蝉 (作tamagoyaki)
「ただいま。」
父親が家に帰ってきた。沈黙が流れ、いつものように重苦しい空気が漂う。
最初はいつまで耐えられるのかと思っていたが、いつの間にか慣れてしまったようで、僕は人間の適用能力の高さに感心した。父親の名前は前田和也で、母親は前田愛。僕の名前は守という。もちろん苗字は前田だ。僕の家族はとっくに破綻していた。父親は所謂、モラハラ夫というやつで、母親はいつごろからか精神的に参っていったようだった。面白いくらい典型的に破綻した家族だと思った。僕は現在十五歳で、中学三年生だが、中学生に入学したころくらいからなんだか自分の家族は普通ではないことに気づき始めた。しかし、今の時代もうこんな家族は一般的なのかもしれないと僕は思った。僕の「守」という名前は人を守ることができる優しい人間になってほしいという理由でつけられたと小さいころ母親から聞いた。しかし、今では僕が家庭を守らなければならないような気がして、自分の名前にさえなんだか重苦しいプレッシャーのようなものを感じた。父親は母親の出した夕食を黙って食べ、お風呂に入るとすぐに寝室へと向かっていった。
翌日、僕は朝十一時ごろに起きた。今中学生は夏休みで学校がないので朝早く起きる必要はなかった。父親は夏休みの間も仕事に出ているので、夜帰ってくるまではあの重苦しい感情を感じる必要はなかった。しかし、一人っ子の僕は決まって母親と二人きりになると、父親の愚痴を聞かされるのだった。
「あいつ、どうしていつもあんな偉そうな対応しかできないんだろうね。」
母親は言った。
「そうだね。」
僕は否定することなど決してできなかったし、する気もなかった。母親と父親が一緒の空間にいるときに比べたらこんなどうしようもない愚痴を聞くくらいなんでもなかった。
「お母さんはさ、離婚とか考えないの。」
僕は離婚の意志が母親にないことを知っていたが、なんとなく聞いてみる。
「でも離婚なんてしたら、守を養っていけないよ。これから高校に行ったら、たくさんお金がかかるんだからさ。大学に行くことも考えたらお母さん一人じゃ無理だよ。守が大人になるまでは我慢しなきゃダメかな。」
この手の質問をするというもこうだ。金銭的な問題で離婚ができないと母親は言っているけれど、本当は違うような気がした。
本当は離婚が怖いのだ。守は母親が離婚することで環境が変わってしまうことを恐れているような気がした。父親と結婚して、子どもを持っていることである程度世間に溶け込めている母親は、その家族がなくなるのが怖いのだ。もともと神経質な母親は友達と呼べる友達もおらず、今の家族がなくなってしまったら、世間から疎外されるような気がしているのだろうと僕は思った。もうとっくに家族は崩壊しているというのに。母親と離婚についての話をしていると何となく気まずくなり、沈黙が流れた。外で蝉の鳴く音が聞こえたが、鳴いているというより、泣いているという表現のほうが適切に思えた。長い間土の中で過ごしていた蝉たちはやっと外に出れたと思えば、七日間で死んでしまうのだ。彼らはそんな自分たちの運命を悲しんで、泣いているのだ。僕は母親と二人の空間に耐えられなくなって、リビングを飛び出し、二階にある自分の部屋へと向かった。
僕は今中学三年生で、受験生だ。もちろん勉強などしているはずもなく、母親と父親の仲たがいで神経をすり減らしていた。こんな家庭で勉強など手につくはずないだろうと思った。父親はモラハラ夫で母親は神経質。僕はそんな両親の地を継いでいるのだと思うと、自分がどんな運命をたどるのかは何となく予想できるように思える。そんな風に自分の人生のことを考えていると勉強を頑張ったところで、どうにもならないのだ。
