ヒーロー、見参
その時、隣にいた母が出し抜けに、
「いい?これからはご近所さんに誰だかばれないように、帽子とマスクをつけて散歩しなさい」
と言ったので、僕はさすがに腹を立てた。
「なんだよそれ」
そう即座に言い返すと、母は色めきたって言うのである。
「なんだよそれ、じゃありません。だいたいおかしいでしょ、いい大人が昼間っから街中をぶらついて。私もご近所の方々に言われちゃってるのよ、息子さん何されてるのって」
うららかに晴れた五月のとある平日の昼下がりだった。僕は母と連れ立って、栃木の田舎町にある実家の近所を二人で散歩していた。僕と母の周りには水を張られたばかりの田んぼが広がり、空はどこまでも青く晴れ渡って、まったく見事な五月晴れだった。
僕は今年二十九になるが、二年前に精神病にかかって会社を辞めてしまい、それ以来実家に引きこもってニートをしている。毎日暇で暇ですることが無いので、よく散歩をするのだが、一人で歩いていても話す相手も無くつまらないので、この日は母を誘って一緒に家を出たのである。その途中で、母とのこのいさかいを起こしてしまったというわけだった。
「そりゃあ、昼間から散歩してるのは俺もそんなにいいことだとは思わない、けどいくらなんでも帽子にマスクはひどいよ。何も悪いことをしてるわけじゃないんだから。だいたい、そんな格好をしてる方が怪しいよ」
僕は歩きながらそう言った。すると母は、
「うーるーさい!ごちゃごちゃ言ってると、正巳の分はもうご飯作らないからね、散歩ももう付き合わないからね」
と、取り付く島も無く言う。初老の僕の母は時々こうしてヒステリーを起こす。それは決まってヒステリーを起こした原因となる物からストレスをかけられて、それに耐え切れなくなったからで、この場合は息子である僕が働いていないという現在の境遇が、その原因となる物に当たるわけだった。
僕は母の言葉にもはや怒りというよりも悲しみを感じた。実の親に、ここまで言われなくてはならないのかという悲しみである。僕はもう争うのはやめ、彼女をなだめにかかった。
「・・・わかったよ、これからはあんまり昼間に散歩に出かけないようにするから。だから帽子とマスクはかんべんしてよ」
こう下手に出ると、母の方でも態度を軟化させた。それでもヒステリックな興奮は残ったままだから、今度はオーバーに僕をいたわることになった。つまり、
「・・・ホントにねえ。正巳が悪いわけじゃないのよ。会社が、あの会社が悪かったのよ」
と言いながら、両眼に涙をいっぱい溜めて声を震わせたのだった。
僕と母の前には、そんな僕たちの喧嘩も知らず、のどかな田んぼ道が続いていた。
*
湯船に身を任せ、肩まで湯に浸かると、ちゃぽ、という気持ちのいい湯の音とともに、ふうとひとつ息が出た。
母との散歩から実家へ帰ってきて、しばらく自分の部屋でテレビゲームをした後の、夕方のことだった。僕は早くも風呂に入っていた。
僕が足を伸ばしても、ゆうゆうと入れる大きな浴槽。自動で湯が沸かせ、追い炊き機能もついている。それらの機能がついたパネルが、湯気の向こう、僕の目の前の壁についている。しかしもちろん、この風呂のある家を建てたのは僕ではない、父だ。
――自分には一生こんな風呂のついた家を建てることはできないかも知れないな、僕は風呂に浸かりながらそんなことを思った。母にあんなことを言われた後だと、自然と考えることもネガティブになる。二十九歳、無職独身彼女無し、精神障害持ち。
(どうすんだこの先、え?どうすんだよ)
心の中で、もう一人の自分が叱咤してくる。
(どうするって、今は病気でバイトもできないんだから、とりあえず現状維持するしかないじゃないか)
(病気!病気って!果たして治るんですかね?治らなかったら一生、現状維持ですか?)
