ノアときみ、鵲とぼく (作:山の端)
最近きみは、よく、潤むような顔をする。それはちょっと翳りを帯びていて、すべてはきみの前に色を失う。ぼくが一番良く知っている。ぼくはきみの鏡で、鏡じゃないから。
それは毎年このころで、いつもきみは秋の感傷的な風に吹かれてもいないこんな季節に、そんな顔をして黙りこむのだ。じっとこらえていても、たぶん皆がそれを知っている。
そしてきみは、泣くのだ。
どちらかといえば、少し静かな泣き方だ。しっとりとあたりを潤しながら、ずっと涙を溢している。時には滴となれない細かな粒が、落ちきることもできずに漂う。
きみは、そんな顔をしているとき、ぼくのことなど見てはいないのだろう。
それで良い。きっとぼくも、きみに見せられない黒々とした顔なのだろう。きみに見せられない感情を抱えてしまっているから。
ぼくはいつでも、きみのその顔が、きれいだと、そう思ってしまうのだ。
ぼくは滅多に見ることのない紫陽花という花を、見たいと思う。紫陽花だけではない。水を基調とする生き物たちは、きみの涙で潤い、つやを増すという。水分をたっぷりと含んで、重さもこの時期には増えるのだという。
きみは、知ってか知らずか、涙を注ぎ続ける。こんな日に物思いなどしていると、きみ自身のアイデンティティーも溶けてしまうというのに。
これは本当だ。きみは透き通っていて、軽くて、それがいつものきみなのに。たやすくそれを捨てて、きみは重い瞼を閉じるように、心を閉ざしてしまう。雨が、霧が、雷が、そこに入り込んでくる。
そのとき、きみとぼくの境は荒々しく霞んで、ぼくはきみに一番近くなる。きみはそんなことなど、気にもしないのだろうけれど。ぼくは、……時々、気になる。
この前の晩、いつもと同じようにしていたけれど、きみは知っていただろうか。多くの人が、きみを見つめていた。何を見ていたのか気づいただろうか? たぶんきみは気づかなかったのだろう。それどころではなかったのだろう。ほんのちょっとしか、曇った顔を晴らしてはくれなかった。それでも、見た人はいたはずだ。
あの夜は、苺のような月の光が、わずかにぼくまで届いたよ。
何だったか、人はあの光に、甘いジンクスを結びつけたようだ。ぼくはいつかきみに教えてみたい。きみが泣き止んだ隙に、こっそりと言ってみたい。きみは、どんな顔をするのだろうか。そうでなくとも、あの優しい光に照らされていることをもう少し気にしてはみないか? なんてね。
もし少し泣くのをやめて、ぼくを見てくれたら、その光を見せてあげられるのに。
ぼくはきみの心までは跳ね返せないから、きみがどうしたら泣き止んでくれるのか知らない。
今日は嵐だ。大荒れの日だ。きみの飾らない感情が、不意に落ちてくる。含みきれないものが、きっかけも曖昧なままぼくを穿つ。堰を切って流れ込んでくる。いつもは馴染みのない、ざらざらとした感触だ。それが何なのか、考えたことはない。きっと考えてはいけない。ただ、それがぼくを侵食してくる。そして、取り返しのつかない場所まで沈んでいく。ぼくはそれを感じることしかできない。正直、気持ちの良いものではない。
どこかに枝分かれした光の柱が落ちた。
ぼくにはきみの感情が分からない。きみがどんなことを考えて泣いてしまうのか分からない。ノアはどんな気持ちでこの空間に四〇日も耐えたのだろうか。
それでも、ぼくはきみの涙を受け止め続ける。
嵐に船はあえて沖へ出る。甲板から束で投げ込まれた青い紫陽花が、ぐるぐると水面を滑って深く沈む。
きみはどこか吹っ切れたような顔をしている。
あたりは騒がしくなっているのだろうけれど、ここはいつも静かだ。それでも、遠くから運ばれてくる音や船上の賑わいが、陽気を伝えてくる。
何よりも、この陽射しだ。光と波のことは良くわからないけれど、なにか熱を持ったものが絶え間なく降り注いでくる。それは大地を暖め、その熱は次第に立ち上る。そのうちに、きみやぼくまでもが熱せられていく。
ぼくは小さく欠伸の真似事をした。
静かな夜だ。ついこの間までとは違い、昼と夜の境ははっきりとしている。
ぼくは夜も好きだ。昼に火照った体が、ゆっくりと冷えて研ぎ澄まされてゆく。
夏の夜は短い。その分、夜を構成するものがぎゅっと凝縮されているように感じるのは、ぼくだけだろうか。風は冷たいというより、心地よい。はるか遠くから、草いきれにも似た香を連れてくる。魚たちが、夜だというのに水面近くで尾を翻した。
こんなときだというのに、カササギのような鳥が、きみをすり抜けていった。
ーーー違うよ 今日だからなの
ぼくはきみの方を仰いだ。いつも見慣れた、輝くきみだ。いつも通りの姿だ。でも、きみの言うことは分かった。一目見れば明らかだった。
きみが纏う光は、少しずつ変わってゆく。去年もたしか、この日、こんな風に星は光っていたのだ。
ああ、だから今日は、ほんの少しだけ地上の光が穏やかだったのだろうか。
よく注意しても、さすがに笹の音は聞こえなかった。