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ベリーグッドの神が呼んでる 4


 アゲハ蝶、舞っとるよ。今日も。

 それで飛行機雲はずっと遠くの空まで続いてる。八月。世間的には盆と呼ばれる時期やけど、俺と楓さんにはあまり関係がなかった。

 遊園地に行った翌日から、楓さんは何事もなかったかのようにまた執筆活動に戻った。缶ビールを飲んで、原稿の山を積み上げていく。何らかのスランプも抜け出したみたいで、変なお香も、ヌードポスターも、もう部屋には現れなかった。

 俺はというと、雀荘のバイトを辞めた。

 これはまぁ、つまりは第一歩ということで、ここからまた何かを始めようと、次へ行こうと、そういった気持ちからの行動やった。

 でも冷静に考えると間違いやったかもしれへん。

 や、間違いというより先走りか。

 普通、そういう場合、次を決めてから辞める。バイトを辞めたことで実質的な実入りはゼロになった。今までも多少はそうやったけど、完全にバンド時代の貯金を切り崩す生活になる。それもいつまで持つか、たかが知れている。

「別にええんちゃうの」

 楓さんは特に興味がなさそうで、リアクションとしてはまぁ思っていた通りやった。

「でも、実質二人とも収入なしやで」

「それがいつまでも続くわけちゃうやろ」

「それはまぁ」

「ならええやん」

「そうか」

 俺はそう言って溜息をつく。

「いや、そんな不安そうな顔せんとってやー。私かて多少なりとも貯金はあるよ。それにこの小説書き終えたらすぐ出版社行くし」

「うん」

 楓さんがどこまで本気で言っているのか、たまによく分からんくなる。

「小説はどれくらい書けたん?」

「んー、三分の二くらいかな」

「だいぶ書けたやん」

「うん。もう少しやわ」

「そろそろ頭の方くらい読ませてや」

「あかん。書きあがってからや」

 楓さんは書きかけの小説を絶対に読ませてくれない。それどころかどんな話なのかも未だに教えてくれないのだ。

「にしても暑いなぁ」

 夏真っ盛りなんやけど、クーラー嫌いの楓さんがいるのでエアコンはつけていない。扇風機と網戸からの風。節約にもなるし、特に文句はなかった。でも暑い。俺は短パンにランニングシャツで、だらだらと汗をかいていた。

 網戸の向こうには蝉時雨。騒がしい。多分、街も、梅田なんかも同じように騒がしいのやろう。盆休みやし。

「アイス食べたい」

「うん。買ってきてや」

「一緒に行こうや」

「あかん。今小説が忙しい。私、あのミルクのやつ。凍った果物が入ってる」

 何て原稿用紙から顔も上げずに言ってくる。何を偉そうに、と少しイラっとしたが、とにかく暑くて、自分もアイスが食べたかったのでけっきょく一人で近所のコンビニへ向かった。

 太陽の光が痛い。これではまるで光線やないか。こんな日は市民プールでしこたま泳いでやりたいなぁ。楓さんが小説を書くように。しこたま。すれ違う小学生達が今日もわぁきゃあ言うて遊んどる。夏なんです、という感じで。

 コンビニに入るとそこは天国のような空調で、ただアイスを買って帰るだけでは勿体無いと、書籍コーナーに置いてある少年漫画を手に取って読んでみる。でも、いまいち。ストレートに言うてまうとおもんなかった。昔は大好きやった少年漫画やのに。少年漫画にドキドキしなくなったのは、俺がもう少年ではなくなってしまったからなのか。

 とすると何だ、もしやもう大人なんか、俺は。政治とか社会の成り立ちとか、幾つになっても興味を持てないこの俺が。未だに選挙なんて一度も行ったことないし、選挙演説やって興味無しで、いつも知らん顔して前を通り過ぎる。そしたら一度、話をしてる候補者に露骨にチッて顔をされたことがある。でも、それってどうなん? あんたの話に興味持てないのは俺のせいか? 俺が悪いんか? なんて、そんな卑屈な俺。少年漫画はもう読まないが多分中身は少年のままの俺。

 楓さんに頼まれたアイスは無かった。あれは多分、季節限定とかそういう類の商品やったんやろう。別の似たようなやつを買った。

 コンビニを出るとまた夏が始まり、すぐに額を汗が伝う。来週から、職安にでも行ってみようかなぁ、と思った。真面目に勤めて、真面目に暮らす。そんな普通もええんちゃうかな、なんて、午後十四時の太陽を見ていたら思った。

