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実際に見た夢

作者: 泉海
掲載日:2025/12/24

実際に見た夢を、文章にしたものです。

少しお堅い文体に挑戦した作品でもあります。

文量は2万字弱。

ノンストップで読みにくいと思いますが、出来れば目を通していただけると嬉しいです。

 ここは代々、東西の文化が入り交じる貿易地として栄えた街だという。道の脇には数々の店が立ち上り、豪華な装飾品や珍しい金品、新鮮でみずみずしい果実が溢れんばかりに売りに出される。訪れる者は皆商売人ばかりで、大きな交渉を終えるとその足で、この地での長居を好まないのか、夕陽に向かって笑みを浮かべながら悠々と去って行くのだという。街の人間は彼らを歓迎し、富と栄誉がもたらされることに大いに感謝の念を抱いているが、しかし彼らは、彼らもまた独自の文化を持つということを、この地を訪れる者たちに気付いてもらえないことに時々しんみりとして、その背中を無言で見送るのだという。

 というのが男の聞いた話であって、実際に立ち寄ってみたものの、街は高齢化が進み、過疎の中で数件の宿が細々と営業を続けているといった状況であった。噂に聞いていた活気はもはや消え失せており、押し寄せる人の波も、今ではすっかり過去のものとなってしまった。

「この街にお越しになる方は皆そのような噂を聞きつけられたようで、このような有り様をご覧になってから宿にいらっしゃると、夜中のうちにこちらで荷造りを始めて、次の日にはもう外へ出ていかれるのですよ。旅人さん、ちょうど貴方のようなお顔をしましてね」

 男は家主から鍵を渡され、質素な部屋で長旅の疲れを癒した。どうやら来る途中に思い描いた印象とは似ても似つかない有り様である。外での噂は残ってはいるものの、この街は人を惹き付ける魅力をとうに失ってしまったようだ。それが街に暮らす人々の活力にも影響しており、この街はこのまま、抗えぬ衰退の一途をたどるのだろう。

 …しかし、と思う。しかし、こんなにも外からの干渉が薄い地域だからこそ、古くから変わらずに残され続けてきたものがある筈だと。そこにはかつての繁栄の跡があり、私を喜ばせるに足る価値を秘めているやもしれぬ。それが物なのか光景なのか、はたまた彼らの風習や言葉なのかは分からないが、とにかく、私は明日を楽しみに待とうと思った。

 翌日、男は余裕をもって目覚め、部屋を退出した後街中を散策することに決めた。家主は男がもう一泊まりすると伝えると、目を見張り驚きを隠しきれない様子であったが、またもとの冷え固まった表情に戻り、

「何にもありませんよ、この街には」

と沈んだ声で言い返した。男はとりあえず一晩分の代金を支払い、釣に少々の錆びれた銭を受け取った。

「また今夜お待ちしております」

 宿の扉はとても傷んでいて、ミシミシという軋んだ音をたてて開くと、表から白い光が溢れ出した。

 よく晴れた青い空の下、年期のはいった石煉瓦の建物がつらなる道の中央に、男は一人立ち止まり、人気の無さに感傷する。改めるまでもなく、街には活気が無く、そして子どもを見かけなかった。通り行く人に見境なく尋ねれば、どうやら若い者はほとんど外へ出稼ぎに行くか他の地に移住してしまったそうで、この街で暮らすには自給自足が基本となり、それを知らぬ世代にはここでの生活は困難な話だという。そして昔を知るのはもはや年老いた彼らだけとなり、この街の歴史も色褪せてきているのだとか。

「この街の歴史とは、かつての交易のことか」

「…交易。ええ、大昔はそりゃ大層よかったそうですが」

 道端の木陰で休んでいた老婆に尋ねたところ、曖昧な回答が返された。どうやらこの街の住民にとって私の抱いていた認識はとうの昔に薄れていたようで、もはや交易も、あまり馴染みのない話となってしまったようだ。

「今や昔を語る者はおらんでしょう。まあその方が良いのかもしれませんがね」

「他には、どのような歴史を」

「他に、でございますか。…こりゃ人に教えて良いものか。特に外から来られた方には…興味を持たれてはいかんからな」

 そう言って視線を切る老婆だが、男の方は何だかやるせない気が湧き起こり、後に引くのを恥じらいと感じた。

「私はある噂を聞きつけ、この街に対する興味からここにやって来たのだ。ここの住民の話を聞くのがどれほど貴重なことか、ここで培われた文化に触れることがどれほど素晴らしいことか貴方には分からぬやもしれん。ただ、何の話も伺わずに、何の収穫も得ずにこの地を去るという訳にはいかんでしょう」

 老婆は少しうつむいた様子で考え込み、それから皺れた口を重々しく開けた。

「うちの爺さんは、ある日姿を消しましてね。うちの爺さんだけじゃなく、私達の爺さん婆さんのほとんどは消えてしまったんですよ。あの頃はまだ年端もいかぬ子どもだったものでよく覚えてないんですが、未だにほとんどが分からずじまいでね。ですが皆あの事には触れないようにしているんですよ。全く嫌な話です」

「その者たちは一体何を」

「わかりませぬ。ただ」

「ただ」男は問い詰める。

「…皆、あの建物を登ったのやもしれませぬ。ほら、この街の丘を登った先、あちらに高い建物が見えますでしょう。あそこにゃ寄り付かぬようにと昔は口を酸っぱくして言われたものでした。そうでなくとも、あそこにゃ何もありゃしないのですがね。ただ、不吉なものなんて呼ばれてたせいで、良くないことが起これば皆あの建物のせいにしとるんですよ」

 老婆の指差す方を向くと、街中へと続く道の彼方に、確かに高い建築物の影が見えた。恐らくはこの土地の頂上、一番標高の高くなる場所に作られたのだろう。遠目ではあれが何なのか分からぬが、ただ、何年も前に建てられたであろう古臭さが、風化する外壁から察することが出来た。

