前提となる流れ。この2点がうまくかみ合わさって初めて、ブラフは成立する。
彼女はこの細かな誘導操作が異様に細かく複雑で、そして効果的なのだとシロクマは評する。
アクションのタイミング、掛け金のbet額、表情、視線の彷徨わせ方。通常、プレイヤーは自分の癖を見せないように基本姿勢を意図的に固定し、ブラフの餌はチップとゲーム内のアクションで語るものだ。しかし彼女は、全身を用いてリアクションをコントロールしながら誘導している。
体の向き、呼吸や唾液を飲むタイミング、手の置き方、笑い方に至るまで。挙げたものですらきっと一部に過ぎず、シロクマ自身が気付けていないものもあるのだろう。
その物憂げな表情は弱いハンドで挑む不安から来ているのか、強いカードを隠すブラフなのか。ただ"そう見せて"降ろそうとするブラフなのか。
生半可なプレイヤーでは翻弄され、意のままに操られチップ吸い付くされるであろう事は容易に想像がつく。
(恐ろしいプレイヤーが居たものですね……)
感心してしまうのは何度目だろうか。彼女は最高峰のプレイヤーだと、シロクマは改めて認識する。
しかし。相手はあの王女様だ。
これまで多くのプレイヤーと対戦してきた王女様だが、彼女にもまた、唯一無二の強さの秘密がある。
彼女はただ茫然と眺める。全てを見透かすように。
昔、話を聞いた時に彼女はそれを『直感』と表現していた。まるで神のお告げかのように。
だが、当然そんな神秘的なものではない。
彼女の持つ『瞳』。それは一挙手一投足全てを視認し、その微細で膨大な情報を坩堝に入れていると、シロクマは考えている。
虫の知らせなどの第六感は、実は無意識化での未来予測に基づく警鐘であるとする人間の潜在能力説がある。彼女は"それ"を『直感』と言ったのだ。
澄んだ美しい緋色の瞳。その見た目とは裏腹に、そこには人智を超えた、理解の範疇には到底留まらない未来予測の深淵が潜んでいる。
「次のプレイも、あなたは強気に攻めるのかしらね?」
「ええ。カードが強ければ」
目を細め楽しそうに微笑むセレスに、犬子は淡々とした表情で返す。
警備の者達には、それは至って普通の会話に聞こえた。
しかしシロクマに見えたのは、怪物達の踊りのような闘争だった。緋色の目に映る先読みを口にするセレスと、ブラフの伏線を撒く犬子の姿が。
ブラフをイレギュラーに織り交ぜながら的確に誘導を重ねる挑戦者。
数時間のプレイで情報を蓄積し、相手を深く深く読み込んでいく王女。
(随分と面白くなってきました…が、しかし十黒様はいずれは不利に傾いていく運命。さて、どう戦っていくのでしょう)
シロクマは左の口角が不意に上がるのをそっと手で覆い隠し、勝負の行先を見守った。
──────────
"負けが込んできたようだな"
ゲームをしばらく眺めていた獣が、犬子に語り掛けた。
開始から5時間が経った今、均衡していたチップ数には差が生まれ、そして開きつつあった。
トランプで捲れるカードなど確率の問題でしかなく、読み合いの果てにあるのは結局は運でしかないと言う者もいる。
それは事実であり、勝ち負けには当人の実力ではどうにもならない運の波がある。コインが5回連続で裏になる確率は全く低くはない。10回連続で裏になる事だって、稀にはある。カジノのルーレットで赤黒をやってみれば、実感する事が出来るだろう。
(運、かしら……)
しかし、犬子はどこか不自然さを感じていた。
配られる手札。これは良いカードが入る時もあれば、良くない時もある。セレスの手もまた、アクションを観察している分には同様に見える。違和感の正体はここではない。
カードの読み合いはどうか。私の手が読まれる分には、単に彼女の実力だと思う。疑う余地も、意味も一切ない。
残るは……場に並ぶカード。どうにも私にとって都合の良いカードが捲られてこない。運がないと言えばそれまでだが、何十時間、何百時間とやって行き当たるような沼に、たったこれだけのゲーム数で沈むものだろうか。
(何か、試されている?)