 でもけっきょく俺は職安には行かなかった。

 事態は週末に一気に急転した。



 一言にチャイムの音と言うてもいろいろある。

 嬉しい音やったり、悲しい音やったり、馬鹿馬鹿しい音やったり。で、その夜鳴ったチャイムの音は明らかに不吉なものやった。漫画を読んでいた俺も、小説を書いていた楓さんも、すぐにそのことに気づき顔を合わす。

「何か嫌な感じちゃう?」

「あ、木通くんもそう思う?」

「うん」

 時刻は二十一時半。そもそもほとんど来訪者など来ないこの部屋に、こんな時間にチャイムの音が鳴ること自体が不自然なのだ。

 言うてる間にもう一度チャイムが鳴る。

「昨日の木通くんのギターがうるさかったんやって、きっと」

「ちゃうやろ。それならその時来るって。あれちゃう、新庄のおばはんがここ突き止めて、やっぱり訴えようと来たんちゃうか」

「ふむ」

 なんて、俺は冗談で言うたのに、楓さんは真面目な顔して考えとる。そしてもう一度チャイムが鳴る。

「どうする? 出んのやめとく?」

「よし、新庄のおばはんじゃない方に五百円」

 そう言って楓さんは立ち上がった。

「出るんかよ」

「うん」

 楓さんは「はーい」と声をかけて玄関に歩いて行った。俺もそっちを覗き込む。

 楓さんがドアを開けると、そこには柄の悪そうな男が二人立っていた。見たこともない男たちやった。楓さんも同じなようで、

「誰?」

 楓さんが怪訝そうに言う。男の一人はガムをくちゃくちゃ噛んでいて、楓さんはそういう音が大嫌いやった。

「ようやく見つけたで」

 ガムじゃない方の男がにやにや笑って言う。こいつは見事なスキンヘッドやった。

「だから誰やって」

「あんた、青葉の嫁やろ」

 青葉の名前が出た瞬間、俺はちょっとヤバいな、と思って身体を起こした。

「そうや。もう青葉は死んだけどな。だから何やねん。悪いけど今忙しいんや」

 そう言って楓さんが閉めようとしたドアに、素早くガムが足を挟み、無理矢理ドアをこじ開けた。

「何やねん!」

「あんたは用がなくても俺らはあるんや。これ見てみい」

 ガムがそう言うと、スキンヘッドが胸ポケットから一枚の紙を出して広げた。

「何やこれ?」

 そう言って楓さんがスキンヘッドを睨む。

「組の帳簿や。青葉はなぁ、組の金に手付けとったんや。それもなんぼやと思う? 五千万や。信じられるか? 五千万やぞ」

「は? 嘘やろ?」

「ほんまや。証拠もちゃんとあがっとる」

 スキンヘッドがその帳簿を楓さんの目の前でひらひらさせる。そしてガムが続ける。

「青葉が死んで、周辺を整理してる時に見つかったんや。なぁ、奥さん、青葉が死んだばかりであんたも辛いかもしれへん。まぁ、ずっと別居状態やったからそうでもないんかもしれへんけど、そんなことはどうでもええねん。俺らにも面子ってもんがある」