 男は礼を言って、その方向へと歩いていった。

 血の通わぬような白い壁が、道の両側に連なっている。無彩の街に時々栄えるのは青々とした薄い若葉であり、からっとした晴天が空を覆う一方で、その葉が擦れ合いながら木漏れ日を影の上で揺らめかせている。そんな景色を楽しみながらも、あの建物を間近に眺めるため、黙々となだらかな斜面を上がっていった。

 そうして眼前にそびえるこれは、果たして何と呼べるものか、男は頭を悩ませた。山城の様ではあるが砦とも塔とも見分けがつかず、まるで神話に聞くあの混沌が起こされた場所ではないかと、空想が過った。それほどまでに不明瞭な作りであり、また、やはり古めかしかった。

 男はその建物を登ることにした。親切ながら、石工の階段が続いていたのだ。先程の不吉な噂など男の意識からとうにかき消えており、あるのは純粋な好奇心であった。この建築物は、一体何なのか。何の為に建てられたのか。そういったことを解き明かそうと、地を蹴る足は弾んでいき、疲労の色を見せることはなかった。

 大分地上から離れ、気付いたことは、この建造物が城ないしは誰かの邸宅であったということだ。石畳の先に中庭があり、そして池があり、深緑に栄える草花が整然と生えているのを見れば、ここがかつて人の手で管理されていた場所であると判別つくだろう。そして林を進んだ先にはいよいよ館が姿を現し、この敷地の広さが段々と把握できるようになると同時に、その規模に思わず感嘆の声を漏らしてしまう。

 その館を覗いてみる。扉は既に朽ちており、手を加えると簡単な衝撃で開いた。内側はというと、肖像画らしきものがいくつも飾られていたのだが、やはり古いものであるらしく、およそルネサンスを迎えた写実的な絵画であるとは思えないようなものが多く並んでいた。さしずめ十二、三世紀の中世欧州といったところ。そのような特徴のある描画であった。勿論、より現代に近付いた、写実的で繊細な肖像も中にはあるが、そのようなものは私と同じく、過去にここを訪れ、そのままこの地域の領主へと上り詰めた一族のものであろうと見当をつけた。つまりは後からやって来た外部の者であり、この建造物との直接的な関わりは無いだろうというのが私の見解であった。

 肖像の他には、風景画も並んでいた。私はそちらにはあまり明るくないもので、それがどのような画風や文化に属し、いつ頃描かれたものであるかは分からなかった。ただ色彩の豊かさを見るに、交易の盛んな地域で描かれたものであろうとは思った。豊富に顔料の入手出来る場所でなければ、このような味わい豊かな色彩は作れないからだ。ならばこれも、やはり後からやって来た者たちの手によるものだろうか。そう考えたのだった。

 そうして今度は、書斎に目を通した。こちらも中々面白く、古ぼけた紙の束から厚い表紙の貼り付けられた蔵書まで、およそ書物の歴史と呼べるような空間が広がっていた。私は試しに一つ、蔵書を手に取ってみようとしたのだが、そうすると耳元で、何かが囁くような感覚に陥り、手を止めた。

 思わず辺りを見回す。気のせいではないかと、そのような気もしたのだが、しかしその正体は私の近くに潜んでいた。溶け込む色をした何か、人の顔のような彫りが見え、私と天井との間を漂うようにしている。ああこれは幽霊か。遂に私も、目撃することが出来たのかと、えも言えぬ満足感が胸を過っていった。噂に聞く幽霊は、しかしどうも地味なのが残念であったが、ただ、深夜の寝静まる頃合いに現れでもしたら、やはり恐怖が打ち勝つのであろうと推察した。

 その霊に浮かぶ顔は、陰影が多く皺が見て取れた。どうやら翁のようである。その翁はと言うと、私の顔付きが恐ろしいのか、小刻みに震え固まっているのだ。私は先程のように、口を開いてくれるのを待った。

「もし、お主。こちらへはどのような用件で」

 尋ねる翁に対し私は何の答えも持ち合わせていなかった。ただ、あちらは荒らされるのを危惧しているのだと勝手ながら汲み取った私は、安心を誘うよう敵意の無いことを伝えた。

「いや、特段目的の有るわけではないが、ただこの場所が妙に興味を惹いたものだから立ち寄ったまでのことだ。なに、荒らすようなことはしないし、寧ろもし宜しければ、案内をしてもらいたいところではある」

 身の内をさらけ出すような言葉に相手が打ち解けてくれたかは分からないが、しかし徒に危害を加えられることは無かろうと踏んだ私は、書物に再び手を掛けた。

「いけません。直ぐに立ち去って下さい」

 二度の制止に思わず癪に感じた私は、翁に問い返した。

「何故だ」翁は答える。

「こちらは生ける者が立ち寄る場所ではありませんので」

「成る程。生ける者か」

「左様でございます。もしあの方に見つかれば、貴方がどんな酷い目に遭わんことか、私どもは重々承知しておりますので。ですから直ぐにでも、ここを立ち去るべきなのです」

「その方と言うのは」

「こちらに永くいらっしゃるお方にございまして、しかしその容姿は年端もいかぬ幼子の姿でございます。詳しいことは私どもも存じないのですが、ただ、ご覧になろうなどとは思わないことです」

 私は話を聞くにつれその子どもに関心を抱いたのだが、目の前に浮く翁の怯えた表情を眺めていると段々と心を打たれてきたもので、この周囲をまだ探ろうかという興味と、大人しく従おうというかという意見が胸の内でせめぎあっていた。やがて翁の表情が決して変わらぬと観念した私は、翁の言う通りにしようと決心し、この建物に対する踏ん切りをつけたのであった。

「分かった。立ち去ろう」

 私は踵を返し、元居た中庭を振り向いた。相変わらずの、深い緑に覆われた庭である。しかし張られた池の側には何だか白い物体が立っており、遠目だと何が何だか判別つかなかったのである。私は少し近付き、それがものではないことが分かると、己が身のように外様の客であろうと判断した。珍しいこともあるものだ。私は少し、鼻が高く感じられた。

