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ベリーグッドの神が呼んでる 1

明けゆく空


 快走する車たちの行く末が、こう、ぼやぁっと輪郭を失いつつある。

 六月。午後十四時半。

 国道沿いを歩く俺を後ろから順々に車が追い抜いていく。

 なんだかなぁ。あ、これはあれや、つまりは、アスファルトの隙間に沈んでいた水気が熱されて蒸発し、薄い煙となり、それが人々の視界をどうにもぼやかすという、いわばまぁ、毎年の感じではあるんやけど、つまりはもうすぐ夏が来る。そういう感じ。うん。そっか、そっか。もうそんな季節かぁ。なんてことを漠然と考えながらとぼとぼと歩いていたら、楓さんから電話がかかってきて、急に家を追い出されそうになっているとの現状を告げられる。

「何? どういうこと?」

「ええから、早よ帰ってきて」

 楓さんはそれだけ言って電話を切った。かなり機嫌が悪そうやった。

 別に言われんくても帰るところやったし、十分後くらいには俺はもう楓さんのうちの前まで来ていた。五階建てマンションの一室。三階の二LDK。てか便宜上、楓さんのうちって言うたけど、今は実質、俺もここに住んでる。もう一年近くになるか。つまり、まぁ、言い方によっては俺の家だとも言える。だから楓さんが家から追い出されるということは、自動的に俺もこの家から追い出されることになるため、さっきの電話の話がマジならば、これは決して他人事ではないのだ。

 部屋に入るとリビングに楓さん、今日もすでに酒を飲んでいるようで、少し顔が赤い。その向かいには三つ隣に住む新庄夫妻が並んでテーブルについていた。楓さんと新庄のおばはんは何だか怒っているような感じで、旦那さんの方はバツの悪そうな顔をしていた。

「どうも」

 言うてみたもののこれに反応は無し。

「なぁ、なんなんこれ?」

 俺は楓さんの横に座って耳元で聞いてみた。でも楓さんはむすっとしてるだけで何も言わず、それに答えたのは新庄のおばはんの方やった。

「この女がうちの人にとんでもないことしたんや。これ、立派な名誉毀損やで」

「だからもう謝ったやん」

 楓さんが明らかに苛立った口調で言う。

「謝ったかて許されへん」

「あの、何の話?」

 俺は再度楓さんに聞く。

「この前のニュース」

「あ」

 それで分かった。

 少し前の出来事を思い出す。

 事の始まりは殺人事件やった。

 や、ちょっと待て。違う。今のは言い方が悪かった。その言い方ではまるで刑事ドラマやないか。ちゃうちゃう。そんなんやない。俺は刑事ではないし、探偵でもない。

 数日前の朝、何気なく二人でニュースを見ていたら、隣街で殺人事件が起きたと、犯人はまだ捕まっておらず逃走中やと、報道してた。

「げ、これ、すぐ近所やん」

 俺はその時、二人分のコーヒーを淹れたんやけど、楓さんはそれを無視して、えらい真剣な顔でテレビに食い入り、ニュースキャスターの話を聞いていた。

「犯人捕まってないて、危な」

「私、犯人分かった」

「は?」

「犯人が分かった」

 そう言って楓さんはいきなりだだだだっと走って部屋を出て行った。俺は呆気にとられて一人、コーヒーを飲んでいたんやけど、しばらくしたら楓さんはしょんぼりして帰ってきて、

