ベリーグッドの神が呼んでる 3
七月にも慣れてきて。夏っぽい歌なんか部屋でかけちゃったりして。サマーソング。きらめく太陽。愛。的な。
そんなある日の夜、この前のシャボン玉の感覚で、楓さんが室内で花火に火をつけようとしよるから思いっきり頭を叩いたった。
「いったぁ。何すんねん」
「こっちのセリフや、あほ。室内で花火するやつがあるか」
「ちょっとくらいええやん。私、前の家でもやったことあるで」
「ありえへんわ」
「これやから常識人はおもんないわー」
「楓さんが無茶苦茶すぎんねん」
「ほな、どこでやればええんよ。せっかく買ってきたのに。割と高かったんやで、これ」
そう言って手にした花火セットを見せる。
なるほど、まぁ確かに豪華なセットやった。
「そりゃ、普通は家の前とかちゃうか」
「えー、人が通るから嫌やわ」
「なんで?」
「花火しとるとこ人に見られたくないやん」
「なんやねんその変なこだわりは」
「屋上は?」
「あるにはあるけど、普段は立ち入り禁止やで」
「ほんでもあるんやろ。あるのに入られへん意味が分からん。そこでやろう」
それでまた何となく押し切られて屋上に行く。一応「立入禁止」と書いてある腰くらいまでの柵があったんやけど、楓さんは当然のようにそれを越えていった。やから俺も続いていく。まぁ、確かに立入禁止にする意味は分からんよなぁ、なんて思った。でもそういう考え方って、何か毒されとる。
屋上には雲一つなく、広がった空。ただそれだけがあった。
「さ、やろっか、花火」
「うん」
そう言って俺はライターで楓さんの持っていた花火に火をつけてやる。薄いくすぶりの後、ばっと彩りが広がって、炸裂して、俺もそこから火をもらって花火に灯す。
夜を赤青緑、様々な光が照らす。乾いた夏の空気に火がついて、楓さんの横顔を浮かす。
「綺麗やな」
「な、やっぱ花火はええやろ?」
「室内でやるのはあほやと思うけどな」
「はは」
「ほんでも、人に見られたくないってのはちょっと気持ち分かったかも」
「せやろ」
楓さんはそう言って笑った。
何となく光が途絶えるのが嫌で、次々と花火に火を移していく。夜の片隅、二人ぼっちやった。バケツにまんまるの月が映っとる。
気持ち的には、銀河鉄道に乗ってしゅぱぱぱぱーと行ってまう感じ。そんな感じに夜は深い。見上げるとアンドロメダ。しぼんでんのか膨らんでんのか知らんけど。とりあえずはグレイトってことで。
夏は、まぁ、ぼちぼち折り返し。
元々住んでいた楓さんのうちに久しぶりに行くことになった。
心の中、片隅で、ずっと気にはしていたのだ。オトウトに手伝ってもらって引っ越したはええけど、元いたうちにはまだ家具類が残っていて、契約が終わるまでに片付けなければいけないんやけど、楓さんはそのことを全然口にしないし、どうなんやろなぁ、って思ってた。それが昨日になって急に、
「明後日、あの部屋の家具とか残ってるもん、全部処分するから」
なんて言う。
その時、俺はベランダで煙草を吸っとって、楓さんはソファに座って缶チューハイを飲みながらテレビを見ていた。
「はぁ、また急やな」
「うん」
「処分て、誰がやるんや?」
「業者にお願いした。オトウト経由でな」
またオトウトか。
「ま、それなら良かったわ」
「うん。それでなんやけどな、ちょっとお願いがあって」
「何?」
「忘れもんがあることに気づいてな、明後日で全部片付けてまうから、明日ちょっと取ってきてくれへんかな?」
「嫌や。何で俺が」
「たのむわ」
「あかんて。俺、明日バイトあるし」
「夕方からやろ? 昼間ちょっとだけ。お願い」
「自分で行きいや」
「私は、ちょっとあかんねん」
「何で?」
「何でも」
「意味分からん」
「なぁ、たのむって一生のお願いやから」