(・・・うるさい)
心の声を振り払うかのように、僕はとぷん、と頭まで湯に潜った。ぎゅっと目をつむり、ぷくぷくと少しずつ口から泡を吐く。水面が波立つ音が響いてくる。
(もういっそ、このままお湯からあがらずに、窒息死してしまえば)
胎児のように膝を抱える格好で湯に潜りながら、僕はそんなことをふと思った。しかし、もちろんそれは考えてみるだけで、実際には実行するだけの勇気もない。やがて息が苦しくなり、ばしゃ、と大きな音を立てて湯から顔を出した。
「ぷはあっ」
ぎりぎりまで我慢して潜っていたものだから、ぜえぜえと息が切れた。濡れた髪の毛から、湯船へと水がしたたる。
「・・・」
何やってんだろう、と僕は一抹のむなしさを覚えた。と、その時だった。僕から見て左手にある浴室の扉が、突然勢いよく開かれた。
「よっしゃっしゃっしゃい」
扉が開かれると同時に、空気の流れに乗って扉の外へと湯けむりが吸い込まれていく、その先から知らないおじさんが浴室に入って来たのである。
おじさんは素っ裸に眼鏡という格好で、中年太りでだらしない体をしていた。体毛が濃く、すね毛から胸毛までが、ギャランドウから陰毛、太ももの毛を通じてひとつなぎにつながっている。顔にも無精ひげが黒々と広がっていた。髪の毛は五分刈りくらいに短く刈り込まれていた。こんな得体の知れないおじさんが、恥ずかしそうに陰部を両手で隠し、そのために少し前かがみになって、ずかずかと浴室の洗い場に入ってきたわけだった。
僕は、この突如起こったわけのわからない出来事に、
「おわっ」
と小さく声をあげて、湯船の右側に、逃げるように勢いよく体を寄せた。
おじさんはそんな僕にお構いなしに、
「どうも、失礼しますよ。どっこいせいのせ!」
と言うと、洗い場の真ん中に置いてあった、風呂場用のプラスチックの椅子の上に座った。そうして、顔だけこちらを向いて、にっ、と僕に笑いかけると(その時黄色く薄汚れた、歯並びの悪い歯が僕に向かってむき出しになった)、
「いやあ、失敬。裸の付き合いの前に、まずは体を洗わなきゃね」
そう言い、前を向いて、眼鏡をかけたまま頭からシャワーを浴び始めたのである。
僕は驚きのあまり、「おわっ」と声をあげた時のままの格好でしばらく固まっていた。そうして、おじさんの方をただ見つめていた。おじさんはシャワーで頭を流し終えると、今度はボディーソープの容器のポンプを二、三度押してボディーソープを手に出し、泡立てて、すごい勢いで頭を洗い始めた。
(それ、シャンプーと違う)
僕は心の中でそう突っ込んだ。するとようやく衝撃で停まっていた思考が動き出し、呪いが解けたように行動に移せるようになった。僕はざっ、と音を立てて湯船から立ち上がり、おじさんを後ろ目に、慌てて浴室を出た。そのまま体も拭かずに裸でリビングに向かい、リビングの扉をちょっと開けた。リビングから下半身が見えないように、上半身だけ扉の向こう側に見せる格好になり、中にいる母に向かって叫んだ。
「お、お母さん、お風呂に変な人が入ってきた」
母はリビングとつながっている台所で夕食作りをしていた。僕の声に、
「はあい」
とのんきに返事をすると、料理の手を止めてこちらにやって来ながら、
「あらあら、この人は、びしょ濡れで。いいのよ、私が呼んだんだから」
と言う。
「呼んだ?あのおじさんを?」
僕がそう尋ねるのにも取り合わず、僕のそばまでやってくると、
「床が濡れちゃうじゃない!早く戻って」
扉を開けて僕の後ろに回りこみ、僕の背を押して浴室へと連れて行こうとするのである。
「ちょっとちょっと、呼んだってどういうこと」
「いいから。男同士、二人でじっくり話した方がいいこともあるそうよ」
そんな押し問答をするうちに、もう浴室の前まで来ていた。母は、
「失礼しまあす」
と、浴室の扉を開けると、
「すみません、よろしくお願いします」
と言いながら、僕を浴室に押し込み、
「それじゃ、ごゆっくり。ふふふ」
扉を閉めてしまったのである。
*
僕は再び湯船に浸かっていた。洗い場ではおじさんが体を洗っている。ボディタオルも使わずに、両手にボディーソープをつけて、肌に手のひらを滑らせるようにして全身を洗っていく。
「・・・」
僕は無言でそんなおじさんを見つめていた。相変わらず状況はつかめずにいたが、とりあえず今は母の意向に逆らわずにいよう、と思ったのである。
