第七話 やる気ゼロの聖女、立つ
ノクトが、この理不尽なクソゲーを攻略するための二つの駒――テオとシルフィの有効性を確信してから、数日が経過した。
彼は、自らの脳内で、来るべき反撃のための無数のシミュレーションを繰り返していたが、肝心の駒を動かすための指令を、まだ、アイリスに下せずにいた。
なぜなら、彼の唯一の駒である聖女アイリス自身が、今、この国を覆う「無気力」の病に、深く蝕まれていたからだ。
「まあ、聖女アイリス様。先日の国王陛下の演説、素晴らしかったですわね。『国民よ、やる気を失うな』という、あのお言葉…わたくし、感動で胸が震えましたわ。もっとも、感動しただけで、何かを始める気には、なりませんでしたけれど。オホホホ…」
王城のテラスで開かれた、本日三回目のお茶会。
アイリスは、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けながら、内心では、もはや感情さえも消え失せた、完全な虚無を感じていた。
王国を覆う「無気力の病」は、もちろん、この場にいる貴婦人たちも例外ではない。
だが、彼女たちにとって、お茶会は、もはや楽しみではなく、何百年も続く「義務」であり「習慣」だった。
心の中では「面倒くさい」「早く帰りたい」と思っていても、貴族としての体面を保つため、まるで人形のように、ただ集まって、中身のない会話を繰り返している。
その活気のない、心のこもっていないお茶会の雰囲気こそが、アイリスの感じる虚無感を、より一層、強調していた。
(…そうですね。素晴らしい演説でした。原稿を書いたのは、私ですが…)
聖女としての責務は、最低限、果たせている。
朝は、どれほど体が鉛のように重くとも、気力で起き上がる。
公務も、式典も、笑顔でこなす。
だが、その全てが、まるで分厚いガラスを一枚隔てた、遠い世界の出来事のようだった。
目の前の、宝石のように美しいケーキも、味がしない。
ただ、ひたすらに、全てが、面倒くさい。
いっそ、このまま、意識を飛ばしてしまえたら、どれだけ楽だろうか。
彼女は、かろうじて、聖女の責任感という、一本の細い糸だけで、その精神を、この場に繋ぎ止めていた。
その、か細い糸を、無慈悲に断ち切ろうとするかのように、脳内に、ノクトの、いらだちを隠そうともしない声が響いた。
『―――おい、新人。いつまで、そんな下らないお茶会ごっこに付き合っている』
その声は、まるで静かな湖に投げ込まれた、巨大な岩石だった。
『解析は、とうに完了している。攻略キャラクターも、二人、特定済みだ。なぜ、動かん? 俺のポテチの未来が、お前のその気の抜けた紅茶の一杯で、刻一刻と、遠ざかっているのが、分からんのか』
その声には、彼女の心身を気遣うような響きは、微塵もなかった。
ただ、自らの目的が滞っていることへの、純粋な、そして身勝手な、怒りだけがあった。
(…うるさい、です…)
アイリスの心に、初めて、ノクトに対する、明確な反抗心が芽生えた。
(私だって、疲れているのです…。少しぐらい、休ませてください…)
だが、その、か細い心の声は、次の、ノクトの言葉によって、完膚なきまでに粉砕される。
『…ほう? 俺の指令を、無視するというのか? …いいだろう。ならば、こちらも、プランBに移行するまでだ』
(プランB…?)