「何か、ちゃうらしいわ」

「ちゃうって、そもそも誰やと?」

「新庄のおっさん。ほら、近所でいつも野菜売ってる」

「はぁ。なんでまた?」

「怪しいやん。人相悪いし」

「え、それだけ?」

「それだけやけど」

「ほんで、まさか本人に言うたん?」

「言うた。野菜売ってるとこに警察の人引っ張ってって問い詰めた。でも、何や事件が起きた時はアリバイがあったらしい。だからちゃうって分かってん」

「あちゃー。怒っとったやろ?」

「うん。めっちゃ怒っとった」

「そりゃそうやわ」

 てか楓さんの話を間に受けて付いてってまうその警官もあほやわ。そういうの、人見て判断せな。

 少し冷めてしまっていたが、楓さんにもコーヒーを勧めたる。楓さんはそれをゆっくり飲んで、

「ええ推理やったんやけどなぁ。イマイチ決め手に欠けたなぁ」

 なんて悔しそうな顔をしてる。

「あほ」

 俺はれーっと舌を出す。

 んで、それでその件は終わったと思ってたんやけど、どうも終わってなかったってことね。夫を殺人犯にされかけた新庄さんの奥さんが怒り心頭で乗り込んできたというわけか。

「さっきから何やその態度は! 穏便に引いたろうと思ってたけど、やっぱり名誉毀損で訴えるわ。あんた、自分が何したか分かってんの?」

「だから、悪かったって認めてるやん。いい加減しつこいねん」

 元々、新庄のおばはんと楓さんは仲が悪い。

 それもまた、廊下で顔を合わせても無視する、口を聞かない、なんて感じならまだええんやけど、お互いに、ポストに古本屋で買ったぼっろぼろの不気味な古雑誌を入れてみたり、廊下に隣接する窓にルックス微妙な巨乳グラビアアイドルのポスターをびっしり貼ったりと、不毛、且つ不毛、に次ぐ不毛、自分の子供がやっていたら拳骨で叱ってやりたい(子供なんていねぇけど)レベルの嫌がらせをやり合っており、そんな中で今回の事件やから、これはチャンスと新庄のおばはんがぼこぼこに攻撃してくる気持ちもまぁ、分かる。側から見ても、今回のことは百パーセント楓さんが悪い。

「しつこいってなんや、その言い方」

「うっさいわ。しつこい奴にしつこい言うて何が悪い」

「あのー」

 どうにも行き着かなさそうやったから話に割り込んだ。するとおばはんはぎょろっと俺を標的に変えて睨むから、俺はそっちを見ずに旦那さんの方を見た。ぐんにゃりしてる。多分ここまで大事になるとは思ってなかったんやろうなぁ。このおっさんは人相は悪いが人間はそれほど悪くはない。

「今回のことはこっちが悪かったです。本人も反省してるんで、もう許したってもらえませんか? ほんまにすいません」

「どこがや!」

 おばはんが楓さんを指差して怒鳴った。

 うん。ま、確かに今の楓さんの態度からするとそう思うのも無理ないわな。でも俺には分かる。楓さんはこう見えて、けっこう反省してる。ただそれを素直に認めたくないだけやねん。

 するとそこで耐えきれなくなったのか、旦那さんがおばはんを制して、

「まぁ、まぁ、分かりました。そりゃ私やって警察まで連れてこられてあんな目にあって、正直めっちゃ腹立ちました。でもまぁ、確かにお宅の奥さんもちゃんと謝った」

「あ。あの、奥さんちゃいますよ。僕らただのルームシェア? っていうんですかね。同居してるだけなんで」

「あ、そうですか。まぁそれはいいとして、とにかく、こちらとしても今回のことで訴えるとはもう言いません」

「あんたっ!」

 おばはんがまた怒鳴った。旦那さんは小声でまぁ、まぁ、とおばはんを制する。

「その代わりと言うては難ですがね、もうこのマンション、出て行ってくれませんか? さっきも彼女には言うたけど、私としては、そうしてくれたらあとはもう何も言わないんで」

 旦那さんは諭すように楓さんに言う。俺は知っていた。楓さんはこういう言われ方には弱い。ムスっとした顔のままではあったが何も言い返さなかった。

 てか、思い出した。そもそも家を追い出されそうになってる、って話で呼ばれて帰ってきたんやった。あー、そういうことね。交換条件てやつね。訴えない代わりに出てってくれって。それがヒートアップしてまた訴えるとかどうとかって展開になって。そういう話やったんやな。そもそも。