「楓さんは関係ないやろ!」

 俺は立ち上がり、怒鳴った。

「おい。外野は黙っとけや」

 そう言ってガムが俺を睨む。ドスの効いた、本職の声。人を威嚇することに慣れた声やった。

「奥さん、俺らと来てくれや。ちょっとばかししんどい思いもするかもしれへん。でもまぁ、しゃあないよな、あんたあの青葉の嫁なんやし」

 そう言ってガムは楓さんの肩に手を置いた。スキンヘッドはにやにやといやらしい笑みを浮かべている。

「……木通くん」

 楓さんが絞り出すような声で言った。

「やっぱ新庄のおばはんに賭けとけばよかった」

「楓さん」

「まいった」

 そう言って振り向いた楓さんは、恐怖のあまりか笑っていた。

 それで俺はもう頭が真っ白になって、無我夢中でポケットに入れていた携帯電話をガムめがけて思い切り投げた。

 ここで一つ言っておくが、俺は別に野球経験者ではない。運動神経が特別悪かったわけでもないが、良かったわけでもない。ボールやって、そんなに上手に投げた記憶はない。

 しかし、この時の投球は何故か見事に楓さんの顔の横を通り抜け、ガムの顔面に綺麗にクリーンヒットした。素晴らしい投球。自分でも信じられなかった。

 ガムは短く、「あっ」と呻いて後ろに倒れた。それをスキンヘッドが支えようとする。

「閉めろ!」

 俺は楓さんに思いっきり怒鳴った。

 その声に一瞬スキンヘッドはビクッとして、おそらく続投が来るのかと思ったんやろうけど、ドアに対する注意が一瞬遅れ、その隙に楓さんが素早くドアを閉めて、鍵をかけた。

「てめぇ! 開けろ!」

 スキンヘッドの凶悪な声、ドアを思いっきり蹴る。楓さんは慌ててリビングまで戻ってきて、

「どないしよう?」

 柄にもなく焦っていた。

「すぐ荷物まとめて。ベランダから逃げよう」

「逃げようって。二階やで?」

「二階なら何とかなるやろ」

 そうは言うてみたものの半信半疑やった。でも迷っている暇はない。相変わらずスキンヘッドはドアをガンガンやっとるし、蹴破られるのも時間の問題かもしれへん。

 それで俺と楓さんは一瞬で荷物をまとめてベランダに出た。

「いくで」

「うん」

 飛び降りる直前、俺はベランダに落ちていた瓶ビールの空き瓶を掴んで玄関のドアに向かって投げた。それはまたも見事にドアに命中し、大きな音を立てて砕けた。

「てめぇ!」

 これはガムの声やった。無駄かもしれへんけど、今ので俺らがまだ室内におると思ってくれたらいいんやけど。にしても何故そないに冴えるか、俺の投球。球ちゃうけど。

 で、飛んだ。

 ベランダの下は雑草の生えた空き地で、思っていたより普通に着地できた。それで俺たちは全速力でそこから逃げた。



 こんな未来を誰が予想できたやろうか。

 二時間前まで、俺はいつもと変わらずうちで漫画を読んでいた。楓さんは小説を書いていた。

 それが今、二人で名前も知らない駅の近くにある小さなネットカフェの個室におる。もちろん二人ともネットなどまったくしたくない。

 入店の時に入れたジュースは、落ち着くために一気飲みしてしまい、もう無い。でもフロントまでもう一杯取りに行く気力も無い。ベランダのつっかけで走ったから足が痛い。二人ともしばらく何も話さなかった。

 ネットカフェの中には無害なポップソングが流れている。まだ十代じゃないかと思われる若々しい声の女の子たちが歌っていた。気楽なもんやなぁ、なんてそのアイドルも頑張っているんやろうけど、思った。あー、もう目を瞑って寝たろ、思った。その時、楓さんが、

「なぁ」

「うん?」

 急に声をかけられ、現実に戻された。

「私、酒持ってくんの忘れた」

「は?」

「や、だから酒」

「要らんわそんなもん」

「いや、飲みたいやろ。木通くん、何持ってきたん?」

「俺はー」

 そういえば無我夢中で鞄に詰めたからあまり覚えていない。俺は鞄を開けてみる。

「財布、タオル、漫画、テレビのリモコン、昨日のスポーツ新聞……」

「何でそんな要らんもんばっか持ってきてんの」

 確かに。自分でも情けなくなった。

「かなり焦ってたから……あっ」

 鞄の底にボトルのワインが一本入っていた。コンビニで売っている小さなやつだ。

「やるやん」

 楓さんが少し笑ってそれを開ける。ラッパ飲みで飲んで、俺にわたした。俺も続きを飲む。

「これからどうしようか」

「まぁ、この街にはいられへんやろ。俺、携帯投げてもうたし、多分もう素性もバレてる」

「木通くん、ごめんな」

「楓さんのせいちゃうよ」

「まったく、組の金に手をつけるなんて、あほやのにそんなことするからや。バレるに決まっとるやん」

 楓さんはそう言って溜息をついた。今まで聞いた中で一番まともな楓さんの意見やった。

「明日には大阪を出よう」

「うん。でもどこ行く?」

「いや、分からんけど」

 頭が全然回らん。

 それで、気づいたら少し寝てた。事前の眠気なんてなかったのに。疲れていたようで、意識のない、すっと沈んでいくような眠りやった。浅いプールで寝転がるような、そんな感じ。