楓さんは事あるごとに一生のお願いを使う。
「何回目の一生のお願いや」
「頼んます」
なんて言われて、けっきょくまたまた押し切られた。
それで翌日、俺はわざわざ電車に乗って、隣駅のマンションまで行った。
鍵を開けて中に入ると、引っ越してまだ一月しか経っていないのに、妙に懐かしがった。荷物はすでに運び出していたが、家具類はそのままやから、妙に生活感がリアルに残っていて生々しい。
楓さんから渡された忘れ物リストをポケットから出して見てみる。花柄のタオル、しましまの靴下、魚のブローチ、芋焼酎のボトル、などなど。こんなもんほんまに要るんかよって品々がびっしりと二十個近く書かれていた。しかもこれ、どこにあるとかそういう情報がまったく書かれていない。ということは俺は今からこれを、こいつらを、ヒント無しで一つ一つ探さなあかんのか。うーん。見事な不親切。さすが楓さんやわ。
俺は楓さんの部屋に入り、箪笥を開ける。中にはぱらぱらシャツやら靴下やらが残っとった。俺はその中からしましまの靴下を発見。とりあえず一つ。これを今からあと二十回もやるんか。
楓さんの部屋を見渡すと、部屋の隅に半分くらい減った花火セットが置いてあった。それでこの前、「私、前の家でもやったことあるで」なんて言うてた楓さんの顔が浮かんだ。あれ、やっぱマジやってんな。怖ろしい女やわ、ほんまに。なんて思った。
溜息をついて部屋を出た時、不意に玄関の扉が開き、一人の男が入ってきたのと鉢合わせた。あるはずもない来訪者。そして顔を見て驚いた。
青葉やった。
「あ」
ついつい声が出てしまった。
隠れようにももう鉢合わせてしまっている。青葉は玄関からじっと俺を見て、靴のまま中に入ってきた。梅田で見た時はオールバックやったけど、今日は髪をおろしている。でもやっぱり凶悪そうな男やった。そのまま何もなかったかのように俺の横を通り過ぎていく。
「あ? なんやこれ」
青葉はリビングまで入ってきて、がらがらの食器棚と部屋を見て言った。そして俺の方に向き直り、
「なぁ、何でこんな片付いてるん?」
俺は何も言わんかった。
「あいつはどこ?」
「ここにはもういませんよ」
「ふぅん」
そう言って青葉は俺のすぐ前に立つ。近くで見ると思っていた以上にでかい。俺より頭一個分は大きかった。
「お前、誰?」
鋭い眼光が俺を睨む。
「楓の新しい男か?」
その言い方が何となく気に触った。
「だったらどうすんだよ」
そう言った瞬間、激しい痛みが頬を打って、俺は床に転がっていた。真っ赤な鮮血が床にぼたぼたと溢れる。それで殴られた、と気づいたんやけど、それと同時に次は腹に蹴りを入れられた。重たい蹴りで、俺は見事に壁まで吹っ飛び、背中を強打した。
「うっ」
激痛で顔をしかめる。動けない。けれど青葉は攻撃をやめなかった。うずくまった俺を何度も何度も蹴る。俺はもう意識を失う寸前やった。
「なんか言えや」
そしてしゃがみ込み、再度俺の顔を殴った。
「殺してもしょうもねぇ」
青葉が薄気味悪く笑う。そこで攻撃は止まったけど、俺はもう指一本動かせなかった。ほんまにこのまま死ぬんかな、なんて少し思った。いや、それはさすがに情けなさすぎるやろ、なんて。朦朧とした意識の中、玄関から出て行く青葉の後ろ姿が見えた。午後の光。それがドアに遮断される。そこで俺の意識も途絶えた。
次に気がつくと真っ暗で、一瞬何がなんだか分からんくなった。どこや、ここ? くらいの感じ、やけど身体を動かすと激痛で、青葉にやられて意識を失っていたことを思い出す。
「痛ってぇ」