私の運がないのか、セレスに運が味方しているのか。或いは、運ではない人為的な要因か。
今日のゲームにあたって、予測はしていた。王女が敗北するという事象は外聞が悪い。増してや相手は囚人だ。最終的には私が負けるように仕組まれていてもおかしくはない。
しかし、私の知っているナナであれば。
彼女は純粋なゲームを楽しむためにイカサマの類は一切許容しない。
恐らく、仕組まれたゲームは行われない。
実際にゲーム開始から暫く観察していたものの、何か仕組まれた形跡も、結果もなかった。
だがそれは私の思い過ごしだったのか?
改めてカードの裏面、形状や厚みを確かめるが、細工は私の知る限りのものはない。あったとしても、もはや私の目では分からないレベルだろう。
カードでないとしたら……。
(ディーラーをしているあのメイド、かしら?)
"ククク、気付くのが遅いぞ『虚ろの黒』。5年の月日ですっかりと爪と牙を失ってしまったようだ"
随分と懐かしい呼び名で、獣は私を嗜める。
"指に伸びる筋が不自然に動いているのが見えるだろう。あの女は作為的にカードを捲っている"
不敵に笑い、獣は答えを告げた。
"プロの技法だ、到底その瞬間は見る事は叶わない。腕利きがどうしてこんな辺鄙な所にいるんだろうな?"
獣の言葉をそのまま鵜呑みにはしない。この目では真偽も付かない事だ。しかし、この雰囲気は知っている。
平静を装う表情に滲んだ、ゲームへの興味ではなく淡々と行動を続ける冷めた顔。
このリバーとかいう女は、確実に何かをしている。
リバーは私の目線に気付いても、何食わぬ顔で淡々とディーラーの手捌きを続ける。
さて、私はどうするべきか。
セレスとのゲームは、このままでは厳しい。まずはこのメイドのイカサマを明かして対等なゲームに持ち込むべきか?
「イカサマはバレない限り、イカサマではない」とは賭場でも暗黙のルールだ。そしてイカサマを指摘する以上、証拠は必須。イカサマを疑う事は、相手とゲームの場を信用しないと明かすハイリスクのアクションとなる。この場で言えば、王女と王国の審査を否定する行為だ。
これを納得させられる物証は、ない。ボロを出すとも思えない。
イカサマを含めて試されている可能性はないか。
セレスの性格から考えにくいが、他がグルの可能性がある。
(メイドのイカサマを炙り出す手段は、今のままでは思いつかない。参ったわね)
「どうかしたの、犬子?」
セレスが不安そうな目をこちらに向け、尋ねる。
流石に鋭い。私の僅かな視線や動作に異常が混じったのだろう。
"せっかくのチャンスだ、言ってしまえばいい"
獣はクツクツと笑った。
この場でその手を取るのは得策ではない。
……しかし他に打つ手がないのもまた事実だ。
「いいえ、何でも。あなたとのゲームが楽しくて夢中になっていたけど、ふと昔の習慣でイカサマがないかを警戒してしまったの」
私はその言葉を口にした。
セレスはスっと表情を変え、目を閉じ無機質に告げた。
「……リバー、シロクマ。無粋な真似がない事を誓いなさい」
シロクマは険しい顔で頷くと、一切のイカサマに関与しない事を誓った。
続いてリバーも、冷ややかな目で私を一瞥すると同様の言葉を口にした。
"動揺の様子も無しか、とんだタヌキもいたものだ。面白い、面白いぞあの女"
獣が面白がっている一方で、私はこれが無意味な失敗に終わった事を悟った。
「犬子、これでいいかしら」
「ええ、ありがとう」
その声は厳しいものだった。セレスは言葉は続ける。
「私はゲームをしているの。楽しい、楽しいゲームを。私は犬子を信じているわ。不運の理由を探している訳では無いと、信じている。でもね、私はイカサマを許さないし、ここには無い。いいかしら?」
証拠も無しにイカサマを疑う等、ご法度もご法度だ。
ゲーム中に水を差され、証拠もない思い付きで自分の用意した者たちのイカサマを疑われたセレスの心中は穏やかなものではないだろう。
"初々しくて、可愛いらしいじゃないか"
耳を立てていた獣は、フッと笑う。
「ええ、分かったわ。もう疑う必要はないわね。ゲームを中断させて悪かったわ」
軽く目を閉じ、大人げなかったと反省する。
もうリバーのイカサマを止める術は無い。きっと、セレスは知らないから。
(せっかくだけど、残念ね。またいつか、フェアなゲームをしましょう)
勝ちを諦めた訳ではない。
だが勝つ見込みのない戦いを続ける気はない。敗北は性に合わないから。
定石を外れ、リスクを取るしかない。
捲るカードを選んでいる。ではカードを操れるのはどの範囲か。
初めに配る手札には関与してこない。私に不利なカードか、セレスに有利なカードが出る。
しかしセレスが違和感に気付かないということは、彼女に有利なカードが出続けているとは考えにくい。
私に不利なカードを選んでいる。
という事は、私のカードと捲るカードを知っている。
シャッフルを含めてカードの並び順を完璧に把握している?
