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孤独とコーヒー、涙とミルクティー (作 藍々)

 雪菜はこの孤独な男を救いたかった。だから、雪菜は彼を好きになったのだ。

「……ねえ」

 雪菜の言葉に目の前の男子大学生、佐竹はぽつりと呟くように返事をした。

「……なに?」

 その声はひどく疲れて聞こえた。彼は毎日のようにこのカフェで座っているが、果たして彼が何を思ってここに来ているのか、雪菜には分からなかった。もしかしたら何かから逃げるためかもしれないし、ただ暇つぶしのためだけかもしれない。あるいは、誰かに恋焦がれているのか……。

 いずれにせよ、雪菜は彼のことをほとんど何も知らない。彼のことも自分のことも分からないまま、二人はこうして何日も向かい合っている。それが二人にとって自然なことであり、同時に不自然なことでもあった。

「わたし、あなたのことが知りたいの」

 雪菜は前に佐竹に勧められたミルクティーを飲みながら素直に胸の内を口にした。

「俺のこと?どうして……」

 佐竹の表情は戸惑っていた。突然こんなこと言われても困るだろう。でも、聞かずにはいられなかった。

「あなたっていつも悲しそうな顔してるじゃない……?」

 それは佐竹に対してというより、自分自身に向けた言葉だった。自分は今どんな顔をしているんだろう?

「そうかなあ……」

「うん」

「大学ではそれなりに陽気な人柄で通ってるんだけどね」

「……」

 そんなはずないと思ったけど口には出さなかった。彼はきっと周りに合わせて自分を偽ることに慣れてしまっているのだ。

「まあ、もう慣れちゃったよ」

 まるで心を読んだかのように佐竹は言った。そしてまた、寂しげな笑みを浮かべた。

(なんで笑ってるの?)

 雪菜は自分の気持ちをうまく伝えることができなかった。

「じゃあさ、君はどうなんだよ?」

 今度は逆に聞き返された。

「えっ?」

「君だって同じだろ?いつも一人で、なんだか寂しそうだ」

 意外な指摘だった。自分とは無縁と思っていた感情を他人に見抜かれていたなんて。

「そんなことないよ」

 否定したかったけどできなかった。実際、彼の言う通りなのだから。

「本当かい?」

「うん」

「そっか、それならいいんだ」

 佐竹は安心したような笑顔を見せた。

「ごめんなさい」

「別に謝らなくていいさ。誰だって一人になりたい時くらいあるもんな」

「ありがとう……」

「どういたしまして」

 二人の会話はそれきり途切れてしまった。再び沈黙が訪れる。店内を流れるオルゴールの音楽だけがやけに大きく響いていた。しばらくすると、ふいに佐竹がコーヒーのカップを置き、立ち上がって、「そろそろ帰るよ」と言った。

「もう帰っちゃうの?」

「ああ、今日中にレポート書かないといけなくってさ」

「大変だね……」

「まあ、これが学生の辛いところだよ」

 佐竹は苦笑いしながらそう答えた。

「ねえ、わたしも一緒に行ってもいい?」

 思わず口にしていた。彼と一緒にいる時間がもう少し続いて欲しかったからだ。

「だめ……かな」

 佐竹は驚きながらも断ってきた。当然の反応だと思う。だけど……。

「分かった。ごめんね」

「また明日ここで会おう」

 佐竹は微笑んでくれた。

 そして手を振ってくれたので、雪菜も同じようにして返した。本当はもっと話をしたいのに……。


 それから一週間ほど経った。その日も雪菜は同じカフェにいた。あの日から、毎日のようにこの店に通いつめている。仕事を無理やり終わらせ、定時になったらそのまま直行するのだ。もちろん、こんなことをしていたら体力の限界が来ることは目に見えているが、それでも雪菜は足繁く通うようになった。理由は一つしかない。彼にもう一度会いたかったからだ。

「お待たせしました」

 注文したものが届くと、雪菜はすぐに一口飲んだ。ミルクティーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。疲れた身体に染み渡っていくようだった。

「おいしい……」

 自然と呟きが漏れる。佐竹に会うまでは、紅茶なんて滅多に飲むことはなかったのだが、最近はよく頼んでいた。

 しかし、当の佐竹はあの日以来姿を見せていない。あれだけ頻繁に通っていたというのに。

 何かあったんだろうか?急に心配になる。でも、連絡先も知らないし……。不安ばかりが募っていった。結局、その日も彼は現れないまま閉店時間になってしまった。仕方なく店を後にし、重い足を引きずりながら帰路に就く。いつもよりも歩くスピードが落ちているのは気のせいではないはずだ。

「はあ……」

 無意識のうちに溜息が出る。やっぱり、佐竹に会いたい。会って話を聞いてあげたいし、彼の心に寄り添ってあげたいと思う。でも、それができない自分がもどかしくて仕方がなかった。