言うてみたものの、暗闇の中でそれは自分の声とは思えないくらい掠れていて、死んでいた。とりあえず何とか立ち上がって身体を動かしてみる。痛いは痛いが、どこも折れてはいないようやった。んで、そんな確認をしとる自分を俯瞰してみて、たまらなく情けなくなった。多少なりとも喧嘩をした経験はあるが、こんなに完膚なきまでにやられたのは初めてやった。
ダメ元でスイッチを押すと、何事もなかったかのように明かりがついた。まだ電気が通ってたんやな。でもそれよりも驚いたのは指が無傷やったこと。どうも無意識のうちに庇っていたらしい。もう使うこともないのに。ギタリストでもなんでもないのに。はは。ちょっと笑ってしまった。
洗面所に行って鏡を見ると酷い顔で、頬は腫れて、唇は切れて、血がきれぎれに飛んでいた。もちろん服にも飛んでいて、もう、ほんま、とんでもない有様。
倒れていた辺りの床にも血が落ちとる。痛々しかった。明日にはオトウトの手配した業者も来るし、俺は洗面所で見つけた雑巾でとりあえず床についた血のあとを拭き取った。まるで殺人現場の証拠隠滅をしとるみたいやな。殺されたのは俺自身なんやけれども。
てか今何時なんやろ、と思って携帯を見ると、バイト先から五件も着信が入っていた。時刻は十九時半。バイトは十七時からやから、もうすでに二時間も遅刻していることになる。てか俺、けっこうな時間、気を失ってたんやな。こういうの、マジでこんなに気を失うもんなんやな。発見やわ。ぼけ。
とりあえずバイト先に電話を入れ、謝り、怪我をしてしまい今日は行けそうにない旨を伝える。嘘は言うてない。電話先、いつもは優しい店長なんやけど、今日はちょっと機嫌が悪かった。
ここにいても仕方がないので、電車に乗ってうちに帰る。電車の中で、みんなが俺の顔をじろじろと見ていた。それで気づいたんやけど、顔についた血を落とすのを忘れていた。あー、いかん、いかん、思い、最寄駅で顔を洗った。傷に沁みて非常に痛かったけど、とりあえずは血は落ちた。やけど、また家までの道、繁華街を歩いているとまだみんなが俺の顔を見よる。よう考えたら血が付いてなくても酷いぼこぼこなんやった。
どこからかハーモニカの音が聞こえそうな夜。たまらなく切ない。
マンションの下に着いた時に、楓さんに頼まれていた忘れ物を一つも持って帰ってきていないことに気づいた。うっかりしとった。しかし、まぁ、今からもう一度取りに帰ろうという気持ちは一パーセントもおこらんかった。構わずそのまま帰ると、楓さんはリビングの机に向かい、一生懸命何かを書いていた。俺の顔を見ると少し驚いて、
「どしたん?」
「ん、ちょっとな」
「雀荘でヤクザと喧嘩でもしたんか?」
「まぁそんな感じかな」
悔しいが、半分くらい当たっとる。何となく青葉の名前は出さんかった。
「傷薬あるんか?」
「多分ある」
「ちゃんと消毒しときや」
「うん。てかさ、ごめん。忘れ物、けっきょく一個も見つからんかった」
ほんまは靴下だけ見つけたけど。あれ、どこいったんやろか。
「そうか。まぁしゃあない」
なんて、やけにさっぱりしとる。もっとネチネチと、「何しとんねんな、ぐず」とか「そんなこともできひんのか」みたいなことを言われるんちゃうかなと思っとったから拍子抜けした。忘れ物のこととかどうでも良さそうな素振りでずっと何かを書いとる。
「ええんか? もう」
「ええよ。だって見つからんかったんやろ?」
「まぁ」
「じゃ、しゃあないやん」
「せやけど」
さっぱりし過ぎていて気持ちが悪い。
「なぁ、てかさっきから何書いてんの?」
「あ、これ?」
そこで初めてしっかり顔を上げた。
「そう。何なん?」
「実はな、木通くん。私、仕事見つけたんよ」
「えっ、そうなん。何するん?」
「これや」
そう言って書いていたものを見せる。原稿用紙やった。四百字詰めの。
「何? 小学生の作文の採点?」
「ちゃうわ。小説や小説」
