00.Conect
潮の匂いが、やけに強い朝だった。
灰色の空の下、イギリス南部の港は静かな緊張に包まれている。軍艦でも客船でもない、疎開民を乗せる小さな船の前に、父と娘は並んで立っていた。
父はきちんと整えられた髭を撫で、いつも通りの穏やかな顔でしゃがみ込む。
「少しの間だけだよ」
娘の肩に置かれた手は優しい。だが、その指先にはわずかに力がこもっていた。
幼い彼女にも、これがただ事ではないことは分かっていた。
「向こうには親切な人たちがいる。いい子にしていれば、すぐまた会える」
父は微笑む。完璧な紳士の笑みだった。
娘は小さくうなずく。泣かなかった。泣けば父を困らせると知っていたからだ。
汽笛が鳴る。
父は立ち上がり、帽子を取って軽く掲げる。別れの合図。
娘も真似をして手を振る。
船が岸を離れていく。
父の姿は次第に小さくなり、やがて灰色の港の景色に溶けて見えなくなった。
それが、最後だった─────
銃声が響く。
泥と煙にまみれた戦場で、一人の兵士が崩れ落ちる。
顔は映らない。名前も語られない。
ただ首元を濡らす赤だけが、彼の最期を確かに告げていた。
記録には、無数の戦死者のひとりとして処理される。
その中に、誰かの父が含まれている。
それだけのことだった──────
風に揺れる小麦畑。
疎開先の農村で、少女はいつも一人だった。
言葉も、空気も、どこか違う。優しい人はいたが、家族はいない。
背の高い麦の間に立ち、空を見上げる。
あの日の港と同じ色をした空だった。
その背後に、影が落ちる。
黒い手が伸びる。
口を塞がれ、甘い匂いが鼻を刺す。意識が沈む。
視界が暗転する直前、麦の穂がざわめく音だけがやけに大きく聞こえた。
揺れるトラックの荷台。
視界は袋に覆われ、断片的な音だけが流れ込んでくる。
『最新の機械化技術で兵士の生存率向上』
ラジオのニュース。
『協力者求む。高額報酬』
知らない男の声。
『警察は関与を否定――』
別の声が重なる。
世界は前に進んでいるらしかった。
その進歩の裏で、誰かが消えていくことには触れられないまま。
誰がこれを裁けるのか。
答えは、まだどこにもなかった。
それから、長い年月が過ぎる。
路地裏は、夜の底に沈んでいた。
街灯はひとつ切れている、残った灯りも頼りなく、濡れた石畳に滲んでいた。
老人は逃げていた。
荒い呼吸。もつれる足。何度も後ろを振り返るが、追ってくる足音は聞こえない。
それでも、背中に視線を感じていた。
「……誰だ……」
かすれた声が闇に吸い込まれる。
答えはない。
代わりに、コツ、と硬い靴音が一度だけ鳴った。
路地の奥、影の中に立つ人影。
長いコート。深く被った帽子。顔は見えない。
ただ、片手に握られたリボルバーの金属だけが、街灯の光をかすかに弾いた。
「ま、待ってくれ……金か? 情報か? なんでも――」
乾いた銃声。
短く、鋭く、夜気を裂く。
老人の言葉は途中で途切れ、体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
石畳に広がる黒い影が、ゆっくりと形を変えていく。
撃った者は一歩も動かない。
硝煙が薄れていくのを待ち、静かに銃を下ろす。息も乱れていない。ただ作業が終わったというだけの静けさ。
倒れた老人の顔に、帽子の影が落ちる。視線が一瞬だけそこに向くが、何の感情も浮かばない。
見覚えはない。思い出すこともない。
ただの標的。
ただの過去の残骸。
それはリボルバーをコートの内側へ戻すと、踵を返す。
靴音が遠ざかり、やがて路地は再び無音に沈んだ。
夜だけが、すべてを飲み込んでいく。
初めまして、夜鷹です。元からOCを作って設定考えるだけでしたが、本格的に話を作るのは初めてです。小説は初めてですので、お手柔らかにお願いしますorz