 しかし、まぁ、どう考えても分が悪い。

 しばらく誰も何も話さなかった。網戸になったリビングの窓から風が入ってくる。颯爽とした、男前な風やった。多分、どこかで風車が回っとる。からからと、気持ちいいくらいに。子供の遊ぶ声も聞こえる。空には真珠色の雲。散らばっとって。

「二週間以内にここを出てく」

 取り残されたような部屋の中、ぽつりとそう言った楓さんの声は、なんや忘れた頃に鳴った風鈴の音みたいやった。



「どないすんの?」

 夜。部屋とベランダの間に腰掛けてビールを飲んでる楓さんの背中に話しかける。もう風呂上がりで、振り返るとすっぴん顔やった。

「どないって?」

「家のことに決まってるやろ」

「あぁ」

「二週間てすぐやで」

 俺は楓さんの横をすり抜けてベランダに出る。座り込んで煙草に火をつける。楓さんと向かい合うかたちになって。

「しゃあないやん。一週間じゃ早すぎるけど一カ月じゃ長すぎると思ってんもん」

「それで二週間か」

「そう」

「どないすんの?」

「うー」

「うちくるか? 出てきた時からほとんどそのままやから地獄的に汚いやろけど、一応まだ解約はしてないで」

「うー」

「てか現実的にそれしかないやろ」

「ええんか?」

「いや、そりゃ俺はええよ。ええに決まってる。今までは俺がこっちに転がり込んでたんやから。なんや、気遣うなんて楓さんらしくないな」

「うるさいわ」

 そう言ってビールを飲み干す。ほんですぐ横に用意してあった次の缶々を開ける。

「それ何杯目?」

「五? や、六? 分からん」

「飲み過ぎやて」

「こんな夜に飲まずにいられるかい」

「いや、別に飲んでんのは今日だけちゃうやろ」

 ビールを豪快に飲んで、楓さんの細い首が音に合わせ動く。いつも思うんやけど、何で楓さんは毎日こんなに酒ばっか飲んでんのに太らんのやろ。別に運動かて何もしてないのに。あ、でもご飯はあんま食べへんな。それでこんな細いんかな。アル中の人ってのはそういうものなんやろか。

「ごめんな」

「別に謝らんでええよ」

「引越そう。木通くんのうちに」

「うん」

「うー」

 楓さんは項垂れる。ビールの缶をちゃぷちゃぷ回す。音的にもう半分くらいは飲んどる。脱色し過ぎて最早金色に近い髪、それがばさっとなってて表情が見えない。

「泣いてんの?」

「泣くか、あほ。くそぅ、あのおばはん」

「もうええやろ。ほっとけやあんなん」

「くそぅ、くそぅ」

「あほやな、楓さんは」

「うるさい」

 そう言って手に持っていたビールを俺にわたして、楓さんは部屋の中、後ろにベターっと倒れた。めくれたTシャツとズボンの隙間から小さくて可愛いおヘソさんが見えとる。

 それで俺は聞く。

「楓さん、引越しはええけど、ここ離れて旦那さんのことはええんか?」

「ええよ」

 即答やった。

「そうか」

「うん」

 しばらくすると楓さんはそのままの体制で寝てしまった。

 俺は一人、もう一本煙草を吸う。ベランダの柵から腕をぶらぶらさせてみる。

 目の前には空き地、雑草が生い茂っていて。それもまぁ、まぁ広い。なんでこの土地、何かに使わんのかなー、なんて思ってたけど、この景色ともあと二週間でお別れやと思うと、これはこれで良かったとも思うし、不思議と愛おしくなる。胸、きゅっと。てか。見上げると空、真っ暗で。

 その向こうには宇宙、空中、てか空虚。横たわっていて。俺は、癒えきってない心の傷がちょっと疼いたりして。

「そんな夜を温めたいと思ってんのね、私は」

 楓さんの寝言。全然意味分からん。



 実質的に今の俺は雀荘のバイトで生計を立てている身。

 駅前にある雀荘。楓さんのうちからは一駅分電車に乗る。俺のうちからやったら自転車で行ける距離なんやけど。あ、せやから引っ越したら少し近くなるんやな。てか、これ引っ越しって言うんやろか、とも思うけども。俺としては自分のうちに帰るだけやからね。まぁ、何でもええんやけど。

