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1話 「こちら」の図書室

初投稿です

震える息を吐いた。


古い本の、あの独特の、僅かにかび臭さの混じる匂いはナユタの心をいくらかは落ち着けた。

部屋の片隅で小さくなって両腕で体を抱く。苛立ちに歯をかみ締めた。


「坂野さん……」


若い女の声が彼女を呼び、狭い部屋の扉が僅かに開いて光が差し込んだ。

顔を上げると、白い、清潔感のあるシャツにクリーム色のエプロンが視界に入る。

「また神崎先生になにか言われたの?」

「あやセンセ……」

「ほら」

差し出しされた缶ココアは温かかった。

胸に抱えるように両手で持ち、もう一度歯の間から搾り出すように息をついた。

じんわり手指が温まっていく。

「……あの人、ほら、私のこと嫌いだから」

「ん……、いけないよね……」

エプロン姿の若い女性はナユタのの前にしゃがんでそれだけ言った。


ナユタも、彼女がそれだけしか言えないことはよく分かっていた。彼女はただの図書室の司書なのだ。

気まずい沈黙がおりて、堪らなくなってナユタが口を開きかけたとき、男の声が部屋の外から投げかけられた。


「江角先生?」


ナユタの肩が明らかに跳ねた。江角と呼ばれた司書ははっと立ち上がり、近くの書棚にあった本を数冊引っ張り出すと慌てて出て行った。


「はい、何でしょう?」


音を立てて扉が閉まる。ナユタは四つん這いで音を立てないように扉に近づいて耳を当てた。


「お仕事中すみませんねえ、坂野が来てませんか?」

「いえ、見てませんけど」

硬質に江角女史が答えている。


「なんだ、逃げるなら取り敢えず図書室かと思ったんだけど。ほんっと、あいつ堪え性がないから」


息を詰めた。不安感か、嫌悪感かわからないが、ぞわりと毛が逆立つ感覚があった。

ナユタは唇を噛んだ。出て行ってなじりたい。お前の話に意味が見出せないだけだと言いたい。


でも、それを言っても何も生まれないのだ。


自分は変人と噂される生徒で、彼はPTAからの信望も厚いベテラン教師なのだ。


「女ってすぐ泣くしさあ……あいつなんで一位なのかわからんわ。赤井のほうがやってるし。カンニングししてるんじゃないかと思うことあるんですよね、どう思います?」

「へっ」

独り言からいきなり話を振られて、江角女史が戸惑ったのがわかる。


「(お気にの赤井氏を侮辱してるって気づかないのか、馬鹿め)」


なんなら、別室でテスト受けてやりましょうかと、なじってやりたい。でも、ただ薄暗い部屋で耳をそばだてていることしかできない。相手は権力ある大人なのだ。怖いのだ。

「まあいいわ、じゃあ、お邪魔しました」

面倒くさそうな口調から、馬鹿にしているような色が伺える。


もしかしたら、ここにナユタがいることを分かっているのかもしれない。


「(なにしに来たんだよ。来るなよ、うぜえ)」


声に出ない反抗が悔しい。しかし戦ってはいけない相手だと確かに知っている。


静かになってしばらくすると、そっとまた扉が開く。


「坂野さ……わっ」


予想以上に近くに立っていたナユタに驚いた江角女史だが、流石に抱えていた本を落とすことはしなかった。

「あ、ごめんなさい」

「いや、大丈夫だけど、聞いてたよね……」

ナユタは俯いて答えなかった。


江角女史はナユタの頭をちょっと強めに撫でた。

「ごめんね、何もできなくて……。ちょっとカード整理してくるから、それ飲んで休んでてね」

年齢が10も変わらない同性の大人は優しいし、親しみやすかった。

彼女は権力ない大人だ。だからこそほっとするが、申し訳なさもあって涙が浮かびそうになる。


「うん……」


ありがとう、とか、ごめんなさい、とか色々頭には浮かんだが口には出なかった。口に出したら、泣いてしまうに違いなかった。



また、先ほどと同じ場所に座り込み、暖かい缶のプルタブを引いた。

甘い香りが鼻をくすぐり、ナユタは、先ほどとは違った優しい息をついた。


ココアを少し啜って、冷たい、金属製の書棚にこつんと頭を預ける。白い塗装のが僅かに剥がれたそれから、今度は鉄錆の匂いがした。ココアほどではないが、慣れてしまえばそれすら良いものに思えてくる。

幾分か元気を取り戻した彼女は、薄暗い図書準備室に明かりを灯すために立ち上がった。もう5時を回っているのだ。


するとふと、いつも目のいかない書棚の高いところに並ぶ、何やら海外の童話を集めたらしい古いシリーズのハードカバーの巻数が、一つ飛んでいることに気づいた。

赤茶色の布地のカバーに、金色で「欧州童話百選」と古めかしいフォントで押してあり、厚さも2センチメートルほどで重厚感があった。

きちんと並んではいるが、1、2巻から飛んで4巻となり、7巻まである。


「迷子かね」


ナユタは手を伸ばして、何となく2巻を抜いてみようとしたが、書棚はきっちりと詰まっていて、しかも頭よりかなり高い位置にあったものだから、引き抜くのはかなり困難であった。

このまま苦戦して、ココアを零すのは流石にまずく、ナユタはあっさり手を離して、ドアの横のスイッチを押すために書棚から離れた。


部屋が明るくなると、ナユタは律儀にココアを飲み切ってから、空き缶を窓枠の出っ張りに置いて、書棚の前に仁王立ちになった。


「さて、どう、この頑固者を懐柔しようかねえ」


こういう時は、滑りが良さそうな、かつカバーの素材が柔らかそうな、そして出来るだけ薄い本を一冊選んで引き抜いてから、隙間が空いて取りやすくなったところでお目当てを取り出すのだが、古い本ばかり並ぶその段の中では、むしろその欧州童話百選が一番薄くて「まし」であり、ナユタはげんなりした。悪戦苦闘を予想して、軽く気合を入れてから1巻の背表紙に右手をかけ、左手で隣の本を押さえながらじっと力を入れると、案外それはナユタの方にちゃんと寄って来てくれた。ナユタは小さく左右に動かしながら、ゆっくりとその本を引き抜いた。


日焼けした背表紙と違い、表と裏は美しい赤の装丁で、金色の文字も少しもかけていなかった。


その埃臭さにさえ、ナユタは心踊らせた。

これはきっと、新しい、良い出会いに違いないという確信があった。


ざらりとした感触の布地を撫ぜる。

パラパラとページをめくって厚手の上質紙がきっちり編まれていることがわかると興奮さえ覚えた。

童話百選と言うから、知った話も多かろうが、これだけ古ければ翻訳の雰囲気も随分違うことだろう。


ナユタは、古い、特に英文を翻訳したあの独特の言い回しが好きだった。


ナユタは蛍光灯の光が丁度いい加減で当たる場所を知っていた。今度はそこに座り込んで赤い装丁の始めのページをいそいそと開いた。

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