 その賓客はと言うと、真っ白な髪をした少女であった。純白の衣服を身に纏い全身が白一色に染まる中、その双眼はまるでエメラルドのように光り輝いていた。容姿も端麗であり、どこか名のある高貴な家柄だろうと推察したが、果たしてその真偽は定かでない。そのように思わせる優美さを、少女が備えていたということだ。

「あら、ごきげんよう」その明るい声も、無邪気を示すかのような雅なものであった。

「ごきげんよう、お嬢さん」私は紳士に努めようと、笑顔を返した。

「こちらへは用事で?」

「いいや。強いて言えば、観光だろうか」

「そう。ねえ、いいところでしょう。ここは昔、とても賑わった都市だったのよ。今ではもう見る影もないけれど、それでも覚えてくれている人が居る。だからきっと、貴方もこの街にいらしたのね」

「そうだろうか。いや、そうかもしれない。そう言うお嬢さんは、どうしてここへ?」

「私ですか? 私はずっと前からここに居ましてよ」

「ずっと?」

「ええ」

 そこで私は、雲行きが怪しくなるのを察した。客人でないのであれば、ならば何故、このような場所に居るのか。それも一人で、である。もしかしたらここに住んでいた一族、或いはその末裔、所縁の者であり、先祖供養か何かの事情で居合わせたのかもしれない。今はこそ一人で居るが、直ぐにでも親御が迎えに来る筈だと、そう想像した。腑に落ちるには落ちるが、しかしどことなく歪で、強引な想定であった。

「旅人さん。外の世界はどうですか?」

 私は段々と恐怖を感じていった。この少女こそが先程話にあった幼子ではないかと、そう思えてきて、礼儀正しさがかえって邪悪に、無邪気な笑みがかえって不気味に映りだした。キョロキョロと辺りを見回すと、今の今まで一緒に居た筈の翁の姿はなく、それが余計に心を細くさせた。

「外? どうだろうか。良い場所もあるが、一概には言えんだろう。ここだって良い場所であるし、世界にはまだ隠れた名所が沢山眠っているかもしれない、と考えている」

 私は危ない橋を渡るような心持ちで、刺激をしないよう慎重に言葉を選んだ。

「ねえ、貴方。私とお友達になりましょう。ずっとずっと、この場所で眺めるのです。何年も何十年も何百年も、たといこの世界が滅びゆくまで、私たちはずっと一緒。素晴らしいでしょう。永遠に暮らせるなんて」

 柔らかな笑みが頬を吊り上げ、丸みのある幼き輪郭を際立てる。私はというと、そのような顔が恐ろしく思え、この無垢なる感情が災いをもたらすのではないかと危惧した。少女の発言の中身も頭にすんなりとは入って来ず、ただ永遠という言葉の重さが、私の脳の片隅に消化しきれずに堆積したのであった。

「私は…結構だ。まだ見たい景色も、訪ねたい場所もあれば、ここに留まるというのは私には耐え難いことで」

「どこへ行こうと、移ろう景色は眺められませんよ。それに、孤独じゃありませんか」

「…それでも私は、外に出て旅を続けたい」

 少女は瞳を閉ざして、そして無音の空気が流れていった。ただ突っ立つばかりであったが、しかし緊迫した流れが出来つつあるように感じ、せめて何か話してさえくれれば弁明の機会が与えられるだろうにと思うばかりであった。

「そう。貴方、拒むのね。私たちとお友達になんてなりたくないと、そう仰って、心の中では蔑んでいるのでしょう?」

「私は、そのようなことは思ってもいない。ただ、お嬢さんとの利害が一致しないと、そういうだけで、仕方のないことでしょう」

「お口は達者なようね。けれど、誤魔化しには飽き飽きです。いつも皆そのようなことを口走りますから。そして皆同じように私たちを侮るのです。お嬢さん、お嬢さんと。滑稽ですか? 真剣な話をしているのに、まるで聞こうともしない。失礼です。貴方がた」

「気を害したのなら謝ろう。そして、勝手に入り込んだことも。しかし私は、ここに留まるつもりはないのだ。申し出は有り難いが、しかし断る他ない。分かっていただけるかな」

 少女の声が次第に威圧的になるのを、私は焦りながら聞いていた。上手く意思の通じない状況が続いており、機嫌をとりながらもやんわりと断る術はないものか、このままでは宜しくないことになりそうだと、私は懸念した。

「何を言っても同じことです。私が訊いているのは、一緒に来て下さるか、それとも私の元を去るかということです」

 決断を迫られる。はぐらかせば、およそ逆効果であろうか。勿論私の腹はとうに決まっているのだが、だがしかし、きっぱりと拒否をしたところで丸く収まるのか不安であった。

「私は、ここを去ります」

 そう答えると、少女はゆっくりと瞳を開け、その双眼で私を睨んだ。

「そうですか。ならば貴方も、冷やかしに来たということです」

 その声を聞き、途端に背筋に悪寒が走った私は、とにかくその場から離れることにした。幸い少女は私を追いかけることはなく、私は物理的な距離感から安堵の息を大きく吐いた。

 酷い目に遭う。翁の話が、片隅に引っ掛かっては離れない。あの幽霊はここで何を見聞きしてきたのか。それほどまでにあの少女は恐れる対象なのかと、甚だ疑問であるのだが、しかし現に私もこのように逃げまどっているわけであり、忠告に従おうという気が行動を促しているわけである。あの少女に今のところ何もされていないにもかかわらず、そのように勝手に恐れているのは、やはり翁の言葉が先行しているからであろう。あの顔を見なければ、今も私は堂々と探索するなり下山するなり出来たのではなかろうか。

 何を怖れることがあろう。いやしかし、少女は私を仲間にしようとし、そして永遠に行き続けようと提案したのである。もはやどこまでが真であるかは分からないが、しかし、やはり私にとって危険な存在だということに代わりはないのではないか。噛み砕いて言えば、私を黄泉の国に誘おうというのが、少女の魂胆ではなかろうか。