 で、雀荘。割と流行っていて、毎晩けっこうな人が入っている。俺はそこで牌を拭いたり、お茶を運んだり、代走に入ったりしているのだ。タキシードっぽい服を着て、黒い小さな蝶ネクタイをしとる。

 今日も卓はほぼ埋まっており、牌を混ぜる自動卓の音がまるで町工場のように部屋に充満しとる。で、俺が裏でコップを洗っとったら店長が来て、

「南條君、代走入れる?」

「あぁ、はい」

「四番卓ね」

 俺は濡れた手を拭いて四番卓に行く。会社帰りのおっさんらの四人打ちで、俺が来るとおっさんの一人が会釈をしてトイレに立った。

「よろしくお願いします」

 ほんで、じゃらじゃら。

 配牌が自動で配られる。ドラも自動でめくられる。最近の自動卓はすげぇ。悪くない配牌や。しかし俺はあくまで代走。代走というものもなかなか難しい。振り込まない、且つ大きくあがらない、目立ち過ぎず、空気のようにしれっと打つことが大事。型を披露する拳法家のように、しれっと。そう俺は思ってる。

「にいちゃん、最近よう見んな」

 上家に座るおっさんはちょっと酔ってる感じやった。四人、おそらく会社の同僚で、帰り軽く飲んでから打ちに来ているのであろう。んで、終電で帰る。たまに見かける集団やった。仲間うち、健康麻雀。

「ありがとうございます」

「にいちゃん何歳や?」

「二十七です」

「ええ歳やないか。フリーターか?」

「まぁ、そうですね」

「ほなしっかりシフト入って働かなあかんな。頑張りや」

 なんて言って俺の背中をばしばし叩く。

「はい」

「せやけどな、にいちゃん。雀荘で働いとるなら盲牌くらいできるようにならなあかんで」

 対面に座るおっさんが煙草をふかしながら俺の手つきを見て言う。

「すいません。盲牌、どうにもできないんですよね」

「慣れやで、こんなんは」

 上家に座るおっさんが触ったツモ牌を見ずに捨てながら言う。

「うーん」

 俺は牌を触ってもやはり分からない。

「根気よく、練習あるのみや」

「どうなんですかねぇ」

「指が不器用なんちゃうか?」

「一応前職は指を使う仕事をしてたんですけどね」

「そうなん?」

 や、いらんこと言うてもうた。瞬間にそう思った。

「何やねん、指使う仕事って」

 上家のおっさんが下家のおっさんに「これか?」言うて人差し指と中指を突き出してクイクイして下品に笑った。多分ゴールデンフィンガー的なことが言いたいんやろ。下家のおっさんが笑う。

「で、何なん?」

「あー、あの、ギタリストやったんですよ。僕」

 そう言うて牌を捨てる。

「え、ギタリスト? バンドか?」

「バンドです」

「へぇー有名やったんか?」

「まぁ、それなりにって感じですけど。一応メジャーでやってました」

「なんてバンド?」

「ロイヤルスカムってバンドです」

 久しぶりにその名前を口にした。

 対面のおっさんが早速携帯を取り出して検索しとる。すぐに「お、出た出た」なんて言うて携帯の画面を他の二人に見せた。俺もちらっとそれを見る。検索で出てきた写真は、間違いなく俺らやった。二年前の、あの頃の俺ら四人がそのままの感じでそこにいた。

