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やさしいヒト (作:朱夏)

 優しい人は死んだ。彼を認識したのは去年の春だった。


 春休み直後の特別日程、それがこのクラスに充満する浮かれた空気の原因なのだろう。今日の日程は1時間目から3時間目まで総合の時間で係決めをし、昼前には下校できる。自由な午後をどう有意義に使ったものかと考えていると、周囲のくだらない会話が流れ込んできた。高校生活最後の1年が始まったというのに2年前からまったく成長がうかがえない。男子たちは教室の隅でゲームの話ばかりしている。これからの人生で、格闘ゲームのコマンドやRPGのレアアイテムの入手方法が何の役に立つというのだろうか。女子たちは、さっきから話が全く前進しない。彼女たちの語彙力に感心するほど、同意の意味を持つ言葉たちが飛び交っている。国会中継で繰り広げられている批判に次ぐ批判の議論を白い目で見ている私だが、賛成しかない会話にここまで生産性がないとは驚いた。同じ女子として誠に遺憾である。それでも先生が教室に入ってくると、今までの喧騒が嘘だったかのように消えるのだ。あたかも先生の話を聞いているような顔をしているが、彼らは総合という時間を、授業中ではなくおしゃべりの待ち時間くらいにしか思っていない。まずは委員長から決めるように先生から指示があった。男女一人ずつ、立候補制で決めるのだが、面倒ごとはみんな嫌いで手を挙げようとしない。しんと教室が静まりかえった。早く放課後をむかえる方がみんなのためなので、私は立候補することにした。黒板に書かれた委員長という文字の下に、自分の名前を書き終え席に戻った。次はもう1人の委員長だが、男子が動く気配はない。時間だけが無駄に流れた。それを見かねて、みんなのために彼が立候補した。彼は嫌そうな顔もせず、黒板の前に立ち、私の名前の隣に自分の名前を書いた。彼は他のクラスメイトとは少し違うと思った。


 みんなが嫌がっていた割に委員長の仕事は大変ではなかった。大きな仕事は、9月の学園祭だ。代表になり、クラスをまとめなければならない。あの有象無象を束ねるのは骨が折れる。しかし、もう1人の委員長が随分と頼りになり、無事、出し物の焼きそば屋は繁盛した。むしろ事件が起こったのは文化祭の後だ。クラスメイトの誰かが打ち上げをしようと言い出したことが始まりだった。文化祭で団結力が上がっていたこともあって全員が打ち上げの開催に賛成した。ただ問題となったのはその開催日だった。ある放課後、全員の参加できない日を調査したが、クラスメイト30人全員がそろう日はないと判明したのだ。どの日程にしても誰かが参加できない。クラスメイトの誰かが、各々希望日を1日だけ書いて、その中で1番希望が多かった日に打ち上げを開くのが公平だと言った。全員がそろわないのは仕方がないと理解し、そのルールに納得した。次の日の放課後、その投票は私たち委員長2人が開票した。結果、1番多く投票されたのは投票数10票で来週の日曜日、野球部の県大会の日になった。みんなやはり、日曜日が予定を開けやすいのだろう。しかし、このクラスに野球部は八人いる。参加人数は二十二人になる。この日にしたい人は1番多いが、この日に参加できない人も比較的多い。そのとき、彼はこっそり私に提案した。次に投票が多かった日にしよう。投票数7票の土曜日にしよう。弁解させてほしい。私は、それはルールに反していると1度反対したのだ。でも結局、こっそり次に投票が多かった日になった。その日参加できるのは二十九人、できないのは、彼一人だったのだ。

 彼の来ない文化祭打ち上げは、私にとってあまり楽しいとは言えなかった。彼の配慮を知らずにのうのうと楽しむ野球部の八人を私はなぜか快く思えなかった。委員長2人の秘密なのだから、彼らがその配慮に気がつかないのも当然なのに。


 月曜日、彼は学校に来なかった。おとついの事が頭をよぎったが、すぐにそうではないと首を振った。彼は自ら望んで犠牲になったのだ。

 聞いた話によると、彼は事故に遭ったらしい。人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、その噂はすぐに広まった。クラスはざわついた。クラスメイトの誰かが、先生に彼のことを尋ねた。先生が真実をはぐらかそうとしているのは誰が見ても明らかだった。みんなはその突飛すぎる噂に半信半疑で不安になっていたので、先生に本当のことを話してほしいと懇願した。私も例外ではない。その噂が本当なら私は残念でならない。先生はついに重い口を開けた。先生曰く、彼は先週末に二人の小学生が川で溺れているのを助けたときに、自分が川の流れに足を取られてしまった。昏睡状態になり今は入院しているそうだ。幸い、二人の小学生は擦り傷を負う程度で済んだ。二人を助けて自分一人が犠牲になるところは彼らしくて素晴らしいが、三人とも助かれば良かったのに。


 彼が学校に来なくなってから2か月が経った。春にはあれだけ騒がしかった教室がすっかり静まりかえっていた。みんな2か月間、空いている席が気になるのだろう。私はその空席を見て今朝のニュースを思い出していた。2か月前に小学生たちを助け昏睡状態になっていた高校生が脳死判定をされ、少年がドナーカードを持っていたこともあり、家族は本人の意志を尊重して、臓器提供に協力する姿勢でいるようだ。臓器提供で数人の命を助けることができるらしい。

 これは素晴らしいことだ。小学生二人に加え、数人のレシピエントを一人の犠牲で救えるなんて。


 卒業が迫る頃、テレビは、1つの明るいのであろう話題で持ちきりだった。ヒーローが意識を取り戻したらしい。生還をみんなが祝い、学校はお祭りムードだった。テレビの中の彼は歓待ぶりをはにかみながらも、とても喜んでいた。

 失望した。

 彼は還ってくるべきではなかった。彼が眠りについたままだったなら、幸せになる人間の数はもっと多かっただろう。彼一人の犠牲で数人の命が救われたはずなのに。彼は私にとって理想的な優しい人だった。あの優しい彼はもういない。大きな幸福のためには小さな犠牲はつきものだ。一人と二人なら二人を助ける。一万人と一万一人なら一万一人を助ける。私は、そういうやさしいヒトになりたい。

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