「木通くん」

 楓さんに呼ばれた声で、はっと目が覚めた。

「う、うん。何?」

 俺が一瞬落ちてしまっていた時間も、楓さんは今後のことを考えてくれていたようで、俺は必死で寝ていない体、考えていた体を取り繕った。

「いい案を思いついた」

「マジで?」

「うん。木通くん、私に任せてもらってもいい?」

「そりゃええけど」

「じゃちょっと電話してくる」

 そう言って楓さんは個室を出て行った。

 ええけど、何て言うたものの、一人になると少しずつ頭が覚醒してきて、何とも言えない不安が押し寄せてきた。果たして、楓さんに任せてしまって良かったんやろか。ボトルのワインはもう空っぽになって机の上に転がっていた。

 しばらくすると楓さんが戻ってきた。

「どうやったん?」

「うん。とりあえず話はついた」

 楓さんは席に座り、ワインのボトルを拾って咥えた。けど中身が空だと分かると少し顔をしかめて、ゴミ箱に捨てた。

「明日、十九時に大阪港」

「大阪港?」

「そう」

「また何で?」

「また明日説明するわ。とりあえず今日はもう眠い」

 それで楓さんはシートを倒して丸くなってしまった。ほんまに眠そうやった。

 大阪港。港。不安しかなかった。でも最早考えても無駄で、とりあえず状況は今が一番最悪で、それより少しでも良くなるのであれば、もうなんでもええような気がした。

 俺もシートを倒して丸くなる。猫二匹、ゆう感じやった。二人とも次の昼までぐっすり眠った。



 翌日、夕方になると俺たちは約一日弱滞在したネットカフェを出て、大阪港を目指した。

 名前も知らなかったJRの駅から各駅停車に乗り、梅田を目指す。そこから環状線に乗り換え、弁天町まで出て、中央線にまた乗り換える。何だかんだ乗り継ぎも多く、遠いのだ。

 昨日のガムとスキンヘッドがどこかにおらんか、二人びくびくしながら移動した。こちらは昨日とまったく同じ格好。見つかればおそらくすぐにバレる。

 てかガムの奴、怒ってるやろなぁ。思いっきり顔面に携帯当たってたもんなぁ。あれはかなり痛いで。あ、しかもこういうのって、素人、カタギっつうのか、カタギにやられるなんて情けねぇ、なんて兄貴分から言われて責任を取らされたりするんやろか。それはちょっとかわいそうやなぁ。ガムは別に何も悪くないのに。悪いのは青葉やのに。ま、それでも見つかったらダッシュで逃げるけどな。こちらも命は惜しい。

 そんなこんなで弁天町まで無事に来た。それで中央線に乗り換える時、初めて自分が今、この街を出ようとしていることに気づいた。何年も住んだ大阪の街。今夜、大阪港からどこへ行くのかは分からんが、もうしばらく(おそらく、しばらく)この街に戻って来れないことは確実やろう。そう思うと少し寂しいはずなんやけど、何故かそうでもない。それは多分、俺は弁天町にも中央線にも特にこれといった思い入れがないからやろう。せめて梅田くらいでそういう事実に気づいていれば良かったんやけど、もう遅い。

 大阪港に着くと、すでに十九時を少し回っていた。電車を降り、楓さんは海の方へ歩いて行く。

 大通りの向こうに観覧車が見える。花火みたいな観覧車。そう言えばこの前、ジェットコースターの上からあの観覧車が見えたな。

 歩みを進める楓さんは、観覧車の方へは行かず公園の中に入っていく。俺は黙ってその背中を追いかけた。大きな公園。どんどん奥に歩いていく。公園の端、海辺なんやけど、そこには渡船場があった。そしてそこにいたのはあのオトウトやった。

「遅くなった。ごめん」

 楓さんが謝った。

「いえ、災難でしたね」

「まったくやわ」

「用意してますよ」

 そう言ってオトウトは背後に停泊している船をちらっと見た。こういう船、クルーザーとでも言うのであろうか。楓さんが頷く。

「船」

 大阪港と聞いて若干の覚悟はしていたが、実物を目の当たりにするとやはり驚いた。

「これに乗って逃げよう」

 楓さんが俺の目を見て言う。

「逃げるってどこへ?」

「分からんけど、海の向こう」

「なるほど」

 何を言おうと、現実的に選択肢はそれしかなかった。

「ありがとう」

 俺もオトウトに言った。オトウトはそれに応えて頭を下げる。

「食料と衣服はある程度積んであります。燃料も満タンです。出航についても手回しはできているので、何も問題はありません」

「ほんまに助かった。オトウト、いつも迷惑かけてごめんな」

「迷惑なんて、そんな」

「今までほんまにありがとう」

 おそらくこれが最期になるであろうことを、楓さんもオトウトも薄々感づいていた。

「ありがとうなんて、俺の方がですよ。あの時、楓さんが身体を張って組に話をしてくれなかったら、俺は間違いなくヤクザになってました。俺の人生は、楓さんに救われました」