「はぁ、小説」
それで原稿用紙をよく見ると、細い丸文字。紛れも無い楓さんの字やった。で、やっと分かった。
「え、楓さんが小説書くん?」
「そうや。私、作家になることにしてん」
突拍子が無さすぎて言うてる意味があまり頭に入ってこなかった。
「なんでまた?」
「小説書くんなら家でもできるし、酒飲んでてもできるやろ? それに売れたら印税ゆうもんが入るんやで。キャバクラなんかよりずっとええ商売やわ」
「いや、楓さん、それは」
楓さんは構わず続ける。
「実はな、テレビで作家の先生が自分の仕事を紹介してるのを見たんよ。それ見て気づいてん。あ、これやってな。なぁ、木通くん。それで何となく考えた話を今書き出してるんやけど、これが意外とすらすら進むんよ。私、小説向いてるんかも」
「はぁ」
「というわけで私は今日から作家になったから」
からって言われても。
でも、もう、何を言うのもめんどかった。傷も痛かったし。消毒液ぶっかけて、早よ寝たろ、思った。
とりあえず、楓さんは今日から作家になったらしい。
あれから一週間経つけど、バイトから帰ると毎晩、楓さんは定位置に座って小説を書いとる。
飽き性な楓さんのことやからどうせ長続きせんやろう、と、どうせ二、三日で終わるやろう、思ってたのに、どうも頑張ってるようやった。酒は相変わらず飲んでいて、原稿用紙の横にはいつも三、四本の空き缶が並んでいた。せやけど、引っ越してきた当初みたいに潰れたりはせんかった。
「ただいま」
俺は楓さんの正面に腰掛ける。
「うん」
楓さんは顔を上げずに手を動かしたまま言うた。
「順調?」
「まぁ、まぁ」
「それ、何枚くらい書くん?」
「分からん。いけるまでいってみようゆう感じ」
「あ、そう」
俺がいない間も楓さんはずっと書いとるようで、書き上げた原稿用紙の山がすでにけっこうな量になっとった。もう百枚くらいはあるんちゃうやろか。
「書いたらそれ、どないする気なん?」
「そりゃ出版社に売りに行くやろ」
「あ、よく知らんねんけどそういうもんなん?」
「そりゃそうや」
そんな日が毎日続く。楓さんが小説を書き進めている間に徐々に青葉にやられた傷も治ってきた。
楓さんがそんな感じやったから、俺はバイト以外、けっこう暇やった。小説を書いてる楓さんの隣で漫画を読んだり、お菓子を食べたり。一度携帯で動画を見とったら、「うるさいねん!」とマジで怒られた。
外に出るのはバイトと食事くらい。あと楓さんのお使いで原稿用紙やシャーペンの芯を買いに行ったり。バイトは好調も不調もなくいたって普通で、当たり障りのない単調な日々やった。
でもそれが二週目に入ると、いよいよ楓さんの筆も重くなりだしたようで、腕を組んで「うーむ」なんて唸ったり、鼻下に鉛筆を挟んで唇を突っ立てたりして、明らかに行き詰まっている様子やった。苛々して、俺に当たったりもした。
それでも楓さんは投げ出そうとはせず、苦しそうな顔をしながらも毎日机に向かっとった。何があの楓さんをそうまでさせているんか分からんかったけど、ここまでくるとさすがに俺もそのエモーションはマジ、本物やったことを認めざるを得なかった。
不調になるとまず飲酒量が増えた。これはまぁ、想定の範囲内で、俺もなんも言わんかったんやけど、それ以外にも空気を変えようとしているのか、いろいろな変化を楓さんは試しているようで、ある日は何とも言えない匂いのお香が焚かれていたり、またある日は女のヌードのポスターが壁に何枚も貼られていたり、そういう奇妙な変化が度々部屋に訪れた。
ほんで今日は帰ると古くさい昭和歌謡が流れていた。
「こんな昔のCDよう見つけてきたなぁ」
俺は机の上に置いてあるケースを手に取って言う。大昔に流行ったというほどでもなく流行ったバンドのCDやった。