『ああ。お前が動けないというのなら、国王に直接、勅命を出させる。この国難を解決するため、唯一影響を受けていない、テオとシルフィの二人に、全権を委任する、とな。…さて、お前という「まとめ役」なしで、あの二人が自由に動けば、どうなるかな?』
ノクトの、その言葉に、アイリスは、ぞっとした。
『テオは、まず、国を救うという名目で、王家の財産を全て自らのビジネスの投資に回し、合法的に王国を乗っ取るだろう。シルフィは、悪魔の役所を攻略する過程で、道に迷い、うっかり地獄の王との婚姻契約書にでもサインして、新たな魔王にでもなるかもしれんな。…まあ、結果的に「やる気」の問題は解決するかもしれんが、その時、この国がどうなっているかは、俺の知ったことではない。お前が、それでもいいと言うのなら、俺は構わんが?』
その、あまりにも具体的で、あまりにもあり得る未来の光景。
ノクトの、完璧な「最悪の未来予測」に、アイリスは、全身の産毛が逆立った。
自分が動かなければ、王国が、今とは別の、もっと混沌とした形で、滅びかねない。
「……………っ!」
聖女としての責任感、ではなかった。
ただひたすらに、監視役のいないテオとシルフィが引き起こすであろう、さらなる混沌への、恐怖心。
それが、彼女の、重たい心に、無理やり、火をつけた。
「…皆様、申し訳ございません。急な、野暮用を、思い出しましたので、本日はこれにて、失礼いたしますわ」
彼女は、かろうじて、完璧な淑女の笑みを保ったまま、ゆっくりと、しかし、確かな足取りで、立ち上がった。
突然の退席に、貴婦人たちが、きょとんとした顔で、彼女を見送る。
アイリスは、その視線を背に、テラスを後にした。
彼女の、自分自身との、壮絶な戦いが始まった。
一歩、足を踏み出すごとに、またベッドに戻ってしまいたい、という強烈な誘惑が、彼女を襲う。
(…テオと、交渉…。考えただけで、疲れる…)
(…シルフィを、探す…。きっと、また、とんでもない場所で、見つかるに違いない…)
次から次へと、心が折れそうになる。
その度に、脳内に、王国の財産目録をうっとりと眺めるテオの姿と、魔王の冠を被せられてきょとんとしているシルフィの姿が、思い浮かぶ。
アイリスは、涙目になりながら、なんとか、自らの足を、前へと進めた。
そして、彼女の、そのか細い決意を、後押しする、最後の一押し。
それを、神は、見逃さなかった。
『…チッ。埒が明かんな』
脳内で、ノクトの、舌打ちが響いた。
『いいか、新人。これは、取引だ。このミッションを完了させれば、特別報酬として、一週間、俺からのポテチの指令を、免除してやる。…これで、どうだ』
その、悪魔のような、しかし、今のアイリスにとっては、神の福音にも等しい、囁き。
(一週間…ポテチから、解放される…)
その、輝かしい未来を想像した瞬間、彼女の足取りが、ほんの少しだけ、確かに、力強くなった。
ノクトは、知っていた。
聖女の責任感などよりも、ささやかな「報酬」と「解放」こそが、人の心を動かす、最も強力なエンジンであることを。
アイリスは、まるで分厚い水中を歩くような、緩慢な足取りで、王城の廊下を進んでいった。
すれ違う衛兵も、侍女も、皆、彼女と同じように、生気のない、虚ろな目をしている。
城全体が、巨大な、ため息に、包まれているかのようだ。
彼女は、中庭で、ギルの姿を見つけた。
彼は、愛用の巨大な斧を、ただ、ぼんやりと、眺めていた。
「…ギル」
アイリスが声をかけると、彼は、ゆっくりと、顔を上げた。
「…ああ、姉御…。なんだか、今日は、この斧が、やけに、重いであります…」
その、あまりに弱々しい声に、アイリスは、胸が痛んだ。
だが、今の彼女には、彼を励ます言葉も、気力も、なかった。
ただ、こくりと、頷くことしかできない。
彼女は、歩き続けた。
この、終わりのない倦怠感の中で、ただ、二つのことだけを、考えていた。
一つは、一週間の、ポテチからの解放。
そして、もう一つは、この灰色の世界で、唯一、異様な輝きを放っているであろう、二人の、仲間たちのこと。
金欲の化身、テオ。
そして、本能の申し子、シルフィ。
(…あの二人なら、きっと、今も、いつも通りなのでしょうね…)
その、あまりに迷惑で、あまりに混沌とした、しかし、生命力に満ち溢れた二人の姿を想像した時、不思議と、アイリスの心に、ほんの少しだけ、闘志のようなものが、灯ったような気がした。
やる気はない。
だが、行かなければならない。
ノクトのためではない。
王国の平和のためでもない。
ただ、この、息苦しいほどの虚無感から、解放されたい。
その、ささやかな、個人的な願いだけが、今の、彼女を動かす、唯一の原動力だった。
アイリスは、王城の門を、重い、重い足取りで、くぐり抜けた。
史上最も、やる気のない聖女の、王国を救う(かもしれない)、長い一日が、今、ようやく、始まろうとしていた。