そらゆくふねに、はるがくる(作:Toc)
瞼を開ける。室温二十五度、湿度五十四パーセント。薄明るいカプセルの中、覚醒したばかりの頭でも異常事態が起きていることはすぐ分かった。現在の当艦の位置、母星との距離。間違いなく、予定よりも三百五十万時間ほど早い目覚めを私は迎えている。冷凍睡眠を駆使し、最大限の寿命を確保している私たちに、計算から外れた、イレギュラーな覚醒は認められていない。
『不具合はないようだね』
覚醒から数分後だ。骨伝導スピーカを通じて伝わるのは同乗者らしき者の声、動脈のどこかを旅するチップが、声の主を照合した。
「同士、私はデータベースを照会してもなお、私の異常を認識できない。これはつまり、翻って貴方がプランを逸脱している証左であり」
『あー、産まれて初めて言うのがそれか、君は。まず呼吸をしよう、大きく。酸欠になりかけている』
マニュアルを参照。トライしようと顎部を動かした瞬間、繋がったままの生命維持装置が私に酸素を補填した。君は不器用なようだね、と聞こえた。
『説明をする前に、君、今の調子はどうだ』
「困惑はしていますが」
『そうか、そうだね。事情を説明しよう。体を動かし慣れたらこちらに来て』
マニュアルを参照。第一にまばたきをした。覚醒して数分後から感じていた痛みが、和らぐことが分かる。
それから三十分ほど、デバイスから人体の稼働方法を学んだ。問題ないとコンピュータから判断が下るのを待ち、私は声の主に会いにいくことにした。
『説教はもう聞いたし、私の思考パターンの独自性も自覚しているよ。だいたい予定以上の長期航海による、近親交配の必須化を齎したのは誰なんだと言いたいところだけどね。近交係数とエラーの相関など二千年代にすら証明されていただろうに……ああ、両足が一緒に出ているよ』
おぼつかない足取りで歩行する私を激励する声の主。上機嫌であると言動分析ツールは結果を吐き出した。
「貴方という個体に、異常は……みられない。脳波も。それにわたしという、あなたと遺伝子情報を約七十パーセント一致させた存在にも」
『ここに害をなすようなものは、可能性があるだけで排除される、そうだろう。私のイレギュラーな思考パターンは諸事情……この船の人工知能と対話をする必要が生じて出来上がったものだ。私だって、産まれたときは君のように右も左も分からずにいたさ』
私たちが船に守られるように、この船を私たちは守らなくてはいけない。声は、まどろみの中で幾度と確認した規則を復唱する。航行中の艦内は、覚醒中の同乗者のために快適な環境が提供されている。そうでなければ宇宙のもたらす無慈悲な極寒か極熱で、歩行はおろか一瞬にして絶命するのだと声は語る。
転びつつも最後まで歩き、声の主が待つ広々とした部屋に、やっとたどり着いた。手をかざし、扉を開ける。闇の中、設置されたモニターが演算の結果を表示する、その光だけが空間の光源だった。そんな光景のなか、先ほどまでの声の主は私の姿を認めると、操舵席を降り、こちらへと歩を進める。
「やあ同士、君の誕生を祝うよ、おはよう」
「……おはよう、ございます」
私に笑いかけるその顔のパーツ全てが、やはり私と酷似していた。動作の洗練度は、もちろんぜんぜん違うけれど。
「生まれたばかりの君にどうしても見せたいものがあって、早く起こさせてもらった」
「何故です」
「何故かと言われると……、私なりの誕生祝いとしか言いようがないな。とりあえず、見てごらんよ。今明かりをつけるから」
明かりがだんだんとともっていくにつれて、モニターの光源では照らしきれなかった、空間の上部がはっきりとし始める。
――空間の中央部、一段と高くなった場所にそれはある。土にしっかりと張る根、太く全体を支える幹、無数に伸びる枝。そして、それから……。
「……っ」
全貌を現したそれを見て、思わず私は息をのむ。
「さくら、だって。品種は当時のあの国の主流だったソメイヨシノ。飛び立つ前、母星の極東の島国、私たちの祖先の一部がわざわざ乗せたものなんだ」
種子が残っていたから、前回の目覚めに気まぐれで育ててみることにしたのだ。散る花を背景にして語る。
「……」
「何か感じることはあるかな」
しばし逡巡したあと、過剰なまでの桃色の色調は目に痛い、と言ってみた。笑い声を返された。
「生まれたてだからね」
「それでもやはり……美しいと思います。少し怖くて、美しい。無秩序に生える枝と、花弁の桃色は、この船の祖先のデータベースにもないものですから」
花が咲き、散っていく様を、母星の始祖たちは愛でていたのだという。まどろみの中で、人間心理について学んでいてもあの時は、植物を愛でる行為に共感できなかったのに。自分の心情の変化に、ほかならぬ自分が一番戸惑っている。
「……そうか」
「貴方の認識は違うのですか」
「そうだな……、うん、違う」
「何を思いますか」
「それは、もうひとつ君に見せたいものを見せてから、語ることにしようかな」
「もうひとつ……?」
困惑する私をよそに、彼は続ける。
「それにはあと百五十時間ほど、要するんだけれど。もう見えるかな」
私たちを取り囲んでいた白い壁が消え、外の様子が透過された。
「遠方の小惑星群なら」
「ちがうちがう、下だよ」
言われた通り足元を覗く。宇宙空間では見慣れない、青色が視界いっぱい広がっている。
この光景とデータベースの中の情報と、合致するものがあった。
「これは母星ですか? いえ、それにしてもたどってきた航路が……」
「君が疑うのも無理はない。なんと言ってもこの星は、重力、放射線量、気体の構成成分、温度、細部にいたるまで母星と一致しているんだ」
「母星と一致……ということは」
「人類の移住可能性のある星の探索、つまり私たちの任務の第一段階はクリアということだ」
任務達成、咀嚼しようと試みても実感はわく気配もない。これが私の一代前・二代前、その生を船で使い果たした祖先たちならば、また違うのだろうか。
「あの国では、新しい門出の季節にはいつもさくらが咲いていたそうだ」
「現在の私たちのようだと、言いたいのでしょうか」
「ご明察、よく分かったね。そうだ、この船にもやっと春が来たんだ」
綻んだ彼の頭に、ひらひらと舞う桃色の花弁が乗る。その様子が不思議とおかしくて、自然と口角が上がるのが分かった。
「さあ、ってことで他のみんなも起こさないと。任務の第二段階の開始だ」
――任務の達成感は、きっとこれからも抱くことはないだろう。だから退屈な冬を生きた祖先の悲願を達成してみたい、そんなポジティブな感情が私の中に生まれていくことを感じる。
宙行く船にも、春は来る。