かつて出会ったディーラーに完璧な把握ができる人間を知っているが、これだけの時間はできないはずだ。
カードに細工があって見えている?
しかし彼女の目線を追っても配るカードを見ている様子はない。
ならば私の手札はどうやって見えている?
……後ろの執事と警備の者が通しをしているのか。私がカードを確認する瞬間に覗き見て、それを何らかの合図でリバーに伝える。リバーは場に出すカードを手元でこっそり覗き、私に有利なカードを除いている。
"大筋はそんな所だろうな。もはやどうしようもあるまい"
さぁ、どうすると、獣は問い掛ける。
このスキームに証拠となるものは出てこない。後ろに立つなと言える立場ではないし、片や警備、片や私の手札や戦い方を細かに観察している執事だ。しかも先ほど王女に対してイカサマを行わないと誓いを立てている。
これ以上、イカサマに対してどうこう言う事は許されない。
……。
(チャンスは一回だけね)
私はプレイスタイルを変えた。たった一回のチャンスに向けてチップをコントロールし、消極的なゲーム展開と、雑なブラフを織り交ぜるようにした。
それから1時間。私はチップ数の調整とゲームメイクを終えた。
リバーの手からカードが配られる。
私はそっと手で覆い、カードを寄せた。
おもむろにチップへと手を伸ばし、手元で転がした後にテーブルへと放る。
「良い手でも入った?」
にんまりと笑うセレスは、少し考える素振りをして、勝負の場へと立った。
私は自分のカードを、"知らない"。
チラリと覗くフリをしただけだ。どうせ不利なカードしか出てこないのなら、カードを見せない。
だから私も、見てすらいない。背後から若干の動揺の気配が窺えた。
蒔いた種が、実を結ぶ。
退屈なゲームが続く中で、勝負を仕掛けた私にセレスは何を感じただろうか。
私には何となくわかっていた。セレスもここで勝負に乗ってくると。
(ここで、終わらせる)
まるで本手が入ったかのように、私は振る舞う。セレスはきっと、それがブラフと見破る。
だが、それでいい。
あぁ懐かしい。昔、自分の手札を一切見ずにプレイしたものだ。ブラフのみで勝つ為の訓練として。
その要領だ。
「レイズ」
私は大きくベットを増やす。
さぁ、見えない闇の中で踊りましょう?
チップと一緒に、二人だけの駆け引きで。
「……」
セレスが考えている様子が窺える。
あなたにはブラフに見えているのでしょう。けれどここまで私が大きく出る以上、本手も捨てきれない。
けれどこのチップのスタック差、およそ1:2とあれば。
あなたは好奇心と闘争心を抑えきれずに、カードを見に来る。
「乗りましょう。コール」
あなたは変わらない。好奇心は猫をも殺すと、昔伝えたはずなのだけど。
最後に捲られたカードは、場に変化を与えなかった。
考える素振りをするものの、私に退路はない。
賭けるなら、ここ。
「オールイン」
後方からはどよめきが聞こえた。警備の二人が、何事かを小声で話している。
そして鉄面皮に思えたリバーがほんの少し、顔を強張らせていた。
私はじっとセレスを見つめた。
セレスの眼は見開かれ、場のカードと私を何度も見つめている。
私ならブラフでオールインをそろそろやりかねない、そういうスタンスを作り続けた。ベットするチップ数も、残りチップの総数も、すべてがこの状況を絶妙に肯定している。
コールすれば、ゲームはきっと終わる。
セレスが勝てば私の負け。私が勝ってもチップ数は一変する。
2:1のチップ差があれば、イカサマの不利をもってしてもまだ勝負になる。
さぁ、あとはあなた次第。
「……私も賭けるわ。コール」
目が合うと、彼女は小首を傾げにっこりと目を細めて笑った。
王女と思えない、醜い笑みが口元に浮かんでいた。