「あぁ、今日探して買ってきてん。木通くん、これ知ってるん?」
「うん。親父が好きやったから」
「うちの父親も好きやったんよ、これ」
「へぇ。楓さんのお父さんて何してる人なん?」
「今は知らん。まぁ、ただの酒飲みや。中学の時、両親が離婚してからは一度も会ってない」
「へぇ」
「無茶苦茶な親父やったで。小学生の私や姉ちゃんに酒飲ましよったり」
「姉ちゃんがおるんや」
「うん。今は結婚して東京におる。全然連絡取ってないけど」
そこまで言って楓さんは露骨に「あっ」て顔をした。おそらく、話しすぎたと思ったんやろう。楓さんは過去を語るのを極端に嫌う。昔のことを聞いても楓さんはいつも、「パンクバンドのボーカルをやってたんや」とか「浪速区の教会でシスターをやってたんや」とか、めっちゃ適当なことを言って誤魔化す。
「こういう音楽聴いたら筆が進むかなって思ってん」
「苦戦してるみたいやな」
「うー」
楓さんは頭を抱えて書きかけの原稿用紙に顔を埋める。
「な、小説を書くってどんな感じなん?」
「せやなぁ。まぁ、プールみたいな感じやな」
「プール?」
「夏の暑い日にプール入りたいなぁ、気持ち良さそうやなぁ、て思うやろ? これが書き出す前の状態やねん。何となく書きたいことがあってきらきらしとる状態」
「うん」
「せやけどそれで実際泳ぎだすと、まぁ最初は気持ち良くてはしゃいどるんやけど、ずっと泳いでたらだんだん身体がしんどくなってくるやん? 腕とかさ。それであっぷあっぷ周りを見渡すと、もう足もつかんくて、行く先のはるか向こうにプールサイドがぼやぁ、っと見える、なんて状態になってしまってんねん。それが今の私な。せやけど泳がな先に進めないからとりあえず手足を動かしとる、みたいな」
「なるほど」
「もうちょっと頑張ればこのしんどいのも抜け出せると思うんやけどなぁ」
「うん」
「苦しいよぉ」
「ほんでもそういうの、なんかええな」
「そう?」
「汗をかいてる人間は、やっぱええ顔しとるよ」
それで俺は襖を開けて、中からアコースティックギターを取り出した。手にするのは一年ぶりで、若干チューニングがズレとったけど、少し調整したらすぐに直った。
俺の指が弦を爪弾く。
アコースティックギターの甘い音色。
部屋に溢れて。
流れる昭和歌謡に合わせて歌った。音楽はずっと俺の中おったようで、いろいろなことを指はちゃんと覚えとった。俺が忘れていたことも、忘れようとしとったことも、全部。
そのまま三曲続けて弾いた。楓さんはポカンとした顔でテーブルから俺を見とった。
「木通くん、すごいねんなぁ」
「いや、まぁ、一応元プロやから」
「あいやぁ。感心したわ」
「ありがとう」
「なぁ、もっと弾いてや」
そう言って楓さんが寄ってくる。
俺はちょっと迷ったけど、またギターを弾き始めた。
それからその夜は楓さんのリクエストに応えてけっこうな曲数を弾いた。歌った。楓さんも少し歌った。
やさしい夜。っうのかなこう言うのは。月も出てそうで。一雫。開け放した窓から遠吠え。犬。なんて、遠くから聞けば俺の声かて遠吠えか。
でも、何やろう、この感じ。
例えば、ときときになった鉛筆をダーツみたいに壁に投げてみるとする。さくっと刺さったらおもろいなぁ、なんて思っとっても、あかん。鉛筆はあっさり折れて床に転がる。世の中にはそんなふうに絶対勝てへんもんがある。それは間違いなく確かなことやろう。
せやけど、まぁ、そこにささやかな明かりを灯すくらいなら今の俺にでもできるんちゃうかなとも思う。久しぶりにギターを弾きながらそんなことを思った。
ほんで、楓さんの小説がうまくいけばええな、と思った。
八月の一週目、楓さんが四日間うちに帰ってこなかった。