 そうして私は、あの翁がなぜあんなにも怖れていたのか、その理由を掴んだ気になった。成る程、誘われた者たちは皆、永遠の時と引き換えに自由を失ったのだ。天寿に背くということはつまりこのようなことであり、何事からも逃れることは叶わず、ただ在り続けるという苦悩を背負うのである。まっぴら御免なのは言うに及ばないのだが、しかしああなってしまうと手の施しようもなく、憐憫を禁じ得ない。翁が妬みから私を陥れようとせず、むしろ親切心から私を守ろうとしたのは、せめてもの救いであった。人としての矜持を、今も保っている証拠になるからだ。

 とにかく、私は急いでここを脱さなくてはならない。捕まれば私も「永遠」の餌食である。ただし地の利は向こうの側にあり、下手に動いても見つかるだけであろう。相手の脅威を計り知れない以上、それは得策であるとは言えない。かと言って、いつまでも止まっていては何も解決することはなく、段々と焦燥に駆られるのであった。

 私は取り敢えず、館の中に逃げ込むことにした。隠れられる場所が多いだろうというのが決断の理由となり、頻りに備わる障害物を上手いこと利用して、何とか巻けないかと期待した。

 館は、先程眺めた程に収まる規模ではなかった。書斎などはその一部でしかなく、歩き回った感覚ではまるで荒廃した一城であった。かのワラキアを連想させる寂々とした重い空気に、どこか神秘性と忌まわしさを兼ね備えた雰囲気が漂う。そして先程の翁のように、幾人もの霊がこの建物に縛られるようにさまよっているのである。幽霊屋敷と言うのが的確な描写であろうが、しかし荘厳な造りに価値ある品々が並んでおり、私は思わず目的を見失いそうになった。

 ここには歴史が詰まっている。ただし、足を踏み入れるべき土地ではない。だからこそ遺されてきたのかもしれないが、しかしここに留まることを選択した者は居ないだろう。少なくともここに縛られた面々を拝む限りでは、皆うつむく加減はあれど、喜色は見受けられなかった。

 思い返せば、ここに来てからというもの、笑みを見せたのはあの少女唯一人であった。なぜ笑っていたのか。そのような問いは投げ掛けないが、しかしなぜ平気でいられるのか、人の幸福というものを信じがたくなる。

 気の行くままに、ただ動き回った。目指すべき指標も案内も無く、少女の目から離れたという安心を得たいだけであった。次第に隠れる頻度が高まり、そして足が動かなくなると、私は身を潜めることに意識が行っているのを自覚し、まるで自ずからこの館に縛りつけられているように感じた。この陥った状況を打破するためにも、私は決心をしなければならなかった。

 早く気が楽になりたい、というのが本心だろう。慎重に行動するのも限度があった。そして限界も近かったのだ。私は期を見て、階段の方へと一直線に走り抜けた。いずれは決断を迫られることであるが、しかしこのタイミングが吉と出るか凶と出るか、それだけが重要であって、また、それこそが気を揉んだことであった。私は私に対する重圧に堪えかねて、遂に「今」を決心した。

 走る。走る。館をあとにして、石畳を蹴る。必死に疾走する私の姿があって、しかしながら、少女はそこに居た。私を待っていたのか、それとも偶々に頃合いが重なったのかは判別出来ないが、ただ、そのような分析はもはや無意味である。私に出来るのは距離を開け逃げきることであって、再び遠退こうとする私に対し、少女は薄い笑みを浮かべ、それから風のような揺らぎを放った。念力と呼ばれるものの類いだと思うが、詳しいことを確かめる術も暇もなく、障らぬことに越したことは無かった。

 あの二本足が地を蹴り迫ってきたならば、どんなに心が軽くなったことか。小さくなってゆく少女は己が姿を消し、物理的距離的な恐怖感が私の内から晴れていった。しかし脳裏にはあの表情が焼き付き、むしろ不可視のもとで私を監視する眼が量りかねる脅威となり、一層私を怯えさせた。やはり尋常でない事態なのだと、危機感の後から現実味が脳を掠めていった。

 右往左往と逃げ惑う私に憑いて、少女は嘲笑を浴びせながらも、私の足が休まる度に目の前へと現れた。そうして現れる姿に飛びのき驚く私を眺めては、再度姿を消すことで、踵を返して逃げる私を弄んだ。楽しんでいるように見受けられる振る舞いだったかもしれない。しかし私の頭はとうに恐怖心で埋め尽くされており、相手の心情を酌むような余裕は無かった。次第に逃れる範囲を絞られていった私は、気付きながらも遂に崖際へと追い詰められた。

 再び、揺さぶる波が放たれ脳に震盪を浴びる。重い波動は地を震わせ、付近にある煉瓦の壁さえも瓦解させた。濛々とする視界に呑まれた私は、思わず片膝をついて地に顔を面した。

「お仕舞いですか?」少女が尋ねる。いいやまだだと、返す気力は残っていなかった。

「…」

 私は口をつぐみ、自分でも相手の定まらない何かに対して拝む他なかった。超理論的な何かに拮抗する、私にも助力の手が差しのべられるという道理を藁にもすがるような気持ちで模索した。そういった思考だけが健全にも機能しているのだと、私は内面で苦笑したが、それでも愚鈍な自身に賛同した。我が身の可愛さというのは、何物にも代えられないものだと思い知らされたのだ。

「それでは、貴方も今から私のお友達です。さあ、じっとしていて下さい」

 これまでかと、私の胸に諦めの気持ちが込み上げていた頃だった。館の方から浮遊する霊魂が集まってきて、少女に対し各々声を掛け出した。皆老人ばかりの掠れた声だが、思わぬ展開に私は一抹の期待を抱き、神仏に代わる助力とまで思い、座して聞いた。

「いけません。お嬢さん」誰かが発する。

「その者はまだ生きる定めにあります」

「手を加えるべきでない」

「関係のない、外様の者まで捲き込むなど」

「悲しむばかりです。嬉しいことなど、これっぽちもありませんぞ」

 私の期待は、しかしながら届かなかった。あまりにも非力で、老人たちの訴えに少女は騒音を聞くかのように耳を痛めたものの、「五月蝿い」と独りでに低く呟き、取り巻く霊一つ一つを順に睨み付けていった。それからあの波動をそれぞれの老いた頭部へとぶつけていき、目の前には吹き飛ばされる者や墜落する者が転がる、まるで横殴りの衝撃が嵐のように走っていった光景が広がった。