「このギターのAKEBIってのがにいちゃんか?」

「そうです。僕、名前が南條木通なんで。それでAKEBI」

「へぇー、すごいのぉ」

「かっこええやないの、にいちゃん」

「ありがとうございます」

「ほんで、そんな奴がなんで雀荘でバイトしとるんや?」

 上家のおっさんが聞く。

「バンドはもう解散したんですよ。二年前に」

「あ、ほんまや。二年前に解散って書いてあるわ」

「そうなんか。なんや、それでもまた違うバンドやったらええのに」

「はは、そうですよねぇ」

 まぁ、これは、うん。おっさんの言うことが正しい。

 と、思う。普通は多分、そう思う。

 ロイヤルスカム。

 俺が大学時代からやってたバンド。

 メンバーはボーカル、ギター、ベース、ドラムの四人で、俺はギターやった。

 ギターは中学の時に始めて、高校で軽音楽部に入って初めてバンドを組んだ。そのバンドは卒業と同時に終わったけど、楽しかった。俺はこれで、音楽で食ってきたい。あほなりにそう思った。元々、勉強は嫌いやったし、中高とギターの練習ばかりをしてた。プロになりたい、そう思っていた。

 大学に入ってあの三人、あの三人てのはロイヤルスカムのメンバーのことで、軽音サークルで奴らと知り合い、バンドを組んだ。

 今思い返しても、大学の時はほんまに、あり得んくらいライブやったなぁ。人もけっこう入ってたし。ほんまに楽しかった。この頃は、何も考えず、純粋に音楽だけをやれた。うん、今思えばそういう唯一の時期やったんちゃうやろか。

 ロイヤルスカムはすぐに話題になった。

 四年の夏、ライブを見に来ていた大手レコード会社のスカウトの目に留まり、大学を卒業と同時にメジャーデビューした。

 メジャーの世界は厳しく、今までのようにトントン拍子にはいかなかった。とは言っても、まったく売れへんかったわけではなかったんやけどね。大きなヒットには恵まれへんかったけど、何となく話題にはなるくらいのバンドではあった。ミュージシャン。今思えばそういう肩書きやってんな、俺。うん。

 メジャーデビューしてからアルバムを二枚出した、その度にインタビューを受けた、地上波ちゃうけどテレビにも出た、けっこう大きなフェスにも出た。

 チャートアクションはともかく、俺としてはバンドに対して大きな手応えを感じていて、このバンドはもっと伸びる、次はもっと良いものが作れる、そう思っていた。

 で、そう思っていた矢先の解散やった。

 理由は、まぁ、いろいろあったんやけど、結局はボーカルとベースの奴がバンドを抜けて外でやってみたいと言い出したことが一番大きかった。

 もちろん俺は二人を止めた。

 けど、あかんかった。

 奴らの決意は固くて、その時、俺は初めて、奴らの才能はこのバンドでは収まりきらないものだったのだと気づいた。俺もドラムの奴も演奏は確かに上手かった。けど、脱退を切り出した二人はそれだけじゃなく、もっと別の、光るものを持っていた。解散後、二人はそれぞれ音楽活動を続け、今も活躍している。あの頃よりもずっと。

 ドラムの奴は音楽をきっぱり辞めて地元に帰って就職した。

 ほな、俺はどないやねん。

 というと、どうもこうもない。解散からもう二年が経つのにどこにも行けていない。こうして雀荘でバイトしとる。

 振り切れてない。何もかも。

 音楽の、バンドのことだけを考えて生きてきた。それが急に無くなって、音楽以外、ほんまの自分なんてものは何もない、空っぽなことに気づいた。

 おっさんの言う通り、また別のバンドを組んだらええ。それも分かる。

 せやけど俺はもう気づいてしまった。自分にほんまもんの才能はない。バンドを抜けてった二人とは根本的に違う。多分また別のバンドを組んでも同じことが待っているだけや。

 そんな繰り返し、俺はもうしたくない。

 分かっとる。

 分かっとるんやけど、そんな簡単に気持ちの整理がつかない。中途半端。うん、結局はそやねん。中途半端。そういうことやねん。

 宙に浮いとる。

 イカサマ瞑想野郎みたいに。もう二年も。

「ロン」

 対面のおっさんが牌を倒す。

「えっ」

「ロン。あがりや。リーチ一発タンヤオ平和ドラ一。満貫や」

「マジすか」

 やってもうた。代走やのに振り込んでもうた。そう思っていたら下家のおっさんが、

「あー、やられたなぁ」

 なんて頭をかきながら点棒を卓に置く。

 それを見てようやく気づく。

 俺ちゃうかったんや。

 てか、よう考えたら俺、今別に牌捨ててへんやん。ロンされようがないやんけ。なんて胸を撫で下ろしていたらトイレに行っていたおっさんが帰ってきた。俺はお役御免で席を立つ。