「どうすればいいんだろ……」

 そんな独り言を口にしてみたところで何も変わらない。分かっていても言わずにはいられなかった。

 翌日も仕事を終え、いつもの店に向かった。しかし、佐竹の姿はなかった。次の日も、また次の日も……、雪菜は通い続けたけれど、ついに佐竹が現れることはなかった。

「どうして……」

 いつの間にか涙が出ていた。視界が滲む。こんなこと初めてだった。

(わたし……)

 今まで恋なんてしたことがなかった。だから、どうしたらいいのか分からなかった。

 佐竹とは何度か言葉を交わしたことはあるけど、お互いのことはほとんど知らない。佐竹の下の名前さえ知らなかった。なのに……。

 どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう? 分からない。自分の気持ちが何なのか。ただ言えるのは、今こうして泣いていることだけは事実だということだけだった。

「うぅ……」

 嗚咽が漏れる。雪菜の目からは大粒の涙が次々と零れ落ちていった。


 それから数日後、雪菜はいつもの店で佐竹のことを待っていた。今日こそはきっと来てくれるはず。そう信じて。でも、その願いは叶わなかった。もう何度ここへ来ただろう。そして何回泣いたことだろう。心が張り裂けてしまいそうな思いだった。

(もうやめなきゃいけないのかもしれない)

 これ以上ここにいたら、きっと自分はおかしくなってしまうだろう。雪菜にはそれが分かるのだ。雪菜は静かに席を立ち、その場を後にした。


 雪菜は休日の朝、まどろみから目が覚めた。またあの頃の夢だ。もう2年も前の出来事だというのに、未だに鮮明に覚えている。それはおそらく、忘れてはいけないことなんだと本能的に悟っているからなんだろうと雪菜は思う。あの日を境に、雪菜はカフェに行くことをやめ、佐竹とも会うことがなくなった。

「ふわぁ……」

 雪菜は大きな欠伸をした。まだ眠気が抜けない。時計を見ると時刻は午前8時を指し示していた。休日にしてはかなり早い起床である。

「雨か……」

 カーテンを開けると外は土砂降りで、窓を打つ音が部屋に響き渡るほどだった。

「ひどいな……」

 空を覆う灰色の雲を見て雪菜は呟いた。

 今日は特に予定もない。このままベッドに横になっていてもいいが、せっかく起きたのだし、たまには外に出ようと決めた。そして、身支度を整え、傘を差しながら家を出た。

 電車に乗り、街へと向かう。車内は混み合っていた。座席は全て埋まっており、立っている乗客も多いようだ。雪菜はつり革に掴まりながら流れていく景色を眺めた。普段あまり外出しないせいか、周りの風景が新鮮に見える。特に目的もなく出てきたわけだが、こういうのも悪くないと雪菜は思った。

 しばらくすると、目的の駅に着いた。雪菜は下車すると、改札を出て、駅前にあるショッピングモールへと向かった。とりあえず本屋に行こうと思い、中へと入っていく。しかし、どの店に入っても目新しいものはなく、雪菜はすぐに飽きてしまった。仕方なく、適当にブラつき、時間を潰すことにする。

 しばらく歩いていると、見慣れたものを見つけた。

「変わらないな……」

 そこは昔よく通っていたカフェだった。2年前と何も変わっていない看板もどこか懐かしさを感じさせた。雪菜は吸い込まれるように店内に入った。

「いらっしゃいませ」

 店員の挨拶が聞こえてくる。

「えっと、ミルクティーください」

「かしこまりました」

 注文を終えると、雪菜は辺りを見渡した。

「やっぱり変わってないな……」

 2年間も経っているというのに、内装はまるで変化がない。メニューも、テーブルも、椅子も……全てがあの頃のままだ。ただ違うところがあるとすれば、目の前にいたあの男子大学生がいないということくらいだろうか。あの日以来、一度も会っていない。

「お待たせしました」

 運ばれてきた紅茶を飲む。温かい液体が喉を通っていく感覚にほっとした。やはりこの店の紅茶が一番美味しいと思う。

「おいしい……」

 自然とその言葉が出た。この味を忘れかけていた自分に気づく。

「はあ……」

 自然と溜息が出てしまう。

「どうかされました?」

 そんな様子を見かねてなのか、店主さんが声をかけてくれた。

「いえ……」

「もし良かったら、私で良ければ相談に乗りますよ?」

「……」

 一瞬迷ったが、結局話すことにした。どうせ暇なのだし、誰かに話せば少しは楽になるかもしれないと思ったからだ。

「実は……昔、ここで会った男性がいるんですけど、それ以来会えてなくて……」

 そう聞くと店主はにわかに驚いたような表情を見せた。

「それって……佐竹さんとおっしゃる方のことですか……?」

「はい……。でも、どうしてそれを……?」

 店主は一度店の裏へ行くとすぐ戻ってきた。そして、手に持っていたものを雪菜の前に差し出した。

「これって……」

「もう1年半ほど前になります。今日のような大雨の日にある男性が『ミルクティーを飲む人がここで出会った男のことを探していたら渡してくれ』と言ってこれを預けていったんですよ」

