第八話 最悪で最高のコンビ(+α)結成
やる気のない聖女の、王国を救う(かもしれない)、長い一日が始まった。
アイリスは、王城の門をくぐり抜け、活気を失った王都の商業地区へと、重い足取りで向かっていた。
最初の目的地は、あの、強欲の化身――テオの元である。
商業地区は、異様な光景に包まれていた。
ほとんどの店がシャッターを下ろし、静まり返っている中で、テオが率いる「聖女アイリスファンクラブ」の支部だけが、まるで戦場のように、活気に満ち溢れていた。
いや、活気に満ちているのは、テオ一人だけだった。
「おい、そこのお前! ぼさっとしてないで、商品を並べろ!」
「そっち! 帳簿の計算が合ってねえぞ!」
彼は、やる気のないゴブリンの店員たちに、一人で檄を飛ばしながら、自ら商品を運び、帳簿をつけ、客をさばいていた。
その動きは、もはや分身しているかのように、人間業とは思えなかった。
アイリスが、その混沌の中心へと、ふらふらと足を踏み入れる。
「…テオ」
彼女の、か細い声に、金勘定をしていたテオが、顔を上げた。
「おお、アイリスじゃねえか。どうした、聖女様も、ついに、やる気をなくしちまったか? いいぜ、あんたの聖女の仕事も、俺が代行してやろうか? お布施の八割を俺にくれるならな!」
「…冗談は、やめてください…。あなたを、登用しに来ました」
アイリスは、単刀直入に、そして、ほとんど息だけで、そう告げた。
ノクトからの指令であること、王国が、悪魔の契約によって「やる気」を奪われていること、そして、テオが、その影響を受けない希望であることを、途切れ途切れに、説明した。
テオは、その話を、腕を組み、面白そうに聞いていた。
そして、全てを聞き終えると、下品な笑みを浮かべて、こう言った。
「ひひひ…! なるほどな。つまり、俺様が、この国を救う、英雄様ってわけだ。…で? その、英雄様である俺を、動かすための対価は、なんだ?」
彼は、最初から、助ける気など、さらさらなかった。
これは、彼にとって、神と、王国を相手にした、人生最大の「商談」なのだ。
アイリスは、脳内に響くノクトの言葉を、ただ、繰り返した。
「…初代国王が、悪魔と契約してまで手に入れたという、『究極においしいピクルスのレシピ』…。その、独占販売権を、あなたに」
「…ぴ、ぴくるす…?」
テオは、一瞬、拍子抜けしたような、間の抜けた声を上げた。
ピクルス。ただの、酢漬けの野菜。
それが、神からの、報酬?
(…馬鹿にしてやがるのか、あの神様は…?)
彼の顔に、失望と、侮辱の色が浮かぶ。
だが、次の瞬間、彼の、詐欺師として、そして、商売人としての、超高速思考回路が、その「ピクルス」という言葉の裏に隠された、とてつもない「価値」を弾き出した。
(…待てよ。ただのピクルスじゃねえ。「初代国王が」「悪魔と契約してまで手に入れた」「伝説のピクルス」…? …ひひ…ひひひひひ…!)
彼の口から、抑えきれない、下品な笑いが漏れ出した。
そうだ。これは、ただの食べ物ではない。
これ以上ないほどの「物語」と「ブランド価値」を持った、究極の「商品」だ!
『王家が欲した、悪魔の味! これを食べれば、あなたも王族気分!』
『一口食べれば、千年長生き!? 伝説のピクルス、限定販売!』
彼の頭の中には、すでに、数えきれないほどの、扇情的なキャッチコピーが、浮かび上がっていた。
(…売れる! こいつは、売れるぞ! 下手な宝石や、聖水なんかより、遥かに、莫大な金になる!)