部屋で自分の人生に悲観しているうちに夜になっていた。そろそろ父親の帰ってくるころだ。家の玄関のドアが開く音がした。心臓の鼓動が早くなるのがわかる。二階からリビングの様子をうかがっているうちに怒鳴り声が聞こえてきた。まただ。この夫婦は三、四か月に一回、決まって怒鳴りあいの喧嘩を始めるのだ。もう何度も経験しているが、うんざりすることあっても、慣れていくものではない。怒鳴りあいの喧嘩のたびに恐怖を感じるもので、今回も例外ではなかった。しかし、放っておくわけにもいかず、僕は階段を降り、廊下からリビングの様子をうかがう。
「なんでいっつもそんな機嫌悪そうなの?」
母親の声が聞こえた。ほとんど毎回母親が耐えられなくなって爆発するのだ。母親が続けて言う。
「いっつも人にご飯を作ってもらっといてありがとうもないの。仕事だけして帰ってきたら何にもしないなら私だってそうしたいわ。」
「お前さあ。俺が稼いできた金で飯食えてるくせになんでそんな偉そうなんだよ。」
父親がそういうと、お皿が割れる音がリビングから響いてきた。きっと父親が母親の作った料理をひっくり返したのだろう。
「守だって受験生のくせに全然勉強してないのってお前のしつけが悪いんじゃないの。」
そんな風に自分に怒りの矛先が向くと、胸が締め付けられた。
「そうやって私のせいばっかりにしてあなたが家の雰囲気悪くするから守だって安心して勉強できないんじゃないの。」
母親が自分のかばっているのを聞いてなんだか自分が情けなく感じる。家族関係が崩壊してるから勉強ができないわけじゃ無
いことはわかっていた。僕は結局崩壊した家族に責任を押し付けていたいだけということはわかっていた。自分の将来に希望が持てないのは家族のせいじゃないということだってとっくにわかっていたのだ。僕はたとえ幸せな家庭に生まれたとしても自分に幸せになる力が無いのだ思っているだろう。崩壊した家族に責任を押し付けている自分が、金銭的な問題を理由に離婚をしようとしない母親と重なるように思えた。結局は母親の子供なのだと思ったが、またもや僕は母親の血を言い訳にしているような気がしてもう自分は終わりだと思った。
翌日、また日常が始まった。僕は夏休みで早く起きる理由もないのだが、昨日の喧嘩のせいでよく眠れなかった。結局昨日は父親が寝室へと黙って行ってしまい、そこで喧嘩は終わったのだった。リビングに行くと、いつものように会話のない重苦しい雰囲気が流れていて、母親が作った料理を父親は黙って食べていた。父親が家を出ていくと、また母親と二人になった。いつものように父親の愚痴が始まる。あんな怒鳴りあいの喧嘩をした後でも変わらない母親を見ると昨日の自分を思い出した。自分はもう変われないのかもしれない。どうやったら幸せになれるのだろう。こんな風に夫婦関係が健全ではない家庭に生まれた子供は何らかの問題を持っていることが多いということはよく聞くが、過酷は家庭環境で幸せになっている人もいるのだから幸せになれないことはないのだろう。でも、そんな風に考えていると自分が幸せではない理由を奪われた気がして、絶望を感じてしまうのだ。自分が不幸なのはこの家族のせいなのだと自分に言い聞かせているうちはまだ希望を感じられるのだ。母親だって、あんな父親がのせいで不幸なのだと自分に言い聞かせているのだろう。離婚してしまったら、言い訳ができなくなって、どうしようもできない不幸を背負って生きていかなければならない。そんな絶望を感じるくらいなら、苦しみを感じながらも希望が無くならないほうがいい。もしたとえ、僕がそんな間に合わせの希望にすがる必要がなくなったとしても、外で泣いている蝉のような人生になるのかもしれないと思った。いきぐるしい土の中から抜け出したとしても、人生を謳歌できる時間など十分に残されていないのかもしれない。そんなことを考えていると、蝉の鳴き声がより一層強くなった気がした。