第六話 本能(だけ)で生きるエルフ
王国から「やる気」が失われ、世界が灰色に沈んでいく中、ノクトは、この理不尽なクソゲーを攻略するための駒――不徳の神官、テオを発見した。
彼の、悪魔さえも凌駕する「強欲」は、「やる気」という概念を必要とせず、この無気力の世界で、唯一、異様な輝きを放っていた。
だが、ノクトの解析は、まだ終わっていなかった。
灰色の魔力オーラに覆われた王国地図の中で、もう一点だけ。
金色の輝きとは対照的な、しかし、同じように、この世界の法則から完全に逸脱した、純粋で、清らかな、翠《みどり》色の光点が、不規則で予測不能な動きで、王城の中を、楽しげに動き回っていたのだ。
『…なんだ、これは…?』
ノクトは、眉をひそめた。
テオの強欲は、まだ理解できる。
だが、この光は、彼の論理と解析の、完全に外側にあった。
それは、目的も、意思も、そして、やる気という概念さえも感じさせない、ただ、そこに「在る」だけの、純粋な生命エネルギーの輝きだった。
『…本当か?!』
ノクトは、その光の正体を特定し、まるで信じられない不具合でも見つけたかのように、しばし、絶句した。
その頃、エルフの弓使いシルフィは、やる気を失って静まり返った王城の中を、一人、元気に散策していた。
彼女は、この国を覆う、奇妙な病に、全く気づいていなかった。
いや、正確には、気づいていたのかもしれないが、彼女の思考は、その異変を、彼女ならではの、超絶ポジティブな形で、解釈していた。
「…なんだか、今日のお城は、とても静かです。皆さん、きっと、お昼寝をしているのですね。平和で、何よりです」
彼女は、廊下の真ん中で大の字になって眠っている衛兵の横を、そっと、足音を忍ばせて通り過ぎる。
「あら、ジーロス様。そんなところで、ぼーっと空を眺めて…。もし、そのまま眠ってしまったら、風邪をひいてしまいますよ」
芸術への情熱を失い、ただ虚空を見つめているジーロスの姿を、彼女は、穏やかな休息の時間だと、完璧に誤解していた。
彼女の頭の中には、「やる気」という、高度な精神活動の概念は、そもそも、搭載されていない。
お腹が空いたから、食べる。
眠くなったら、眠る。
綺麗な花を見つけたら、追いかける。
道が分からなくなったら、泣く。
彼女の行動原理は、常に、本能と、純粋な好奇心だけに基づいていた。
悪魔の契約がターゲットとする、目的意識や、達成感といった、複雑な精神エネルギーが、彼女の魂には、そもそも、存在しないのだ。
「…お腹が、空きました」
彼女の、本能が、次の行動を決定する。
今日の目的地は、厨房だ。
昨日、料理長が、新作のハチミツクッキーを試作しているという、極めて重要な情報を、彼女は入手していた。
「厨房は、確か…あちらの廊下を、まっすぐ、でしたね!」
彼女は、自信満々に、一歩を踏み出した。
もちろん、その方向は、完璧に、間違っていた。
彼女は、鼻歌を歌いながら、長い廊下を進んでいく。
やがて、彼女の目に、一つの、見覚えのない扉が、飛び込んできた。
それは、普段は固く閉ざされているはずの、王家の宝物庫の、裏口の扉だった。
なぜか、今日は、鍵が開いている。
やる気を失った衛兵が、鍵を閉め忘れたのだ。
「あら? こんなところに、扉が。…なんだか、中から、甘い匂いがします」
彼女の、鋭敏なエルフの嗅覚が、扉の向こうから漂ってくる、微かな、しかし、極めて上質な、ハチミツの香りを捉えた。
今の彼女の頭の中は、ハチミツクッキーで、いっぱいだった。
(…きっと、厨房の、近道なのですね!)