「びっくりした?お母さん、私の味方だったろ」
太ももを洗いながら、おじさんが話しかけてきた。洗い場の壁についている鏡を通して、再び僕ににっ、と笑いかけてくる。
「・・・」
「まあ、びっくりするのもわけないな。ちょっと待ってろ、今そっちに行って、納得のいくように説明してやるからな」
そう言っておじさんは足先まで体を洗い終えると、シャワーで泡を流した。そうしておもむろに立ち上がると、
「よっしゃ!あーいい湯だ」
と言いながら湯船に入ってきたのである。立ち上がった時、その内股にはかなり多量の泡が残っていて、僕は
(ちょっとちょっと、泡!流れてないって)
と心の中で突っ込んだが、悲しいことに実際に口に出しては何も言えなかった。
ざばーん
おじさんが湯船に入ってくると、お湯が勢いよくあふれ出た。おじさんの内股についていた泡が湯の表面に浮かび、ぱちぱちと破裂して消えていった。
僕はおじさんが入ってきたため、湯船の右側に身を寄せた。頭は相変わらず混乱し、自分がどうリアクションをとっていいのか分からず、ただ成り行きに身を任せている状態である。おじさんと僕は向かい合う格好で、互い違いに相手の体の隣に脚を伸ばして、湯船に浸かった。
僕は混乱したまま、改めておじさんの顔を見た。坊主頭で、ひげがぼうぼうに生えていることは、先ほど述べたとおりだ。顔の輪郭は、太っているせいでアンパンマンのようにぱんぱんに膨れている。目も鼻も口も大づくりで、唇は分厚く、眉太く、全体としては熊のような顔立ちだった。特に印象的なのはその目で、二重まぶたのくりくりとした意外につぶらな瞳が、水滴のついた眼鏡のレンズの向こうで常に怪しい笑みをたたえているのである。
「どうも、ヒーローです、なんつって」
おじさんは瞳に浮かべた笑みを保ったまま、出し抜けにそう言った。
「は?」
僕は意味が分からず、小さい声で恐る恐る聞き返した。おじさんはにっ、とあの笑みを僕に向けると、
「ヒーロー!見参!」
と、叫んだ。
「いやあ、ヒーローなんですよ。こんな格好しているから分かりにくいだろうけど。ヒーローなんだよ。お母さんから、君がピンチだっていう連絡がうちの会社、いや、地球防衛軍に入ってね。私が派遣され、いや、参上したわけです。だいたいの話はさっきお母さんから聞いたよ。それでちょうど君が風呂に入ってるって言うもんだから、もちろんリビングで君が出てくるのを待つって言う手もあったんだが、ここは男同士、裸の付き合いをまずしてしまってだな、君の悩みを解決してしまおうと思ったわけだ。・・・働いてないんだって?二十九なのに。それは困ったなあ。見れば全然、丈夫そうじゃないか、少しふっくらして、え?」
ここまでおじさんの話を聞いて、ようやく僕にも話が少し見えてきた。要するに僕の境遇の対処に悩んだ母が、怪しいコンサルティング会社かボランティア団体にでも相談したのだろう。そうして来た担当者が、たまたまちょっと頭のイタイ人で、人の家の風呂にずかずか入り込むわ、自分をヒーローだと言い張るわしているに違いない。それが分かると、僕の心からは混乱とおじさんに対する恐怖心が消え、代わりに怒りがこみ上げてきた。
「放っておいてください。あなたには関係の無いことです」
初対面の年上の人に対してちょっとはばかられたが、思い切って、冷たくそう言い放ってしまった。
「ちょっ、ちょっと、放っておいていいってことはないだろう、働いてないと自分も困るだろ?まあここはひとつ、どーんと私に任せてだなあ」
僕の言葉が想定外だったのか、おじさんは見るからに慌てた。
「いいです、間に合ってますから」
「いやあ、それはない、それはないって。まあ、話だけでもしようや。おっちゃん、せっかくこうやって来たわけだしなあ。なんか、働きたくない理由でもあるのか、こんないい体して。ん?」
「すみません、もう僕出ますね、のぼせちゃったんで。もうこんな風に、人の家の風呂に勝手に入ってきたりしないでください」
そう言って僕が湯船から立ち上がると、
「いやいやいやいや、ちょっと君、待ちいな!それは困るって!そうだ、おっちゃんとハローワークに行こう、明日。な、ハローワーク」
と、湯船の中でうるさく騒ぐのである。
「ハローワーク?」