「ではごゆっくり」

 再び裏に戻ってコップの続きを洗う。んで、洗いたてのコップで、ぐびっと水道の水を一杯飲み、息を吐く。

 バンドのこと思い出すのは、今でもやっぱ、けっこう辛い。



 二週間で引っ越しをすることになったので、少しずつその準備をしとる。

 で、早くも一つ問題発生。

 楓さんの部屋は解約の二ヶ月前に退去の申し出をしなければならない契約になっていたようで、あと二ヶ月、今六月やから八月までは解約できないとのこと。つまりは二ヶ月分無駄に家賃を払わなくてはならないということやった。

「もったいねぇー」

 俺がそう言うと楓さんは無視して、むすっとした顔で手に持っていた洋服を乱雑に段ボールに詰め込んだ。楓さんは無駄とか蛇足とかそういう類のものが大嫌いなのだ。

 しばらくはそんな感じで俺のことを無視して作業を続けた。

「でも前向きに考えるとな、とりあえず要るもんだけ持っていくだけでよくなったやん。残りはあと二ヶ月でゆっくり片付ければええんやし」

 そう言ってコンビニで買ってきたアイスキャンデーを一つわたしてやると、少し楓さんの機嫌が直った。

「そうやけどさぁ」

 アイスキャンデーは冷凍の果物が埋め込まれているやつで、ほんのりミルク。甘かった。

「住めもしないのにお金払うって悔しいやん」

「そりゃ分かるけど」

「くそぅ」

「たった二ヶ月やん。すぐ終わるって」

「うー」

 そう言って楓さんは頬杖をつきながらアイスキャンデーを齧る。ほっそい腕。俺はテーブルに向かい合って座る。陽が傾き出し、午後の気だるい空気が部屋に漂っとる。段ボールの匂い。ひどく業務的な匂い。鼻について。

「今夜はバイトなん?」

 楓さんは目線を合わせず俺に聞く。

「いや、今日は休み。楓さんは仕事?」

「うん。言うてる間に出なあかん」

「そっか」

「あー、そやそや。てかな、言いそびれてたんやけど、私来週で今の店辞めることになってん」

「あ、そう」

 特段、驚きはなかった。楓さんが店を辞めるということはいわば日常茶飯事で、同じようなことが一緒に住んだこの一年で四回もあったのだ。

 楓さんはキャバクラで働いていて、いわゆるキャバ嬢。でもいつも全然人気がなくて、どこも長続きせず、店を転々としていた。ぱっと見可愛らしい顔をしているから採用はされるのだが、働いてみると最悪で、酒が入っていない時は愛想が悪いし、酒が入ると泥酔。その二択。人気が出るはずがない。

「次の店は考えてんの?」

「や、全然。てか、なんか全然ちゃうことやってみよかなぁ、とも考えてる」

「ええんちゃう、それも」

「うん」

「何かやりたいことでもあるん?」

「いや、まだ何も」

「そっか」

「キャバクラは適当に酒飲んでればよかったから楽やってんけどなぁ」

「でも楓さん、すぐ飲み過ぎるから」

「キャバクラには向いてない?」

「と、俺は思う」

「もっと早よ言えや」

「いや、俺何回か言うたことあるって」

「ほな、やっぱ新しい仕事探すかー。キャバクラと同じくらい給料もらえる仕事がええなぁ」

「あるん? そんなん」

「いや、分からんけど」

「でもまずは引っ越しやな」

「うん、せやな」

 それで、しばらくして楓さんは仕事に出て行って、俺は一人、暇こいてソファで片付けの最中に見つけた漫画雑誌を読んでいたらいつの間にか猫のように寝てもうて、んで、起きたらもう暗かった。