電話にも出ない。楓さんが何も言わずに家をあけるなんてことは今まで一度もなかった。というか外泊することすら皆無やった。テーブルには書きかけの小説、山積みになった原稿用紙がそのままやった。
まず心配したのが、どこかで死んでるんやないか、ということ。泥酔して車に轢かれたとか、川に落ちたとか。うん、楓さんなら十分にあり得る。
それで一応、警察にも電話してみたんやけど、特にそんな通報はないようで、それならまぁ、どっかで生きてるは生きてるんやろうなぁ、なんて思って、あとは何やろ、誘拐とか。や、ないなぁ。俺が誘拐犯ならあんなややこしい酔っ払い、絶対に誘拐しない。それに身代金の要求も来ないし。
ほんならいったいどこをほっつき歩いてるんやろか、と、今度はそこが気になった。楓さんは酒以外に興味はないし、あ、最近は小説か。でも小説はここにあるし。行き先の想像がまったくつかなかった。
どうしてるんやろかなぁ、何て考えながらまたベランダで煙草を吸っていた失踪四日目の夜。楓さんは唐突に帰ってきた。
黒色のワンピースを着ていた。楓さんがそんな服を着ているところ、俺は初めて見た。やから、
「どしたん? その服」
この四日間のことを聞くより先にそっちの方が気になった。
楓さんは疲れているようで、俺の質問には答えず、冷蔵庫から缶ビールを一本出して、ソファに座って飲んだ。
「疲れてるみたいやな」
煙草を消し、部屋の中に入る。
「うん。疲れたー」
「何があったん?」
「葬式や」
それで楓さんの着ている服が喪服なことに初めて気付いた。
「そうやったんか。誰が亡くなったん?」
「青葉」
「え?」
「青葉が死んでん」
「嘘やろ?」
「ほんまや。交通事故やって。道に飛び出した子供を助けて、通りかかった市営バスに轢かれて死んだんやって」
「そんなこと……」
あの青葉が? マンションの部屋で俺をぼこぼこにした青葉が? あの凶悪そうな男が? 子供を助けて死んだ? イメージが繋がらなかった。
「大した事故じゃなかったみたいやねんけどな。どうも当たりどころが悪かったみたいやわ」
「ほんまなん?」
「だって、現に私今お葬式の帰りやねんから」
「まぁ、そっか」
うまく声がかけられへんかった。こんな時、何と言えばええんやろか? 楓さんは何かを考えている様子でじっと空中を見とる。ビールを飲んで。
二人だけの部屋。消音のテレビのような沈黙の後、楓さんが口を開いた。
「なぁ」
「うん?」
「遊園地行こうや」
「は?」
「遊園地。今から」
「何言ってるん?」
心の底からの疑問やった。何で旦那の葬式から帰ったばかりの妻が遊園地になんて行きたがるのか。
「ええやろ」
「いや、まぁ、俺は別にええけどさ」
「よし、決まり」
「けどもういい時間やで」
なんせ外はもう暗い。こんな時間から遊園地なんて。しかも別に近くに遊園地があるわけでもないのだ。
「あの海沿いの遊園地なら開いてるやろ? あの、何て名前やっけ?」
「えーと、あの。あれな。市内のやろ? まだ開いてると思う。多分」
二人とも名前をど忘れしていたが、イメージしている場合は同じやった。それですぐにうちを出た。俺は部屋着のまま、楓さんは喪服のままやった。
遊園地までは電車で一時間弱かかる。
新快速に乗り、梅田から環状線に乗る。帰宅ラッシュの車内、俺たち二人は完全に浮いていた。しかもけっこう混んでいて、座れず、ドアの横、俺は窓に身体を預け、楓さんは手すりを両手で握っていた。
行き道ではお互い何も話さなかった。
聞きたいことがないわけではなかった。でも何も聞かない方がええんちゃうかなと思ったのだ。