 機嫌を損ねた少女は、力にものを言わせ辺りを蹂躙して回った。勝手な被害妄想などと思っていた自分は、今ではもう欠片程も残っていない。怯える理由はここにもあったのだろう。ただ、しかし身体的被害など、永遠の中ではほんの微々たる問題であって、一時的な苦痛にたじろぐ彼らではなかった。

 彼らは無力ながらも説得を続けた。しかしながら状況は一向に変わろうとせず、それを察した霊体たちは、何を思ったのか、私を抱え、そして力一杯に投げ飛ばした。無論、崖下にである。驚嘆とも恐怖ともおぼつかない声をあげながら、私は真っ逆さまに、重力に押し負けて落ちていった。

 その間、不意に意識は途切れていた。目を覚ました時には既に地上に転がっており、私の体は衝撃からか所々傷んだが、大した怪我はしていなかった。幸い運は私に味方していたのだと、あの幽霊たちを浮かべながら感慨に浸った。そして何よりも、自分が今ここに生きていることに感謝し、生を噛み締めて実感するのであった。

 男は、塔の麓へと投げ出された。向こうを見れば、あの階段が上へ上へと誘っている。しかし男にはもう、それは通じない魅惑であった。そのような探求心は、痛い目に遭ってすっかりと冷えていき、またそれを向ける対象も見失っていた。それでも尚、古臭くとも頑丈にそびえるこの建造物が、男には恨めしく映った。

 躍起になった男は、壁に向かって徒に足元を蹴り返すことで、この塔の劣化を促そうとした。彼なりの抵抗であり、嫌悪感の表れでもあったが、しかしその効果は虚しく、跳ね返されるだけの足が鈍い痛みを運んできて、次第に壁へと向かう勢いも無に等しいものとなった。そうしてふと我に返った男は、自身の振る舞いに何の効果も意義も無いことを悟り、独り落胆しながら己の馬鹿な行動を思い返し嘲笑した。

 成る程。私はこういう質であったか。向こう見ずの突っ走りが好奇心に煽られ、終いには外壁を蹴って鬱憤を晴らそうとする始末。全くもって大人気なく、そして何より、愚かしい。近付くなと言われたものに一人勝手と登っていき、その先で遭った痛い目を、怒りに似た責任のようなものに換えてどこかへぶつけようとしている。しかし落ち度が有るのは唯自分にのみだということは誰に言われるまでもなく自明であって、それ故に認めるのが悔しかったのだ。

 男は傷んだ足を止め、そこらに適当に腰掛けた。じんと脈打つように染みる痛みを、どこか宙を見つめたり音に耳を傾けたりして意識を逸らせ、紛らわせたが、果たしてそのような行為に効果が有るのかは判らない範疇であった。それでも、気休め程度で充分な程怪我は軽い症状ではあった。

 そうして治まるのを待ちながら、ぼんやりと壁の方を眺めた。ただ、何となくではあるが、やはりこれも歴史の遺物なのだと、雨に打たれ風化した石材を見て考える。何世紀も前からここに遺された人工の跡。文明の跡。先程蹴った対象以外にも、汚れや酸化の歪みが見受けられ、それでいて未だ丈夫を保つ素材たち。石工の雄大さが星霜の中へと刻まれているのに対し、私は何を遂げられるのかと自省にふけった。

 男は俯きながらその周壁と地面とを照らして、若干の違和感に気付いた。色合いや質感の違いを、僅かばかり感じた箇所があったためだ。流し目ではおよそ気付かれないような些細な違いではあるが、かといって、その発見が何ら意味を持つもののようには思えなかった。およそ補修でもしたのだろう、という当たりをつけて去っていくのがおおよその人であろうと、自惚れた自尊心を抱きながらも、それでも特別意味など無いのだろうと、男は内に秘めて向かった。

 そこには小さな溝があった。人為的なものであるかは判らない。ただ、指を引っかけるに足る隙間があり、試しにその石材をどかしてみようと考えるのであった。

 男は手荷物から小さなつるはしを取り出すと、その突起を溝に差し込み、てこを用いて石材を外した。何の変哲も無い煉瓦になった石であったが、しかしやはり、他のものとは質感が異様に思えた。男は地質学など齧ってもいない全くの素人であり、従って石の種類も性質も把握などしていなかった。それでもこのように感じたのは、かつての交易の影響や上で見てきたものから、時代ごとに異なる土地の素材や様式が流入しており、これもまた交ざりあった文化の接合部だと捉えたからである。

 その後も暫く、男は石材を掘り返した。人の寄り付かないこの場所を、部分的にもなぜ補修したのか。或いは昔には、ここに何らかのものが眠っていたのか。とにかく、答えが欲しかったのだ。その為に、報われるかも分からない努力を続けた。

 結果が分かるまで、そう長くはかからなかった。と言っても、数十分を掘り返すのに費やしており、心身共に疲弊していた。

 見つけたのは、空洞であった。そこからの作業は叩き壊すものとなり、一つ一つ引き剥がすよりかは乱雑で容易なものであった。やがて覆われていた偽の地面が崩れ落ちると、足元に隠されていた階段が露になった。地下へと続く階段である。先程の経験が男の足を引っ張って放さなかったが、そういう懸念が意思を塗り替える程には続いていなかった。

 階段を十数歩降りた。その先にも空間を感じるが、光は入口で途切れてしまって、中を覗いても真っ暗にしか映らなかった。傾いた日を背に、男は仕方ないと呟いて、そこらの木から枝を広い集めて、持っていたマッチを擦り宛がった。そうして覚悟を決めたのか、男は暗闇の一室に足を踏み入れていった。

 これまた丁寧に、蝋の乗った燭台が四隅に設けられており、男は失笑を漏らすのであった。意思に反して釣られているという滑稽さは、しかしそれでも前へと進む心には敵わず、男は物色を続けることに決めた。