彼女は、何の疑いもなく、その扉を開けた。
扉の向こうには、薄暗く、ひんやりとした、そして目がくらむほどの財宝で満たされた空間が広がっていた。
山と積まれた金貨の丘、人の頭ほどもある巨大な宝石、壁にかけられた伝説の英雄が使ったであろう荘厳な武具の数々。
常人が見れば、一生分の幸運を使い果たしたと狂喜乱舞するであろう、まさしくおとぎ話の世界。
だが、シルフィは、それらの財宝に、一瞥もくれなかった。
彼女にとって、金貨はただの硬い石ころで、宝石は少し綺麗なガラス玉、武具は重たくて邪魔な鉄の塊に過ぎない。
彼女の鋭敏な嗅覚が捉えているのは、ただ一つ。
その財宝の山の中心、ひときわ豪華な台座の上に置かれた、一つの美しい壺から漂ってくる、極めて上質な、ハチミツの香りだけだった。
その壺こそが、国宝級の秘薬「千年蜜」であると、彼女は知る由もなかった。
「わあ! ありました! きっと、これが、新作のクッキーの材料なのですね!」
彼女は、足元の金貨をじゃらじゃらと踏みつけながら、てくてくと、その壺へと歩み寄った。
その、あまりに無防備で、あまりに純粋な侵入者を、宝物庫を守る、古代の防御魔術が、正確に、捉えた。
壺の周囲の床から、青白い光と共に、無数の魔法の罠が、一斉に、起動する。
だが、その、侵入者を完膚なきまでに叩き潰すはずの致死性の罠は、シルフィに届く寸前で、全て、ぷすぷすと、煙を上げて、消えてしまった。
塔の最上階で、ノクトが、その信じられない光景を、観測していた。
『…馬鹿な。宝物庫の防御システムは、侵入者の「敵意」や「目的」を感知して、起動するはずだ。だが、彼女の魂には、それが、一切ない…。ただ、「お腹が空いた」という、純粋な本能しかない。…システムの、前提条件を、満たしていないのか…!』
シルフィは、自分の足元で、何かが、少しだけ光ったことにさえ気づかず、そのまま、壺の前にたどり着いた。
「いい匂いです。少しだけ、味見しても、分かりませんよね…?」
彼女が、国宝級の秘薬が入った壺に、手を伸ばした、その瞬間だった。
壺そのものにかけられていた、最後の封印魔術が、起動した。
それは、物理的な罠ではない。
触れた者の精神を、永遠に、悪夢の迷宮へと閉じ込める、強力な精神攻撃魔術だった。 だが、その魔術もまた、シルフィの前では、全くの、無力だった。
『…思考回路が単純すぎて、迷宮が構築できない…だと…!?』
ノクトのモニターに、信じられない、エラーメッセージが表示される。
シルフィの思考は、「お腹が空いた」→「ハチミツを食べたい」という、一本道。
そこに、悪夢を差し込む余地が、全く、なかったのだ。
シルフィは、ぺろり、と、千年の時を経て熟成された、神々しい蜜を、指ですくって、舐めた。
「…おいしい、です!」
その、あまりに無邪気な笑顔。
ノクトは、頭を抱えた。
テオの「強欲」も、規格外だったが、このエルフの「天然」は、もはや、この世界の法則そのものを、根底から、捻じ曲げている。
論理も、常識も、彼女の前では、一切、通用しない。
ノクトは、確信した。
この、何も考えていないエルフこそが、悪魔アウディトールの、官僚的で、論理的な、鉄壁の防御を、内側から、破壊できる、唯一の存在なのだ、と。
彼は、ついに、この理不尽なクソゲーを攻略するための、二つの、最強の駒を、手に入れた。
王国で最も、計算高い男。
そして、王国で最も、何も考えていない女。
アイリスの脳内に、新たな、そして、より一層、面倒くさい指令が、下されようとしていた。
彼女は、まだ、知らない。
自らが、この、最悪で、最高のコンビの、まとめ役という、最も胃が痛くなる役割を、押し付けられる運命にあることを。