遊園地の最寄り駅に着くと、ものすごい勢いで逆方向に進む人波とぶつかった。帰宅ラッシュ。もう閉園近い。家路を急ぐ人々はみんなきらきらした顔をしていた。それを見て俺は、遊園地なんていつぶりやろか、と思った。多分、大学の時やろうなぁ、なんて。楓さんにも聞いてみようかと思い、喉元まで言葉が来たところでそれを飲んだ。今日はそういう質問は良くない。そう思ったのだ。
「閉園まであと三十分で、もうすでにクローズしている乗り物もございますが……」
受付のお姉さんはものすごく申し訳なさそうにそう言った。
でも楓さんは気にした様子もなく、あっさり二人分のお金を払ってチケットを受け取る。そしてさっさと中に入って行った。
楓さんはめちゃくちゃ早足で、最早それは走っているくらいの速度で、俺も小走りになってその背中を追った。
「な、どこ行くん?」
聞くと振り返って空を指差した。見上げるとそこには園で一番大きいジェットコースターのレールがかかっていた。
「あれ、乗るん?」
「そうや」
そう言って乗り場に向かってまた早足になる。
ジェットコースターの乗り場までたどり着くと、そこにはもう誰もおらんかった。
いつもは長蛇の列を作っているのであろう、長い長い迷路のような通路、がらんとしていて。それで嫌な予感がして通りかかった制服のお姉さんに声をかける。
「あの、これまだやってますか?」
「あ、すいません。今日はもう終わっちゃったんですよ」
よく見るとお姉さんはチェーンを持っていた。多分このチェーンを入り口にかけて、今日の営業を終えるつもりやったんやろう。
「そこをなんとか。もう一度だけ」
楓さんが頭を下げてお願いした。
「でも……」
気迫にも似た楓さんの懇願に、お姉さんは完全にびびっていた。だから俺はやんわりとした口調で、
「あの、お願いできないですか。これに乗るために今さっき来たんですよ」
と可能な限り優しく言った。
お姉さんは少し困った顔で腕時計を見る。ピンクの、小っちゃな可愛らしい腕時計やった。そして「少々お待ちください」と言って奥の方に入って行った。
俺と楓さんは二人になって、ジェットコースターの受付の前で待った。待ち時間を表示する画面はもう消えていた。でも、ジェットコースターやレール自体はまだ光っていた。音楽もまだ流れていた。
「どうなんやろなぁ」
呟いてみたが、楓さんは俺の言葉など耳に入っていないようで、お姉さんが入って行った奥の方をちょこちょこ覗き込んどる。
しばらくすると、年配の男が出てきた。
おそらくさっきのお姉さんの上司なんやろう。いかにも遊園地の従業員という感じの人当たりの良さそうな男やった。部屋着と喪服という妙な組み合わせを見ても表情一つ崩さない。
「事情はお聞きしました」
「お願いします」
男が話し出すと、すかさず楓さんは頭を下げた。
「あ、はい、はい。頭を上げてください。一応まだ完全には閉めてはいなかったので、まぁこれに乗りにこんな時間にわざわざ来られたということなので、一回だけ、特別に動かします」
「わぁ」
「ありがとうございます」
「でもこれ、特別ですからね。調整という名目にしますから、絶対に内緒ですよ」
男はそう言って中に入れてくれた。楓さんは安堵の表情で男に続き通路を歩いていく。嬉しい、というより、良かった、という感じやった。
乗り場まで出て、俺たちは足早にジェットコースターに乗り込んだ。もちろん他には誰もいない。だから二人、一番前の席に座った。身体をシートに固定すると、ほどなくしてコースターがゆっくりと動き出す。
「これに乗りたかったん?」
横に座る楓さんに声をかけた。
「そう。スカっとするから」
「確かにスカっとしそう」
「悲しい時はいつもこれに乗る」
コースターはレールの上をゆっくり上昇していく。現実を背中に置き去りにしてゆっくりと。レールの向こうには星空が見えた。都会とは思えないくらいの星が見えて、それはまるで発射台のようやった。ミサイルにでもなった気持ち。風の音が聞こえる。