 こうしてまた一日が終わる。

 カーテンの隙間から月明かりが差していた。それが床に細い線を作って、何もない日常をアニメのように、ちょっとだけ幻想的にしとった。

 起き上がると何か飲みたくて、冷蔵庫を開ける。冷蔵庫の中はすかすかで、缶ビールが四パック、ポン酢、わさび、卵、そんだけやった。これは別に引っ越し前やからというわけではない。これがこの家の立派な日常なのだ。

 それで俺はふと、楓さんと初めて会った日のことを思い出す。

 その日は確か、俺は何かの用事で梅田まで出とって、一人酒を飲んだ挙句、最終電車に乗って帰っていた。

 最寄り駅は最終電車の終点やから、全員が電車から降りる。その日の最終電車も俺みたいな酔っ払いや終電帰りのサラリーマンでけっこう人が多かった。みんないろいろ事情があるんやろな。ゾンビみたいな顔して改札へ歩いていた。

 俺もほろ酔いで歩いてたんやけど、その時、回送になった電車の中にちらっと人影が見えたのだ。それで気になって中をのぞきこむと、女の人が倒れていた。

 一瞬、死んどるやないかと思い、怖気付いたが、さすがに俺やって見つけてしまったもんやから、この状況を見て見ぬふりするわけにはいかない。

「大丈夫ですか?」

 恐る恐る肩を揺さぶってみると、どうも女の人は眠っているだけやったみたいで、ちゃんと生きとって、

「あー、ごめん。大丈夫、大丈夫。いつものことやから」

 なんて言って起き上がる。んで、ふらふらと電車を降り、降りたところでまたぺたんとホームに座り込んでしまった。

 どう見てもべろべろやった。それが初めて会った楓さん。

「全然大丈夫じゃないですよ、ほら掴まってください」

 そう言って掴んだ楓さんの腕は思っていたよりずっと細かった。

「ありがとう」

「送っていきますよ。そんな状態じゃ歩けないやろし」

「わっ、ありがとう。それじゃお言葉に甘えてそうさせてもらおうかな」

 支えた楓さんの身体は軽く、少し驚いた。それと、お酒の匂いが凄かったことをよく覚えている。六月の、雨の降らない梅雨の夜やった。

「家、ここから近いんですか?」

「てか、ここどこ?」

「しっかりしてくださいよ」

「はは。あー、ちょっと待って、えーっと、あ、はい、はい。分かった、分かった。どうやら一駅乗り過ごしてるわ、私」

 それを聞いて一気に面倒くさくなった。

 でもだからと言ってここに放っておくわけにもいかず、仕方なく駅前でタクシーを拾い、楓さんのあやふやな案内で二人、隣駅の楓さんのマンションまで行った。

 で、部屋の前まで連れて行くと、ごく自然に「あがって」と言われ、俺はなぜか言われるままに家にあがった。

 玄関には楓さんの小さな靴にまぎれて男物の大きな靴がいくつかあることにはすぐに気がついた。

「水とか飲んだ方がいいんじゃないですか?」

「せやな、そうするわ。な、冷蔵庫の中にペットボトルの水があるから取ってくれへん?」

 楓さんはしんどそうにリビングの椅子に腰掛けて言うた。

 言われた通り冷蔵庫を開けると、缶ビールがいくつかと半分くらい減ったマヨネーズとわさびのチューブが入っているだけだった。他にはなにもなかった。

「水なんてないですよ」

「ほな水道水でええわ」

 俺は溜息をついて、水道水を適当なコップに注いでわたした。

「飲み過ぎですよ」

「あー、私、飲まずにはいられない病気やねん」

 楓さんは水を飲みながらそう言った。

「アルコール依存症ってやつ?」

「知らんけど、たぶんそんな感じやと思う」

「へぇ」

「ほら、座りや。何もお構いはできひんけど。ビールなら好きに飲んでええよ」

「いらないです」

 勧められて椅子に座ったが、全然落ち着かへんかった。築年数もまだ新しそうで、意外と綺麗に片付いた部屋やったけど、空気が薄く、不思議な感じのする部屋やった。