「そんな昔のこと」

「俺は一生忘れません」

 前から気になっていたことについて、何となく少し話は読めたけど、俺は何も言わなかった。オトウトはほんまに感謝しているようで、深々と頭を下げていた。

 一瞬、俺は船を用意する程の財力があるのであれば、青葉が持ち出した金の補填をオトウトに頼めばよかったのではないか、と思ったが、その考えはすぐに消えた。そんなことをしたら、おそらく組はオトウトに目を付けるやろう。揺するなり何なりで金を巻き上げる。それに俺たちはもうすでに連中に喧嘩を売ってしまっているのだ。選択肢はやはり、逃げるしかない。

 楓さんはその辺のこと、気づいているのかいないのか。分からんけど結果としてはこれで良かったのだ。

「あまりぐずぐずもしてられへん。そろそろ行くわ」

 俺と楓さんは船に乗り込み、何となくの操縦方法をオトウトから教わった。思ったより簡単で、少し拍子抜けした。もちろん免許なんて持っていないんやけど。それより何より中が広くて、綺麗で、テーブルやら冷蔵庫やらトイレ等、設備もしっかりしていて、そっちに驚いた。

「オトウト、この船どうしたん?」

「知り合いの社長さんが昔使ってたやつらしいです。中古にしては綺麗でしょ?」

「うん。新品かと思った」

 社長さんて。まだ若いのに、オトウトはすごい。

 出航の直前、オトウトは俺一人だけを呼んだ。

「必ず逃げ切ってくださいね」

 真剣な顔やった。怖いくらいの。

「分かってる」

「楓さんを幸せにしてやってください」

「分かった」

 俺の声は、少し躊躇ったが、はっきりとした声やった。多分、躊躇ったことはオトウトには伝わっていないと思う。伝わっていたら殴られていたやろうから。だから、何というか、今の言葉に恥じない行動を取ろうと思った。

「オトウトー! 私も忘れへんでー!」

 出航した船の上から楓さんが叫ぶ。でも楓さんは大きな声を出すのが苦手で、その声は風に負けそうで、ちゃんとオトウトに届いているかは不確かやった。

 渡船場で、オトウトはずっと頭を下げていた。街灯がその姿を照らしとる。やがてそれも小さくなって見えなくなる。ナイトクルージング。街明かり、観覧車。それもだんだん離れていった。

「さ、行くで」

 楓さんはそう言って操縦席の方へ行く。

「行くってどこへ?」

「だから海の向こうやって」

「そうか」

 それで二人きりの航海が始まった。



 ありがたいくらいに好天で、雨の心配、言ってみれば嵐になって転覆してまうとか、そういった類の悩みは一切不要で、代わりに死ぬほど暑かった。二人ともタンクトップに短パンで参っていた。

 出航して二日目、操縦は交代でやっている。というのは表向きで、ほとんど俺がやっている。

 楓さんは逃げる時にちゃんと書きかけの小説を持ってきており、また船で続きを書いた。オトウトは楓さんのことをよく分かっていて、船には大量の酒が用意してあった。やから楓さんは家にいた時と同じようなスタイルで、船のテーブルで小説を書いていた。

 俺はというと、操縦をしたり、楓さんの要望でギターを弾いたりして過ごしていた。ギター。なぜそんなものが船にあるのか知らないが。うちにあった俺のギターとよく似たアコースティックギター。楓さんがオトウトに頼んだんやろうか。

 出航した夜に大阪港を離れて以来、一度も陸地を見ていない。行き先は海の向こう、という極めていい加減な目標を掲げて出航したが、操縦はいい加減やし、寝落ちしたりとか何やらで、操縦していない時間もあって、早くも船は漂流に近い状態になっていた。