 火を灯し判明したことは、ここがカタコンベに代表されるような宗教的な埋葬の場だということであった。埋葬と言ったが、しかし乱雑に捨て置かれた遺骨も沢山あり、そして余りの古さが故に、これらが元から遺体であったのか判別することも叶わぬのである。石畳に覆われていたことを窺うに、特定の者たちを生きたまま閉じ込めておく意図があったかのような、そんな考えが浮かんできて、行き埋められたという推察を否定するには難く思えた。そしてこの部屋の一壁にある、それが私の視界へと映り込んだ。

 その死体は、他の者とは様子が違っていた。杭に打たれた鎖が、両の腕を吊り上げている。その鎖は赤い錆びに覆われ、死体の方も、とっくの昔に白骨化していたようで、そっと手枷に触れるだけで崩れてしまった。手首の辺りから砕けた遺骨を前に、私は何か不気味なものを感じながらも、慈愛の心を開こうとしているのに気付いた。

 その落ちた頭蓋の前に、一冊の色褪せた書物と、緑に光る結晶のようなものを見つけた。それらを拾って、私はいよいよ帰ることに決めた。日も陰ってきており、長居も気味が悪くなりそうで避けたい気が大きかったのだ。無論、あの寂れた宿にであるが、私は到着しても、家主の驚嘆の表情を尻目にしても、何も発さず、そそくさと一室に籠った。

 部屋に戻ってまず初めに、何かしらの期待を込めて、拾った書物を開くことにした。そこに表れるのが悲壮だとしても、私には覚悟があった。否、あるつもりでいたのだ。そして開かれたページにはラテンの文字が黒くぎっしりと書き連ねられており、私は面食らった、と言うよりかは困惑したのだが、手前の知識を頼りに何とか解読を試みた。解読は夜が明けるまで続いたのだが、今にしてみればさほど苦ではなかった。そのような作業よりも、この記された事実の方が私の心をすり減らせることになったためである。

 時代は十字軍まで遡る。かの交易よりも、さらに何世紀も昔の話だ。この辺りの丘はかつて主に祝福された神聖な地とされ、東西より様々な信徒が入り乱れては領有を繰り返し、簒奪し、興亡を幾度となく経験した。そこまでは一般の知識として備えているものであるが、その水面下では秘密裏に新たな信仰が芽生えていたと、この古めかしい文字は記していた。新たな信仰というのは、それら唯一神の根幹へと立ち戻り、独自の理念を基に発展し直したもので、その中心は自ずから神に身を高めようとする儀式へと移行した。歪んだ崇拝を前に非難を浴びせるのは自由であるが、その混沌とした戦争の中で人は神を疑い始めたのであろうことが、この文献から痛々しくも読み取れた。人の弱さは確かな神の存在を追い求め、そして数々の犠牲を経て、それは理論上、形になったようである。不透明な成果までが、ここに記録として記されていた。そして私は、上層で見たかの少女こそがその被検体であろうと捉えたのだ。

 訂正する。私は先程、崇拝を擁護する旨の理解を装ったが、しかし読み終えてみたところ、靄のように真偽が覆い隠されている感じがするのである。不思議と纏まりのある文章だと、最初こそやんわりと捉えていたイメージが、段々と綴られた事例に何か作為があるように感じ、そしてこの記録の大部分において欧州、主に大陸文化の価値観が働いていることを読み取った。

 私は断言する。これは十字軍、少なくともキリスト教世界側において、宗教的権威を持った者たちの手によるものだと。一度抱いた疑念は、数々の綻びを浮き彫りにしていき、その宗教者共の綺麗事の本質を暴くに至った。私の明かした実態は、そのような綺麗なものではなく、人の愚かさ、醜さを神への献身に置き換えているだけのものであった。

 始まりこそ宗教戦争の戦禍において避難民によって担われていたのかもしれないが、しかし聖地奪還を期に異教邪教と声を荒げられ、他の宗教は排斥、大衆の信仰も塗り替えられていくものだ。彼らはそれを啓蒙や布教、文明化などと包んで表したが、それはまた数世紀も後の話であり、この時代のそういった事実は明確に書かれないのが道理である。都合の悪い事実をわざわざ書き残す筈もなく、従ってこの文面にも何の侵害の跡も見つからなかった。ただ発展という言葉を用いることで、上位の信仰へと移行したことを恩恵という装いで残したのだ。その上位というのは、紛れもなく自文化への尊心であろう。

 ただし、新たな信仰と豪語するからには、既存の宗教から一線引いた独自性、加えて独立性を備えていたようである。この頃にはもう、担い手は確実に征服者の側へと移行しており、その信徒たちはまた、大筋のキリスト教から逸れた思想を持っていたと考えられる。それがここに記されたように、この地で発展したものなのか、或いは秘匿性を保つため初めから仕組まれていたことなのかは預かり知らぬところである。ただ、神への信仰というよりは、それを謳ったある種の実験場であるらしいことが、私の洞察をもって導いた答えであった。

 言わば秘密結社、カルト教団といったところであろうが、恐らくその背景には教皇を中心とした聖職者の後ろ楯があり、かの錬金術に連なる技術をもってして奇跡を作り出そうとしたのであろう。そう捉えた根拠には、あの場で見た儀式の姿と綴られる理論、その実行の姿が一致していたことがある。

 この堕落だらけの記録が述べるには、不老不死こそが探究の到達点であり、人の身を捨て魂の姿で在り続けるというのが主な指針であったようだ。魂ならば老いに敵い、また不滅であると悟ったのであろうが、何とも彼ららしい筋道である。そのような霊魂の不透明性を信仰という体系で覆いながら、問題は肉体からの脱却に突き当たった。そして魂と肉体を繋ぐ精神にも、理論は行き詰まりを見せたようである。

 最終的に至った結論として、やはり体無き存在は在り得ないとした。彼らはそれを「核」と言葉を代えたが、論ずることは我々の身体とそう変わらぬものである。ただ、その在り方については変化を見せ、この肉体の代わりに新たな器を模索し始めたという旨の記述がなされていた。人形、動物、遺物、聖骸、人造体と探究を繰り返し、彼らの得た答えというのが、鉱物であった。