「やっぱり悲しかったんや」
「思ってたよりな」
「そっか」
「あんな死に方はずるいわ」
「うん」
「チンピラと喧嘩してバットで殴られて死ぬとか、悪い薬の飲み過ぎでのたうちまわって死ぬとか、そんな死に方。あいつにはそんなどうしようもない最期の方が似合ってたわ」
声が少しきれぎれになっていた。風のせいやろうか。楓さんは別に泣いているわけではなさそうやった。真っ黒な服が夜と同化しとる。
今日はお酒の匂いがあまりしなかった。おそらく飲んだのは、あの帰ってからの缶ビール一杯だけなんやろう。だから楓さん自身の匂いがした。
「あいつさ、ほんまにどうしようもない奴やった。悪いことたくさんしたし、地獄に落ちて、釜で煮られて、閻魔大王に舌抜いてもらっても全然足りひんくらいのクズやった。でも最後の最後に良いことした。青葉に助けられた子供のお母さん、わんわん泣いて私に謝っとった。これ以上ないってくらい頭下げて感謝しとった。青葉のことで誰かから叱られることは今まで何回もあったけど、感謝されるなんてこと、初めてやった。最後の最後に。まるであいつが良い奴やったみたいに。そんなんってずるいわ」
「うん」
「でな、そんなこと考えると、たまらなく悲しくなった。全然良いやつちゃうかったし、むしろ最低やったけど、また会いたいかもなぁって思ってもうてん。不思議やんな。もう全部終わってたはずやのに」
「そうかぁ」
「だからさ、スカっとしたかってん。忘れるとかちゃうけどさ、スカっと」
「分かるよ」
空が、だいぶ近づいてきてる。真っ暗な空が。星が。
俺も青葉の顔を思い出す。あの凶悪そうな顔。でも、そうか、子供を助けたんやなぁ。それで市営バスに轢かれた。同じ状況で俺に同じことができたかと言われると、自信を持ちきれなかった。多分、思考とかそんなんじゃなく身体が咄嗟に動いたんやろなぁ。めちゃくちゃな奴やったけど、そう考えると根っからの悪人ではなかったんやろうな。
「ね、私って今未亡人やねんで」
「ま、そうやな」
「未亡人て何かエロいやんな」
「そう?」
「うん」
上昇はまだ続いていた。レールの先が近づくと、緊張感が高まってくる。意識しなくともその先に待つ墜落の気配を肌に感じた。
「あのさ……」
楓さんが何かを言いかけたその瞬間、俺たちはレールの先を超えた。
一瞬だけ身体がふわっと宙に浮き、一気に落ちていく。声を出す暇さえなかった。墜落。レールが鳴いとる。風が鳴いとる。
周りを流れていく景色を見ると、遠くに見える都市に光が散らばっていた。走り抜ける間、俺はちゃんとそれを見つけることができた。
列車は猛スピードでカーブを曲がる。そしてまた空へ向かって駆け上がっていく。夏の空気を切り裂いていく。レールを上がり切ったところで海が見えた。で、その瞬間、また落ちていく。
楓さんが隣で何か叫んでいた。でも風の音がうるさくてよく聞こえない。
「全然聞こえへん!」
俺は楓さんに向かって大きな声を出した。
「スカっとするなぁ!」
「そうやなぁ!」
「明日からまた頑張ろぉ」
「うん!」
「なぁー」
「何?」
「生きるって気持ちが良いことなんやろうなぁ」
「多分、せやなぁ」
それで、また一つカーブを曲がる。
上がったり、下がったり、曲がったり、人生とは多分、これからもこんな感じで続いて行くんやろな。そんなことを思う。楓さんの言う通り、多分それは、総合的に考えるとそれは、気持ちが良いことなんやろう。
何となく握った楓さんの手は思っていたより暖かくて、少し恥ずかしくなった。
夜はいつか、また明ける。たとえ、氷のような朝が待っていたとしても。