 でも、別にそれもええかな、とも思った。急いでなどいないし、まぁいつかは陸地にたどり着きたいってくらいの。食料はともかく、燃料がいつまで保つんかは分からんけど、とりあえずあまり難しいことは考えなかった。プロの船乗りから言わせたら、「海をなめるな死ぬぞ」というより「そこまで海をなめるならもう死ね」という感じやろなぁ。

「アイス食べたい」

「うん。私、あのミルクのやつ。凍った果物が入ってる」

「あー」

 暇やった。暴力団から追われながら暇というのも変やけど。さすがのガムとスキンヘッドもここまでは追いかけてこないやろう。

 波は高くもないが、穏やかでもなく、普通で、水平線は常にずっと遠く。景色の変化は皆無やった。しかし海上は海上であって地上ではないという感覚は確かにあって、やっぱりいつもと違う、まぁ揺れとかもそうなんやけど、自分の乗る船の下には幾千もの生物がいて、それぞれが泳いだり歩いたりしとるんやなぁ、と思ったら何やか不思議な気持ちになった。

 陽が落ちると逆に少し肌寒くて、二人毛布にくるまった。オトウトが用意してくれていた食料は主に保存食系で、それを肴に酒を飲み、遠く近く、星を眺めて過ごした。

 そんな日々が四日続いた。

 食料と酒、そして燃料は日に日に減っていき、髭だけが順調に伸びた。楓さんの髪も潮風でだいぶガシガシになっていた。これはさすかにそろそろ真面目に考えなあかんなぁ、なんて考えて操縦桿を握っていた午後、気がつくと後ろに楓さんが立っていた。

「うわっ、びっくりした」

「何をびっくりすんねん」

「いや、急に後ろおるから」

「急におっても二人しかいない船なんやから私に決まっとるやろ」

「そりゃそうやけど」

「これ」

 楓さんは両手いっぱいに大量の原稿用紙を抱えていた。

「まさか」

「うん」

「書き終わったんか?」

「終わった」

「良かったやん」

「うん」

 でも楓さんは嬉しい、というより疲れた、という感じで、何だか眠そうな顔をしていた。少し日に焼けたようで、肌が赤い。

「読んで」

「ええの?」

「うん、約束したやん。それで意見があったら教えて。操縦は私がやるから」

「分かった」

 俺は席を立ち、操縦を楓さんに代わった。原稿用紙はずしりと重く、これは何枚くらいあるんやろ? よく分からんが、優に千枚はあるのではないやろうか。ほんまにようこんなに書いたもんや。

 それで俺は操縦する楓さんの後ろで小説を読んだ。陽が暮れて文字が読めなくなると、眠り、また朝になると続きを読んだ。楓さんは退屈そうに操縦桿を回したり、ギターを弾いてみたり(全然弾けていないんやけど)していた。

 朝から晩まで、晩から朝まで、そんな時間が流れていった。その間、ほとんど会話はなく、楓さんも途中の感想を求めてきたりしなかった。だからその数日は、ほんまに淡々と時間が流れた感じ。日が昇っているか沈んでいるか、それくらいの違いやった。

 それで出航して七日目の夕方、俺はやっと小説を読み終えた。

「終わったよ」

 そう言うと操縦桿を握っていた楓さんはゆっくり振り返り頷いた。

「どうやった?」

「うん。おもろかったで」

「そっか」

「うん」

 ずっと遠くで夕日が海に三分の二くらい沈んでる。綺麗で、でもさすがに七日目になると、特別な感動はもうなかった。

「たださ」

「何?」

「ここのヘルキュールネンネと沙也加が出会うシーン、ここはもうちょっと情景描写を入れた方がええんちゃう?」

 俺が思ったことを素直に言うと、楓さんは驚いたような顔をしてこちらに来た。それで俺は原稿用紙のそのシーンを指差す。

「ははぁ」

 楓さんは食い入るようにそのシーンを読み返す。

「他は?」

「せやなぁ。あとここ、沙也加と安藤が喧嘩するシーン。パンチって言葉、なんかダサない? ビンダにしといたら?」

「ほぉ」

「あ、あと、ここ。ロザリアンが焼肉を食べてるシーン。もうちょい長くした方がええんちゃうかなぁ。なんか一瞬で次のシーンにいってもうてるような印象やわ」

 楓さんは意外と素直で、せやなぁ、確かになぁ、なんて言うて頷く。それを見て俺は、楓さんも多分、書きながら不安で孤独やったんやろうなぁ、と思った。

「あ、でも、ほんまおもろかったで」

「木通くんってバンドやってた時、作詞とかやってたん?」

「まぁ、ちょっとは。うちは、作詞はほとんどベースの奴がやってたから。俺が作詞した曲も二曲だけ採用されたけど、アルバムの曲とシングルのカップリングやし、あんま人気なかったなぁ」

