8話 あちらとこちら
遅くなり申した。
汚い表現が最後にあるので、食前食後の方はバック推奨です。
怒鳴り声が聞こえる。
ナユタは蹲って耳を塞いでいる。押し入れにはナユタが入るに丁度いいくらいの隙間が空いている。
いつも、空いている。
父が母を虐げる声が聞こえる。
父の気配に咄嗟に娘を隠した母は何も言わない。
いつも、何も言わないでいる。
瞬きも忘れたようにナユタはかっと目を開いている。
真っ暗な押し入れからは何も見えない。
でも、いつも、目を開いて時を過ごす。
「あいつぁ、何処にいるんだよ!」
たまにしか家に帰らない父が、珍しく娘に気を向ける。
「なんか言えよっ!おらっ!」
鈍い、痛々しい音がひとつ聞こえる。
息を殺すナユタの奥歯が軋む。
ガタガタと、荒々しい音がし始める。
「どこいやがんだぁ、ああ!?」
ナユタの肩が上下する。
来るな。来るな。
しばらく経っても父親は諦めなかった。
悪態を吐く声、足音が、次第に近づいてくる。
いつの間にか、閉じるのを忘れていた口の中が乾ききっている。
来るな。来るな。来るな。来るな。
一際大きい物音が、押入れを乱暴に開けた音だとナユタが気づいたとき、真っ暗のはずのナユタの眼前が白く染まった。
ナユタは目を開いた。
薄暗い牢屋には昼も夜もない。
生温い空気が肌にまとわりついていた。きっと季節もないに違いなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。
ナユタは堅い土の床に辛うじて設けられた藁の寝床に横たわっていた。
牢に入れられてからしばらくは立ち尽くしていた。
途中、粗末な食事が一度あった。
味のない野菜汁のようなものだった。
それが冷え切るまで躊躇ってから食べた。腹が減っていた。
幸い毒は盛られていなかったのか、今も目が開く。
牢の外に見張りはいるのだろうが、特に誰か様子を伺いに来るでもない。ナユタは仰向けになって、両手で顔を覆った。
一体何が起こったのか。
ここは何処で。
今はいつで。
自分はどうなったのか。
自分は何故そうなったのか。
ナユタは震えた。恐ろしくて震えた。
がばっと勢いよく身を起こした。疲れた体がいくらか軋んだ。それが、存外長い時間眠っていたのだと彼女に教えた。
ペンと紙が欲しいと思った。
状況を整理するのに使いたいからだ。
ナユタは藁の寝台に座ったまま、壁を向いてブツブツと呟いた。
「王女殿下、バラン隊長、ユーグ卿、カシュー男爵」
ナユタは首を傾げた。自分の声がおかしいと思った。
「王女殿下、バラン隊長…」
おかしいのは声ではなかった。
「お」
彼女はそれだけ声を出すと、しばらく押し黙った。
「お、う、じょ、で、ん、か」
それは納得のいく発音であった。
ナユタはブンブンと首を振った。
「王女殿下」
ナユタはかっと目を見開いた。
奇妙な感覚だった。
自分の知らない言語を、自分の知らない発音で、自分が発している。そしてその言葉を、強烈に理解している。
ナユタは自分の薄い、いくらかガサついた唇に指を当てて考え込んだ。これは恐らく『こちら』の言語だ。
取り敢えずナユタは、今自分がいるらしいこの奇妙な場所を『こちら』と呼び、もといた場所を『あちら』と呼ぶことを決めた。
ということは、牢に入る前に自分が聞いていた会話も『こちら』の言語に違いない。耳に違和感があったのはそもそも聞き慣れない言語だったからだ。
しかし、恐らく初めて出会うはずの言葉をナユタは完全に理解していた。母国語を話すように何の障害もなかった。
ひどく混乱していて思い至らなかったのだろうが、今やっと気付いたのが少し間抜けに思えた。
ナユタは振り返って、牢屋の格子を見た。
ここはどこなんだろうか。
少なくとも自分が知る『あちら』からはとてつもなく遠いに違いない。
「神隠しかぁ」
結構時間が経ったが、江角女史は心配しているだろうか。寮で騒ぎになっていないだろうか。
「……馬鹿言うなよ」
独り言ちて、ナユタは再び寝台に転がった。
しかし、すぐに石畳を叩く、靴の硬質な音が彼女の耳に届いた。
彼女がちらりと明かりのある格子の方に目を向けると、格子の前の床に長い影が差した。
ナユタはまた身体を起こした。
見覚えのある老騎士が、ナユタを苦い顔で見遣った。
「起きているようだな、具合はどうだ?」
不思議なことに、その声には確かにナユタを気遣うような色があった。
ナユタは眉間に皺を寄せて硬直していた。老騎士は首を傾げた。
「聞いているのか?それとも私を忘れたかね?侵入者の少女」
ナユタは、耳ををそばだてて聞いたその発音と、頭に流れ込む情報の乖離を理解しようとしてーー
応える代わりに、寝台を盛大に吐瀉物で汚した。
やだー粗相やだー