「そう、そうだよ、T市のハロワ。今の状況を打破するにはまずそっからだ。大丈夫、おっちゃんがよくついといてやるから」
「・・・」
僕はおじさんの提案をちょっと思案してみた。こんな怪しいおじさんとハローワークへなんか、もちろん行きたくはなかった。そもそもおじさんと一緒でなくても、精神障害を持っている僕がハローワークなどに行ったところで、まず成果は得られず、無駄足に終わるに違いないと思えた。しかし、ここで断ると、なんだか逆恨みでもされそうな感じがして怖かった。そう思えるくらい、おじさんは浴槽の中から必死に僕をなだめ、な、ハロワ、ハロワ行こう、と繰り返してくるのである。
「はあ、・・・わかりました」
おじさんの勢いに飲まれ、ついつい同意してしまった。するとおじさんは笑顔をはじけさせ、
「よっしゃ、よっしゃ!じゃあ明日な、任せろ、私がきっとなんとかしてみせるから」
うれしそうに言うのである。
「じゃあそろそろ出ようか、もうだいぶ熱いしな。いいぞ、君先出て」
とおじさんが言うので、失礼して先に脱衣所へと出た。すぐ後におじさんも続いて出てきた。
おじさんは鼻歌を歌いながら、勝手に脱衣所にあるバスタオルを取って体をぬぐった。まったくあつかましい人だな、そう思いながら僕も体をぬぐい、下着と寝巻きにしているスウェットのセットを着た、その時だった。ふと、そばにいるおじさんを見ると、おじさんはパンツを穿いて、戦隊モノの特撮ヒーローがしているような格好の服を着ているのである。その服はひとつなぎになっているので、ダイビングスーツを着るかのように下半身から上半身へと着ていくところだった。服は全体的に黒っぽく、足先から首まであった。
「・・・」
僕はあっけにとられておじさんがその服を着ていくのを見た。おじさんは、よっ、とか、うっ、体が濡れてて引っかかる、などと言いながら、つっかえつっかえ服を着ていく。そうして首まで服を着終えると、
「悪い、ファスナー上げてくれんか」
と言って、僕に背中を向けてきた。なるほど、服の背中にはファスナーがついていて、金具は今腰の位置にあった。
「はあ」
僕は言われるがままにファスナーを首まで上げた。チー、と小気味いい音がした。
「よし、ありがとう」
おじさんはそう言いながら脱衣所にある洗面台の方を向き、鏡に体を映してしきりに上半身を左右にひねっては、自分の格好を確認している。服は、おそらく科学繊維を使っているのだろう、テラテラと光るいかにも安っぽい代物である。戦隊ヒーローの黒色を担当している戦士のそれであることが、一目で分かる。しかしテレビ等で見るその戦士と大きく違うのは、服が首までしかなく、おじさんの眼鏡をかけたひげづらが露わになっていることと、腹の部分がこれでもかというくらい突き出ているところだった。
「・・・」
僕はもはや突っ込むこともせずおじさんを眺めた。おじさんは一通り鏡に体を写し終えると、
「よし、じゃあ行こうか。お母さんに挨拶しなけりゃ」
と言った。僕は、はあ、と答えて、おじさんと一緒に脱衣所を出てリビングに行った。リビングに入ると、おじさんが大声で、
「いやあ、終わりました、お母さん」
と言った。その声につられて母が台所からやってきて、
「あらあ、お世話様でした。ありがとうございます」
と言った。
「いやいや、なんのなんの。とりあえず明日、一緒にハローワークに行くことになりましたよ。就職もまずはそこからですからねえ」
「あらまあ。本当に?よかったわあ、やる気になってくれて。本当にありがとうございます、あの、少ないですけど、これ」
と母は言って、着けていたエプロンのポケットから茶封筒を取り出し、おじさんに押しつけた。
「いや、そんな、いいんですよ」
「いえいえ、気持ちですから。本当に、気持ちだけ」
茶封筒を必死に相手の方へと押し合いするやり取りがしばらく続いて、やがておじさんが、
「そうですかあ?じゃあ、すみません」
と、結局茶封筒を受けとった。
それからおじさんと僕は携帯電話の連絡先を交換し、明日の待ち合わせの時間と場所を決めた。それが済むと、おじさんは、じゃあ今日はどうもでした、君、明日な、と言って颯爽とリビングを後にし、玄関へと向かった。
玄関の靴置き場にはすねまである黒のブーツが置いてあって、おじさんはそれを、よっ、とか、んっ、などとまた言いつつ、苦労してやっと履き、僕と母に挨拶して去って行った。