 そうして今、私の目の前にはある一つの鉱石があった。あの地下室で拾ったものである。少女の瞳と同じ色をした眩いエメラルドであろうが、これがおおよそ探究の成果であるらしく、肉体を捨て去られた少女はこの石ころを核として昇華された、というのが彼らの言い分であった。少女は奇跡的に精神の崩壊に打ち克ったと、あの亡骸を前にした聖職者共は判断を下したようである。結局、死後の世界など理解の及ばない範疇であったのだろう。

 疲労もあって、私はそこで、床に就こうと決心した。日付はとうに替わっており、様々な光景が脳裏から溢れては、この一日を流していくように思い返していった。そうして気付けば眠りに落ちていた。

 翌朝はやはり遅く目覚めた。徹夜に加えて、情報の多彩さに処理がかかったのが理由であろう。普段よりも長く、そして深い眠りであった筈だ。昨日ことが響き、嫌な夢でも見るかと思ったのだが、特にそのようなこともなく、意外な心境を抱いたまま朝を迎えた。否、もうじき昼になる。

 男はとりあえずと起き上がり、脳を醒まそうと軽く体をほぐした。頭が冴えてきたところで、昨日の記憶を掘り返しては情報を整理し、自分が今、何を感じているのか意識をし始める。勿論、昨夜の字面が心に引っ掛かっているのである。そうして思い返すうちに、まず始めに抱いたのはあの少女、被検体に対する同情の眼差しであった。身の毛のよだつ体験をもってしても少女に対する認識は決して単純な嫌悪感に収まることはなく、むしろその境遇から少女の行動に一定の理解を持ち、府に落ちるものを幾つも発見した。相手を理解し始めて何が変わったかと言うと、その隔たりを無きものとしてまで、少女を糾弾しようという気が更々起こらなくなったのである。

 少女は何を思うのか。私の見た、あのまっさらな幼子は、永遠の中で情景に思いを馳せ、それで満足しているのだろうか。傍に立つ者が増えたところで、所詮は傷の舐め合いでしかない。加えて、そこには一方的な主従の体制しか存在しないのである。畏れられ、脅えられ、それでもあの霊たちは決して対等の位置に着くことは無く、また少女の経験した残酷な仕打ちに対しても推量の域を出ることは無いだろう。その実態を知るのは、この禁忌に触れることの出来た私に限られるのである。その私でさえも、かの実験の悲惨さは想像する他無い。埋もれた歴史の穴で、魂を引き剥がされ肉体を喪失した少女が居た。その悲痛な叫びは、今やどこを見ても記されてはいなく、ただ、無邪気な笑みを返したのであった。

 私には、役目があるのではないか。唯一にして両実態を知る私には、その闇に立ち向かう責任を課せられているような運命さえ感じる。けれども私は、あの場に寄り添って、共に餌食となるなど勘弁であった。理解は示せても、胸を患っても、それでも永遠という二文字は私に重くのしかかる。ただ、傍観者で居続けるという不甲斐なさと板挟みになり、その狭き間で何度も葛藤を繰り返した。往復するかのように自問自答を復唱する私は、やがて埒のあかないことを悟って、またあの場所へと向かうことに決めたのである。

 再び見た空はからっとした濃い青をしていて、天高くに浮かぶ雲が揺らいで見えた。そして私は、その光が作る日だまりの道を、振り返る未練を捨てながら歩んだ。後ろを向いてしまっては、後悔が押し寄せるだろうと感じて。或いは今にも、決心が揺らいでしまわないか心配だった。私は意気地無しだ。だからせめて、決めたことを曲げずにいる度胸が、背中を押していてほしかったのだ。

 再び塔を登った先に、すぐに目的の人を見つけた。相も変わらない清廉な姿で、風に靡く髪や衣服が、この「今」を穏やかに撫でていく。私はゆったりとした足取りで隣へと並び、少女の見つめる先を倣って眺めた。

 街を一望する景色である。寂れた灰色の建物がでこぼこの背を連ねて壁を作り、日差しから足元に人々を避難させている。所々に照り返る緑は若葉であろうが、まだ弱く、儚さを思わせるように揺らいでいる。眺める光景はどこか寂しげな陰りを見せるものばかりで、私は不意にも、哀しみを覚えた。

「貴方の瞳には、どう映りますか? この景色をご覧になって、何を感じるでしょうか」

 少女の問いかける声は、落ち着きを払った気品さで、耳障りの良い音色を奏でるかのようであった。クラシックを聴くような、安らかな調和である。その声が私と意思疎通を図ろうと接しているので、無下になど出来なかった。

「私の目には、哀しく映る」瞳を閉じて、問いかけにそう答えた。

「どれもこれも、私には空しいものばかりだ。人の心も、業も、すべて移ろい、消えていく。それなのに今この時も、あの住人たちは陰に隠れて空を見上げる。乾いた顔で、皺を浮き出して、瞳は光を写しながら根拠のない期待で明日を待とうとしている」

 空しいものばかりだ。爽快な風が吹き抜ける野外、胸を透いていく景色の前で、芯の心は復唱し、私の全身へと波紋していく。

 人という種の限界を雲上から見下ろすような景色。私は神聖を帯びた預言者にでもなったかのような錯覚で、隣には本物の主が居るようにも感じるのだ。その瞳は私と同じ者たちを捉えるが、しかし私には、その内情を推し量ることが出来ない。人の身では得られぬ境地というものを、少女は見透かすような視線に宿している。私との間には、もはや意思の繋がらない境界線が網目のように張られていて、或いは水面のように、跳ね返っては深くへと沈んでゆくのである。