「大学生?」

「いやいや、違いますよ。俺、もう二十六ですから」

「ふぅん、そうなんや。何か若く見えるわ」

「初めて言われましたよ、そんなこと」

 楓さんはうつろな目をしていて、少し眠そうやった。どう見てもまともに話のできる感じじゃなかった。

「そんなに酔っ払って。彼氏はどうしたんですか? 一緒に住んでるんでしょ?」

「彼氏じゃなくて旦那」

「結婚してるんですか?」

 ちょっと驚いた。

「うん、ぎりぎりやけど」

「どういう意味ですか?」

「離婚チョーテー中」

「あ、そうなんですか」

 なんと言えばいいのか分からんかった。離婚調停なんて、聞きなれない言葉やったし、そんな人に初めて会うたから。

 まぁ、しかし後から分かったことやけど、楓さんは別に離婚調停中ではなかった。旦那さんは出て行ったたきりで、離婚がどうのって話にすらなっておらず、ただ単に婚姻関係を放置しているだけやった。

「旦那は、もう一年も前に出てった」

「それから連絡も取ってないんですか?」

「うん、全然」

「そっか」

「あなた、名前は?」

「あ、南條です」

「なんじょうくん、呼びにくいなぁ。下の名前は?」

「木通です」

「あけび? 珍しい名前やね。どんな字書くん?」

「木に通る、木通」

「ほぉー、初めて会ったよ。そんな名前の人」

「そうですか」

 まぁ名前が珍しいことの自覚は前からあった。

 楓さんは確認するように小声で木通、くん、木通くん、ね、と呟いていた。

「私は楓」

「楓さん、綺麗な名前ですね」

「ありがとう」

 そう言った楓さんはほんまに嬉しそうな顔で笑った。

 俺よりは多分少し歳上。細っそりとして綺麗やけど、何か掴めない人やなぁ、と思った。

「さて、俺はそろそろ帰りますね。あまり飲みすぎないように、気をつけてください」

 そう言って席を立つと、楓さんは、

「帰るって、電車まだあるん?」

「いや、ないからタクシーでここまで来たんじゃないですか。帰りもまたタクシー拾って帰りますよ」

「そんなんお金もったいないやん。泊まっていきいや」

「え、ここに?」

「うん。別にええから」

 それで楓さんは俺の手を引いて、旦那さんの部屋に案内した。

 リビングから一転してお世辞にも綺麗とは言い難い部屋。わけの分からん外国人のポスターやら服やらでいっぱいやった。煙草の匂いが壁にこびりついとる。暗がりで俺は床に倒れた電気ストーブにつまづいた。

「ここ、好きに使ってええよ」

「いや、それは」

「送ってくれたお礼や。ええねん。どうせこの部屋の主は二度と帰ってけえへんし」

 楓さんは嫌味っぽく言う。

「だからって」

「ええの、ええの。私やって一人でおってもつまらんし。ゆっくりしてって」

「はぁ」

「気に入ったら別にいつまでおってくれても構わんよ」

 そう言って楓さんはさっさと部屋を出て行ってしまった。パタン、と扉閉まる。

 何やかよう分からん展開になってしまった。

 知らん人間の知らん部屋に一人。でも俺はもう、それ以上何かを言うのがめんどくさくなって、そのまま部屋にあったベッドに倒れ込んだ。

 その頃は、バンドが解散してちょうど一年が経つ頃で、何やか、いろいろ考えるのがダルい。そんな時期やった。酒もまぁまぁ入ってたし、その夜はけっきょくそのままそこで寝た。

 次の朝、俺が起きた時にはもう楓さんは起きていた。二日酔いでしんどそうな顔やのに、トーストを焼いて、ベーコンエッグとオニオンスープを作ってくれた。昨夜の冷蔵庫事情から考えると、おそらく朝からわざわざ食材を買いに出掛けてくれたんやろう。美味かった。

 ほんでけっきょく、俺はその日からずっと楓さんのマンションで暮らしている。

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