「いや、木通くん才能あるよ」

「え、小説?」

「うん。ね、明日から書き直すの手伝ってや。木通くんのアイデアを聞きたい」

「それはええけど」

「ほんでこれ、共作ってことにしよ」

「えっ、そんなんええの? 楓さんが頑張ったのに」

「うん。な、木通くんが特にやりたいことないなら、これから私と二人でコンビ作家になればええやん」

「コンビ作家? そんなんあるん?」

「そりゃあるやろ。世界は広いんやから」

「まぁ」

 こんな大海原の真ん中。世界は広いなんて、ものすごい説得力あるやん。気がつけば陽も暮れる直前。落日。また夜がやってくる。

「ほんで、やるの? やらんの?」

「コンビ作家?」

「そう」

「ええよ。やろう」

「決まった」

 コンビ作家。よう分からんが。うん、まぁ、悪くない。何かやることが、やるべきことが、やりたいことがあるとは嬉しいことや。

「ほな、乾杯しよ」

「酒まだ残ってたっけ?」

「缶ビールがあと三本」

「よう覚えてんなぁ」

「ちなみに、ツマミはもうない」

「うん。別にええよ」

 それで楓さんは冷蔵庫に缶ビールを取りにいく。戻ってきた頃には、空はもう完全に暗かった。

「じゃ乾杯」

「うん」

 缶ビールの味はほろ苦くて、どこか懐かしくて、それで俺は、自分の中には失った過去やら無くした夢やら、そんな星みたいな輝きを放つものが確かにあることを感じた。手を伸ばしても届かないもの。届かなかったもの。ときときの鉛筆。壁。そしてそれらが照らす現在地。ちゃんと自分の足で歩いている感触。濡れた土の匂いと裸足の足。楓さんの小説。ここにおる自分と海の向こう。そんなことを考えた。

「なぁ、木通くん、あれ」

 そう言って楓さんの指差す先には水平線。そして微かな光があった。

「あれ、星ちゃうな」

「うん」

 光は、よく見るとゆっくりやけど大きくなっている。向こうから誰かが呼んどるような、そんな感じ。

 俺と楓さんは毛布にくるまってそれを見た。光はいつしか薄い線になり、水平線を彩った。陸だ。

「どこやろ?」

 楓さんが俺のタンクトップを引っ張って聞く。

「さぁ? 九州かな」

「もしかしたら外国かもしれへんで」

「まじで?」

「可能性はゼロではないやろ」

「まぁ、確かに」

 遠くに見える光を二人で見ていた。

 どちらともなくキスをした。

 それで何となくお互いに変な気持ちになって、服を脱がせ合いそのまま裸で抱き合った。楓さんとこんなことになるんは初めてやった。そして多分、最後やろう。梅田の信号待ちではちゃんと言えんかったけど、俺はやっぱり、楓さんを恋愛という意味で好きなわけではない。多分、楓さんもそこは同じやと思う。これからコンビ作家としてやっていくんやけど。

「近づいてきたな」

 楓さんが俺の腕の中でぽつりと言う。

 やわらかな肌の感触が何となく気まずくて、

「出版社はあるやろか」

 なんて、俺はどうでもいいことを言った。それで楓さんはくすっと笑って、

「あるやろ。そんなもんどこでも」

「そうか?」

「だって本のない国なんて無いやろ」

「そうやろか」

「そうや」

「コンビ作家かぁ」

「うん。なぁ、木通くん、落ち着いたら私にもギター教えてや」

「ええよ」

「弾けるようになったらバンドでもやろかな」

「それもええんちゃう」

「ええんちゃうって、木通くんもメンバーやで」

「あ、そうなん?」

「そりゃそうやろ」

 楓さんはそう言ってまた笑った。

 潮風の匂いがする。波音も、はっきりと耳まで届く。まばゆい光の陸地は近いようでまだ遠い。あれは一体どこなんやろう。なかなかたどり着けない。でも確かにそこにある。

 残り一本になったビールを分け合う。毛布にくるまって。果てしない夜に二人で背を向ける。

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