バノイ一世の肖像画
ノイザック・バランがアビライティアの近衛騎士団に入隊してから、今年でちょうど40年になる。
当然、一番古株の騎士の一人である。
一個大隊を任され、アビライティア城の警備の実質的な責任者でもある、国王の信頼も厚い彼が、彼の騎士人生でも全く聞いたことがない、またこのアビライティアの長い歴史でも前代未聞であろう、この不思議な闖入者に興味を持ったのは、単純に、此間会った彼の孫と同じ年頃ではないかとふと思ったからだ。
彼女は、一時前とは打って変わってすっきりした様子で、顔色も良くなっていた。
王城の北牢の、最下の独房に、仕事を合間を縫って様子を見に来たバランの眼の前で、彼女はいきなり嘔吐しだし、真っ青な顔で震えだしたので、彼は慌てて城医者を手配する羽目になった。
王宮の最深部で捕まった彼女だから、厳重に警戒されていたのだが、城医者が
「こんな弱っこい、栄養の足りていない子供を、こんなところに置いていたら、そりゃじきに死ぬでしょうよ」
と呆れて言ったので、バラン他関係者は驚いて、国王に進言し、医者にも同じ台詞を繰り返させて、この重要人物をもっと居心地のましな独房に移したのである。
しかしこの不審者は、栄養の足りていないという割には、風変わりだが丈夫で、幾らか上等そうな衣服を身に纏っていたし、受け応えに知性の一端を見せ、ついでに市井の訛りもなかった。
訛り、というのは生まれを端的に表すもので、そんなにひょいとは矯正しづらいものである。
これはもう、この人物は怪しいし、怪しすぎるが、何もかも掴めないのし、しかも現れた場所が「神がかり」とか、「バノイ一世の魂が彷徨っている」だとか言われたりもするロウリザリエだったものだから、大体の関係者は恐れをなして、その取り扱いをバラン隊長に強固に押し付けたのである。
バラン隊長も、なんだかこの少女が気掛かりになっていたものだから、断ることが結局できず、度々こうして牢に足を運んでいるのだった。
今は、彼女は静かな、そして落ち着いた寝息を立てて、狭い寝台に横になっていた。
バラン隊長は静かに鉄格子の前を後にした。
***
時分はすでに夕暮れが近く、城の回廊には夕日が差し込んでいた。
「バラン隊長殿」
呼ぶ声に振り向くと、ユーグ卿が柱の陰に身を隠すようしながら、軽く手招きしていた。
「内緒話ですかな?」
バラン隊長は素早く辺りを窺い、人気がないと見ると、声を低めてユーグ卿に歩み寄った。
「ええ、ええ、例の少女のことで相談があります」
言いながら、ユーグ卿はバラン隊長を促すように歩き出した。
バラン隊長は頷いた。
「私は、あの少女の容貌を見たのは、まさにあの時、ロウリザリエで一度だけですが、引っかかるところがございまして、数刻前に陛下にあるものを見せていただいたのです」
「あるもの?」
「これから貴殿にも見ていただきますゆえ」
ユーグ卿はそれきり黙って、早足にバラン隊長を城の奥へと案内した。
しばらく歩くと、バラン隊長の表情はだんだん硬くなっていった。ごく限られた人物しか入れない城の奥の領域につかつかとユーグ卿は歩いていく。
「……陛下も同席したいとおっしゃられましたが、ご不調のようで今はお休みなさっています」
ある扉の前に立ちどまって、呟くようにユーグ卿が言った。
バラン隊長は片眉を上げた。
「またか?」
「最近、どうもお疲れのようで、夕方以降ご不調なことが多くあらせられます。しかも、今回このような珍妙な事件もおきましたので……」
「やはり、王太子殿下のご不在が大きいか?」
バラン隊長が心配そうに問うと、ユーグ卿は曖昧に微笑んだ。
「……ルーディアルク殿下はいらっしゃれば、ご公務のご負担は減りますが、彼の方自身、先王陛下を彷彿とさせる方ですからね……ですが、確かにご不在のほうが陛下もお疲れになるのかもしれません」
「王女殿下などは思い切り羽を伸ばしているがな」
「…今回はそのお陰であの少女が見つかりましたがね」
話が不思議な少女に戻ったところで、ユーグ卿は扉に手をかけた。
中には明かりがすでに灯っていた。四面の壁には多数の絵画や肖像画が掛けてある。
「バラン隊長殿はバノイ一世のご肖像をご覧になったことがおありで?」
「あるぞ。セグレー王と並んだやつを」
「あれはたまに表に出しますからね」
ユーグ卿は部屋の奥の方に歩いて、1つの肖像画の前に立った。
中々に大きな肖像画で、高さは長身の卿の背丈よりも随分ありそうだった。横幅はもっと広い。
バラン隊長は苦虫を噛み潰した顔になって、その画を睨むように見た。10代おわりか20代くらいの若い女性が、豪奢な椅子に腰を下ろし、重厚感のある書物を膝の上で開いたままこちらを見つめている。
「これが、おそらくバノイ一世のもっとも若いお姿の肖像画です」
黒髪黒目のバノイ一世の顔立ちは、どことなくかの少女と共通していた。