「お嬢さん」私は口を開く。

「私は貴方のことを知った。あの秘匿された一室で何があったのか。私は文献を拾って、そして、その奥に秘めた書き手の性というものを探り当てた」

 お嬢さん、と私は繰り返し呼び掛ける。

「それでも私は、貴方の経た惨禍を実感として持つことが出来ないでいる。そして貴方の背負う永遠もまた、私には到底負いきれるものではないのです。それは皆も同じこと。悠久の時を過ごしてゆくには、我々はあまりにも衰弱し、疲弊し、つまりは脆すぎたのです。ただ死ねぬ体が在るだけで、潰えぬ魂が在るだけで、我々の意思はとうに綻び、そして間もなく、自我さえも喪うことでしょう」

 私は暫くの間口をつぐみ、風の音に耳をそばだてた。そして次の言葉を、この胸に探した。

「誰も、貴方の隣には立てぬのです。悲しいことですが、こればかりは仕方ない。…本当に仕方のないことです」

 翳りゆく街並みが見える。雲に遮られた光が薄暗さを演出し、やるせない非力な存在たちを静かに包み込んでいる。これが現実だ。私の目に、いつも映っていた光である。

「申し出を断るということですね。ならば何故、貴方は戻ってこられたのですか?」

 その声に呼応し、私は横顔を見据えた。刺すような視線の他はどれも可愛らしい様子であって、儚さと言うにはこの少女こそが最も相応しい対象のようであった。

 私は明瞭な声音を心がけ、重く言葉を発した。

「今日は、お別れを告げに来たのです」

 こちらを向く顔はどこか驚嘆の色を見せ、半分ばかり開いた口が私には意外なものに思われた。私を覗く瞳は水晶のように透き通っている。それでいて、深淵のように深く、未知の魅力を帯びるようであった。

「私はこの街を去ります。それを伝えに来たのです。お嬢さん。さようなら。私には貴方という存在を伝えていく義務がある。そんなこと、貴方には何の意味も興味も抱かないことでしょうが、それでも私は、必要なことだと考える。歴史の闇に葬られた貴方を、私は傍観することは出来ない。しかしながら、共に歩むことも叶わぬでしょう。さよならです。お嬢さん」

 私は胸の内をさらけ出すように、次から言葉を発していった。吹きさらしの高台でそれはとても心地好いものであり、透いた胸は代わりに清涼な空気を収納して、生き返ったような感覚を味わわせた。

「旅人さん」

少女はどこか冷たい声で、私に告げる。

「前にも言いました。言葉を代えても無駄ですと。それに私は、可哀想などと思ってもいませんし、勝手に思われるのも不愉快です。私にとって、大切なのは今なのです。それは皆さんも、きっと同じことでしょう」

「そうです。お嬢さん、貴方の言う通りだ。だから私は、勝手に自ら課すのです。貴方を風化させないために」

「迷惑です。私の幸せを断っておきながら、他所で一人、貴方の言う正義を振りかざす気ですか。そのような正しさは邪魔なだけですよ」

「ええ、何の意味も無い。私はただ、自らが満たされればそれで良いのでしょう。それが私の幸福というわけです。貴方には貴方の、そして私には私のというだけです」

 手荷物からあの小さなつるはしを取り出して、私はポケットに入れていた宝石を掴み、手のひらへと大事そうに置き直した。

「私は行けない。ですからお嬢さん、彼らとは仲良くして下さい。何より、貴方の幸福のためです。私に出来る忠言は、それくらいでしょう」

 そうして私は、つるはしの側面で逆の手を叩いた。手のひらには、砕けた緑色が光輝いていた。

 少女は、途端に姿を消した。不可視になったと言うのが、私の目から見た正確な認識であった。

 私が解読した限り、「核」を失った存在は在り続けることが不可能である。それは物質的な法則であり、科学の出した答えであるからだ。

 しかしながら、置き去りにされた命題であれば余地はまだ残っている。不滅の魂の行き場、肉体を喪失した後の自己の在り方は、かの実験であっても触れられることは無く、従って解が用意されていないのである。

 もしかしたらと、私は思う。認識が出来ないだけで、干渉を遮断されただけであって、少女は今も隣に立ち、この景色を眺めているのではないかと。これからもずっと、人知れず眺め続けるのではないかと。

 私には、預かり知らぬことである。お嬢さんの姿を見れなくなったことが少し寂しく、孤独に思えた。それでも、風の冷たさは丁度好かった。

「さようなら。お元気で」

 私は下山を決めた。一歩一歩を踏みしめて、歴史ある塔を去っていった。途中、昨日話した老婆の姿があったが、何かを決心したような顔をしていたので、声を掛けることにした。

 老婆は語った。老い先短くなった自分は、どうしても幼少の頃に見た祖父に会いたくなったと。この場所であればきっと叶うだろうという自信が過り、悪しき風習を蹴ってここまで登ってきたと。そして老婆は、上に何が有るのかと尋ねた。

「何も無いさ」私は答えた。

「けれども、貴方の祖父はきっと、ここから見守っているのだろう。何も見えず聞こえなくとも、そう思うだけで、私は充分だと感じる」

 老婆は、私の言葉を聞くや否や泣き崩れ、「きっとそうじゃ」と小さく呟いた。

「お爺さんは、きっと見ていて下さる。私が死ぬまで、一緒にいて下さる」

 すがるような言葉を並べ、老婆は窶れた足で先へと登っていった。私は見えなくなるまで、その背中を見守ることにした。

 そうして私は、街を後にする。

 移ろいもまた、良いものだ。それでも、消えていくものと永久に残るものの間で、私は自身の置き場を探していくことになる。いずれは私も、そのどちらかに与するのだ。

 あの光景が今も脳裏に過る。幸せとは何か。私はまだ、答えを知らない。






 男が街を後にするのを、少女は静かに眺めていた。その瞳に映るものを、今は誰も知り得ることは出来ない。少女の姿さえ、生ける者には知覚出来ないのであるから、その感じるところというのは全くの謎に包まれていた。

 魂の救済は、未だ程遠い。それまでは、この景色と同じく、移ろいゆくだけである。どんなに月日が経とうと、そこに選択の幅は無かった。

 いつか瞼を閉ざすまで、少女は生き続ける。それからは、ただ在るだけである。

 無垢なる少女は、いつまでも眺めている。

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