テオの全身から、これまで以上の、禍々しいまでの「強欲」のオーラが、立ち上る。
「…分かった。アイリス」
彼は、目の前の、やる気のない聖女の肩を、力強く掴んだ。
「その話、乗ったぜ。で? 報酬の『独占販売権』とやらは、どういう契約になるんだ? 口約束じゃ、信用できねえからな。きっちり、神様とやらの『契約書』を用意してもらうぜ!」
一人目の駒は、こうして、あまりにもあっけなく、そして、あまりにも強欲な理由で、仲間になった。
◇
次にアイリスが向かったのは、王城の庭園だった。
二人目の攻略キャラクター、シルフィ。
彼女は、今、どこで、何をしているのか。
アイリスには、見当もつかなかった。
やる気がないため、衛兵に捜索隊を組織させる気力もない。
アイリスは、ただ、漫然と、彼女が好きそうな、花の咲いている場所を探して、歩き続けた。
そして、王城で最も美しいと言われる、薔薇園で、彼女は、ついに、シルフィの姿を発見した。
だが、その光景は、アイリスの想像を、遥かに超えていた。
「あら、綺麗な蝶々さん。待ってくださーい!」
シルフィは、薔薇の周りをひらひらと舞う、一匹の、瑠璃色の蝶を、楽しげに追いかけていた。
彼女の周りだけ、まるで、春の陽だまりのような、穏やかで、幸せな空気が流れている。
やる気のない衛兵も、虚無を感じる貴婦人も、この空間には、存在しない。
ただ、一人のエルフと、一匹の蝶が、戯れているだけ。
その、あまりに平和な光景に、アイリスは、一瞬、声をかけるのを、ためらった。
だが、彼女は、最後の気力を振り絞り、木の陰から、姿を現した。
「…シルフィ」
「あ、アイリス! 見てください! とっても綺麗な蝶々さんです!」
シルフィは、アイリスの、生気のない顔にも気づかず、無邪気な笑顔を向けた。
アイリスは、ノクトから授けられた、二つ目の「嘘」を、口にした。
それは、この純粋なエルフを、危険な冒険へと誘うための、甘い嘘だった。
「シルフィ。あなたに、お願いがあります。これから、冒険に出かけませんか?」
「冒険、ですか?」
「ええ。王国の、ずっと、ずーっと、北の方に…。地図にも載っていない、幻の、『虹色に輝くお花畑』が、あるそうなのです。そこへ、私と、テオと、一緒に行っていただけませんか?」
「虹色の…お花畑…!」
その、あまりに魅力的な言葉に、シルフィの、エメラルド色の瞳が、キラキラと、輝いた。
彼女の頭の中には、もはや、目の前の蝶のことも、王城のことも、何もかもが、消え去っていた。
ただ、まだ見ぬ、美しい花の光景だけが、広がっている。
「行きます! 私、行きます!」
彼女は、何の疑いもなく、その嘘を、信じ込んだ。
こうして、二人目の駒もまた、あまりにも純粋で、あまりにも単純な理由で、仲間になった。
◇
王城の門の前。
やる気のない聖女に率いられた、王国で最も計算高い男と、最も何も考えていない女。
史上最悪にして、最高のコンビが、ついに、結成された。
「ひひひ…! で、俺たちは、これから、どこへ向かうんだ? 契約書の保管場所ってのは、分かってるんだろうな?」
テオが、値踏みするような目で、アイリスに尋ねる。
「ええ…。古文書館に作られた、異空間の、中だそうです…」
「わあ! 虹色のお花畑まで、あと、どのくらいですか?」
シルフィが、わくわくした顔で、アイリスに尋ねる。
二人の、全く噛み合わない、しかし、エネルギーに満ち溢れた質問。
その、混沌の中心で、アイリスは、深いため息をついた。
(…胃が、痛い…)
これから始まる、長い、そして、おそらくは、とてつもなく面倒くさい冒険。
その前途を思うと、彼女の、か細い「やる気」は、再び、ゼロになりかけていた。
だが、彼女は、行かなければならない。
王国の未来のためではない。
ただ、一週間の、ポテチからの解放のために。
アイリスは、二人の手を、力なく、引いた。
「…行きましょう。私たちの、戦いが、始まります…」
その声は、およそ、冒険の始まりを告げるリーダーのものとは思えないほど、か細く、そして、やる気がなかった。