少女の荒れた肌に痩せた姿も、囚人に与えられた粗布の簡素な衣服も、ざっくばらんにまとめられた髪も、腰を下ろす粗末な椅子も、全く違っていたが、強くこちらを見つめる黒い瞳に、冷たげな表情が確かにどこか似ているようにに見えた。
バラン隊長と同じく、バノイ一世の肖像画を見上げていたユーグ卿が、ゆったりと彼の方を振り返った。
「なんだか恐ろしくはございませんか?」
「彼女が……バノイ一世と……何か関係があると……?」
バラン隊長の声は少し掠れていた。
ユーグ卿は頭を振る。
「わかりません……ただ、無関係だとはとても思えないのです……」
それは彼も同じだった。
黒い瞳に黒髪というのは、いないことはないがよくある組み合わせでもない。
それに「生成り」の肌にあの目鼻立ち。
バラン隊長の背筋が震えた。そういう目で一度見てしまうと、どんどん似ている気がしてくるのだ。
「同じ血族ということか……?」
ユーグ卿は答えなかった。同じことを考えているのだろう。
「ーーバノイ一世と同じ血族だったとして、どういうことになるんだ?」
突然若い声が紛れ込んだ。
バラン隊長とユーグ卿が振り向くと、若い貴族男性が室内に入って来た。
「ジルフォード」
ユーグ卿が硬い声で呼ぶと、彼は笑って片手を軽く挙げた。
「今は父の名代だ、大叔父上。陛下の許可も得ているぞ。ーー全く、父の不在にこんな怪事件が起きるとは、俺もくじ運が悪い」
彼が近寄ると、バラン隊長は一応、居住まいを正した。
彼の身分がとても高いからだ。
「ラドニア子爵殿」
「ああ、隊長殿も楽にしてくれ。面倒を押し付けられて、疲れているだろ」
ジルフォードと呼ばれた青年ーーすなわちラドニア子爵は、家柄だけでなく、容姿と能力に恵まれた高位貴族の若い男性によくあるように、いつもある種の覇気と余裕を感じさせる微笑を浮かべていたが、今はそれに少しの困惑が混じっているようだった。
「エイフォードは、いつ戻ると?」
ユーグ卿が尋ねると、ラドニア子爵は肩を竦めた。
「明後日の朝には。父のことだ、恐らく直接登城するだろう」
それを聞いてユーグ卿がほっと息を吐く。
「これで、御前会議も国務会議も落ち着くといいが」
「父が帰る前に誰かが馬鹿をしなければいいがな……大叔父上。例の女が、例えばバノイ一世の同郷とかだったとして、何か問題があるのか?」
「わからん」
ユーグ卿のあっさりした声に、驚いたのはむしろバラン隊長の方だ。
「ーーただ、もし彼女がバノイ一世の関係者だったとして、何故彼女がロウリザリエに現れたのかーー普段はカシュー男爵の鍵と陛下の鍵、2つの鍵で固く閉ざされていたロウリザリエに何故、そしてどうやって忍び込んだのかーー」
ユーグ卿はそこで一度言葉を切り、口元に手を当てて眉間に皺を寄せた。
「知っているだろうが、ロウリザリエの書物は全て確認がなされて、目録や写しは研究的背景からむしろ極秘ではないし、あの部屋に王国の重要な機密が隠されている訳ではないのだ。彼女が他国の間者とか細作だったとして、あそこに忍び込む意味があるとは思えない……しかも気を失っていた」
「あれが間者や細作には思えませんな」
バラン隊長は少女の様子を思い出して呟いた。
「ほう?」
ラドニア子爵が興味をそそられた様に目を向けてくる。
「間者や細作は、目立たぬように入り込むものです。彼女は明らかに異国風の体で、しかも言葉の訛りは一切なく、都の言葉を使う……怪しんでくれと言っているようなものです」
「なるほどね、怪しすぎて逆にね」
ラドニア子爵は、面白そうに目を輝かせた。そして、懐から一枚の便箋をユーグ卿に差し出した。
「大叔父上、早馬だ。いい知らせか悪い知らせかわからないが」
ユーグ卿はその便箋に目を通して、軽くため息をついた。何も言わずに、バラン隊長にそれを見せる。
「グアーマ前侯爵が登城とは…あのお方は本当にロウリザリエ・フリークですな。たしか、領地で孫君の結婚式では…」
「しかし、ロウリザリエの歴史研究では第一人者です。息子に家督を譲る前は、宮廷でも一二を争う実力者だった。ーー今でも宮廷で除け者にできる者はいないはずですよーー私もよく覚えています」
ユーグ卿は、軽く目を伏せる。
「彼の愛するロウリザリエに問題が起きて、腰を上げぬはずがありません」
そう、言葉を切ったとき、大きな扉を叩く音が、部屋に響いた。
「失礼、皆さま!ご報告です!グアーマ前侯爵殿、ご登城につき、皆さまに面会をご所望です!」
部屋の中の3人はぎょっとして顔を見合わせた。
「俺が先程受け取った早馬だぞ……?」
ラドニア子爵ジルフォードが、そう呆然と呟いたとき、誰かが走って、それも盛大に走って近づいてくる気配があり、思わず3人とも扉を振り向くと、先程より大きな声が彼らを呼んだ。
「ご、ご報告をっ!バラン隊長!ツェルガー侯が例の侵入者を牢から連れ出しました!ーー尋問すると言っていたそうです!!」
ラドニア子爵=ジルフォード
ユーグ卿のお兄さんの孫。