 それは、一通の便箋だった。

「読んでみていいですか……?」

「もちろんです」

 雪菜は手紙を読んだ。そこには一言こう書かれていた。

『ごめんね。また会おう』

「どうして……」

 思わず涙が溢れ出た。もう二度と彼には会えないと思っていた。なのに、こうして『また会おう』という言葉が残されていた。その事実が嬉しくて仕方がなかった。

「ありがとうございます……」

 雪菜は深々と店長に頭を下げた。

「いえいえ、私はなにもしてませんから」

 そう言って、彼は微笑んだ。

「あの、彼の連絡先とか分かりますか?わたし、どうしても会いたいんです……」

「すみません。分からないのです。」

「そうですよね……」

「でも、きっとまたいつか会えると思いますよ?彼とあなたの出会いはきっと運命だったのかもしれませんから」

 店主は優しく語りかけた。

「はい……」

 雪菜は静かにうなずいた。

 それから会計をした後、もし佐竹がカフェに来たときに連絡してもらえるように連絡先を店長に教えてから雪菜は店を後にした。雨はまだ降り続いていた。


「はぁ……」

 雪菜はベッドの上で仰向けになって天井を眺めていた。

(どうすればいいの…?)

 雪菜はずっと考えていた。あの日から毎日のように彼について考えている。でも、答えなんて出るはずもなかった。だって、雪菜は彼に直接想いを伝えていないのだから。

(ちゃんと伝えていれば何かが変わったのかな……)

 後悔してももう遅い。だけど、考えずにはいられないのだ。

「はぁ……」

 雪菜は再びため息をつく。会えるかもという一筋の希望。そしてそれよりも数百倍辛いもう二度と会えないだろうという絶望が交互に押し寄せてきて雪菜を苦しめた。

「あたしはあなたとまた話せるの……?」

 雪菜は呟いた。しかし、返事はない。当たり前だ。ここには雪菜しかいないのだから。

「なんで……こんなに苦しいの……?」

 雪菜は涙を流しながら呟いた。しかし、答える者はいない。彼女は独りぼっちなのだ。

「どうして……」

 雪菜は嗚咽を漏らしながら泣き続けた。苦しかった。悲しかった。そして何より辛かった。どうしてこんなことになったのか、雪菜には分からなかった。ただ分かることは一つだけあった。

「もう一度だけでいいから会いたいよ……」

 雪菜はそう願わずにはいられなかった。


 次の日も雪菜はいつも通り職場へと向かった。昨日はあれ以降ほとんど眠れなかったが、なんとか気力を振り絞って出勤した。だが、やはり仕事に身が入らない。集中しようとしてもできないのだ。ただ時間だけが過ぎていく。

 夕方になり、雪菜は帰り支度を始めた。まだやるべきことがあるような気がしたが、これ以上は無理だと思った。雪菜は上司に話し、早めに帰らせてもらうことにした。

「お疲れ様です……」

 挨拶をして会社を出る。外は夕焼けの赤に染まっていた。

(はあ……)

 心の中で溜息を吐く。本当に気分が落ち込んでいる。このままではいけないとは思うのだが、どうすることもできなかった。

「ん……?」

 その時唐突に雪菜の携帯が鳴った。メールではなく電話だった。画面を見ると非通知と表示されている。普段なら無視するはずだが、何故かこの時は出ないといけないような気がして、通話ボタンを押してしまった。

「もしもし……」

「久しぶり……元気にしてた?」

 その声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。この声を忘れるわけがない。忘れることなどできるはずもない。

「あなた……まさか佐竹君……?」

「うん、そうだよ」

「嘘……」

 信じられなかった。でも、間違いなく彼の声だった。

「カフェの店長から連絡先教えてもらってさ。今日はもう帰るけどまた昔みたいにカフェで適当なこと話そうよ」

「……うん!」

 雪菜はうなずいた。

「じゃあ、またね」

 そう言って彼は電話を切った。

 雪菜は息を大きく吐き出す。心臓の鼓動がうるさいくらいに響いていた。そしてカフェに行かなければという気持ちが強く湧き上がってきた。

「行こう……」

 雪菜は急いで駅に向かった。電車に乗り込むとすぐに目的地へ向かう。車内は帰宅ラッシュの時間より早いこともあり空いていた。雪菜は電車の速度さえ遅く感じてしまうほどに焦れていた。早く、早くと急かす思いが募っていく。そして、ようやく目的の場所に着いた。

 息を整える時間も惜しくドアを開ける。

 そこに、佐竹の姿はなかった。しかし、いつも雪菜、そして佐竹が座っていた席にはーー

「本当に来てたんだ……」

 空のコーヒーカップと手が付けられていないミルクティーのグラスが仲良く並んでいた。


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